「思い違い」(2004/06/07〜06/21号)
世の中には思い違いがある。
勘違いと言っても良いが、要するに本来の意味と違う意味で理解してしまっている
ということである。

単なる熟語の意味の取り違え位なら(ほとんどの場合)些細なことであり笑い話で
済むのだが、世の中それでは済まされない、いや済ませてはいけないこともある。

そういう事柄のいくつかをあげて、もし読者において勘違いがあれば
直して頂きたいと思った次第である。

        ・・・「情けは人のためならず」・・・

情けをかけるのはその人のためにならないと思っている人が居るようだが、
これは全くの正反対。
情けをかけると言うことは、その人のためではなく実は自分のためである
という意味である。
これは仏教から来た言葉であろう。

布施も同様で、布施をした物品が役に立つことよりも、
布施をしたことで自分の心が救われるのである。
ボランティアも同様であり、人に奉仕することで間接的に自分の価値を高める結果と
なるわけである。

        ・・・「お客様は神様です」・・・

三波春男さんが言った言葉だったか。
これは売る側が「お客様を神様だと思え」という言葉であって、
買う側が「お客は神様なのだ」と思うことではない。
商売は売る側と買う側の要求が一致してこそ成り立つ。
売る側は売れることによって得られるお金と信頼によって生計を立て、
買う側はそこに満足を求める。
売ってやっているとか買ってやっていると思ったらその商売は成立したとは言えない。

世の中にはこの言葉を完全に勘違いしている「似非客」が多い。
客のいうことは絶対であるかのように振る舞う客がいるのだ。
買ったもので何か不具合が起こった時、それを運が悪かったと思って堪え忍べとは
言わないが、正常な使い方をしていたか、ちゃんと取説は読んだかなど、
自らに非はないか問うた上で、それでもなおおかしいならメーカーや店に文句を
言うべきである。
こういう事を言えるのも日本ならではであって、アメリカでは全てメーカーや
店の責任にしてしまう。それがアメリカ流と言えばそれでも良いが、そういうことは
自国内だけでやって欲しい。
(先日、駅のみどりの窓口で、端から聞いていると明らかに己が悪いのに
窓口に文句を言っている外人がいて、非常に不快だった。
そいつのおかげで切符買うのをさんざん待たされたのだ。)

一方、売り手もこの言葉に関して十分理解しておく必要がある。
クレームは最大の情報源という考え方だ。
ある製品に対するクレームが出た時、それを解決することが
次世代製品の開発につながったり、誠意ある対応が会社の信頼・評価を
高めることとなる。
売りっぱなし、クレームに対して耳をふさぐ企業は決して大きくならない。

        ・・・「悪人正機」(歎異抄)・・・

正確には「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」
(歎異抄第3章;http://kyoto.cool.ne.jp/otera/tanni/)
というらしい。

この部分をそのまま読めば確かに「悪人」=いわゆる犯罪を犯した者
とも読めるのだが、本当はこの部分は、それまで農業などに比べて、
殺生をすると言うことでさげすまれていた猟師などに対し、他の人に
変わって必要な殺生をしているのだから、
それを罪に思う必要はなくむしろ救われる、と説いたものという
説がある。その方が正しいであろう。

歎異抄は親鸞が書いたのではなく、その弟子が聴いたことをまとめた
ものであるが、この部分の解釈は確かに難しい。
親鸞の弟子の1人ががその意図を汲み違えたと言われ、それ以降歎異抄は
許された者にしか読ませなくなったとも聴く。
(現在は文庫本として読むことが出来る。)

        ・・・

以上は慣用句であったり歴史的事実であった。
こういう事は「そういわれればそうだなぁ」と理解しやすい事例であるが、
世の中には「何が間違っているのか理解できない」「指摘されても気が付けない」
思い違いもある。

これ以降は、そういったもののなかで、私が見聞きした出来事とそれを起こした
人間(達)が持っている勘違いについてである。

        ・・・「犬を殺すな」・・・

ある時、近所の電柱に「殺さないで」というポスターが貼ってあった。
イラク戦争のことか、と思ったら「犬」の写真が貼ってあった。
どうやら、保健所で処分される犬のことらしい。
(と思うが、実は通勤途中でゆっくりしてられないので詳しくは見てない。
写真から想像した。)

ぱっと見には賛同できそうだが、実はこれも大きな勘違いがあり、
それに気づくと賛同できない。
実に直情的というか、考察が浅いというか、本末転倒な考え方だからだ。

別に犬を殺したいわけではない。
でも、飼い主から離れた犬が死ぬのはある意味仕方がない。
それは、それらの犬が自分で生きていく術を持っていないからだ。
野良犬になれば人に危害が加わる可能性があるなら、
保健所が何とかしなければならない。
保健所は、やむを得ず始末しているのだ。

保健所で飼えばいいとか、飼い主を捜したらいいとかいうのは優しいようで
実は無責任な発言だ。
飼うとして、その場所はどこにする(臭いので街中というわけにはいくまい)、
えさ代は誰が出す。飼い主を捜す手間は誰が負う。
それには時間も費用もかかる。税金からの補助なんてもってのほかだ。
かわいそうだと言うのなら、言った人がやらなければならない。
やったらそのすごさ(飼う苦労)がわかるはずだ。
感情だけで出来ることではないのだ。

捜すなら、新しい飼い主ではない、その捨てた飼い主を捜さなければならない。
そして、命を葬ろうとする事への罰を受けさせなければならない。
「殺さないで」は保健所に対して言うのではなく、
こういう連中に対して言うべきなのだ。

一時的な感情やブームだけで生き物は飼ってはいけない。
命あるののを育てると言うことは、常に責任が伴うのだ。
その命を自分が握っているということ、その重大さを自覚出来ないような奴には
ペットを飼う資格はない。

一方で、捨てる奴らをのこと糾弾せずに保健所での始末行為だけを問題にする
奴らにもまた、己の発言の幼稚さを思い知らさせなくてはならない。

        ・・・「猿を殺すな」・・・

先の件とよく似ているが、今度は文句の対象が医薬品メーカーに向けられている。
猿だけじゃなくて豚やモルモットの例もある。
簡単に言えば、人間の薬を作るために動物実験するなと言うことである。

安易に動物実験することには反対であるが、
現実問題として、薬や施術法の確認のために誰かを実験台にしなければならないのも
事実である。実際の行程ではある程度理論が確立されたら人体実験の段階に
移るが、それ以前はやはり動物実験に頼らざるを得ない。
こればっかりは理屈だけではだめで、必ず現物実験が必要なのだ。
薬は化学式や数式の組み合わせだけでは作りえないのだ。

しかも、それは各部組織が人間に近いもの、または結果が把握しやすい
動物でなくてはならない。
となると選ばれるのはマウス、豚、猿が多くなる。

今の人間の長寿は彼らの犠牲の上にあることを知っておかなければならない。
これは動物を食べなければ生きていけないのと同じ。
(菜食主義の人間でも、肉を食べている人間の助けを借りて生きるなら
同じ事。自分さえ食べなければ罪を負わないなどと考えるのはおろかである。)
人の原罪だ。
それを知らずして、単に感情だけで殺すなと言うのであれば、それは
あまりにも幼稚なことと言わざるを得ない。

本当に動物実験をやめさせたいなら、どうすれば人が健康的に生きられるか
考えろ。万が一その病気になったとき、その薬を使わずに直す方法を
考えてみろ。
また、実験が綿密かつ慎重に行われなわれないまま人での実験段階、
もしくは正式発売されたとしたら、一体どういうことになるのかもよく考えろ。

日本は長寿国と言われるが、その実は薬漬けで延命しているだけで
健康に長生きとはとても言えない状況もある。
人が薬に頼らず健康を保てる食環境、精神環境などを作っていくことが
大切なのである。

        ・・・「原発反対」・・・

この内容について説明する必要はあるまい。

確かに原発は、いや核分裂は人間にとって完全には制御出来ざるものである。
だから事故が起き、被爆で生命が奪われたりもする。
(ちなみに、「核融合」も放射能を出すが、核融合は燃料を入れないとすぐに
止まるので制御が比較的容易である。核分裂は勝手に進むので制御しきれないのである。)

だがここで、現代日本の状況も十分鑑みなければならない。
今の日本で1日、いや1時間でも完全に電気が止まったらどうなるか。
大問題になるのだ。特に最近の日本は停電する率が非常に低いだけに
余計に一端そうなった時のショックは大きい(都会に比べ田舎はまだ少し
高いようではあるが)。

今の世の中は電気なしでは動かない仕組みになっているのだ。
パソコンはもちろん電灯、空調、テレビ、信号、電車、電話は電気を使っている。
サーバーのように基本的に常時通電が原則の機器も増えている。
節電技術は進んでいて同じ物でも数年前のものに比べて格段に
省電力化されているとはいえ、全体で見れば消費電力は増えているのだ。
(というより、電気を必要とする機器が増えているというべきか。)

現在、地域によって違うが、東京電力なら実に1/4、関西電力でも1/3は
原子力発電である。
原発反対というなら、せめて家での消費電力をそれだけ下げなくてはならない。
携帯電話をばんばん使い、また最近の電気の最大の浪費物であるPCを使って
ホームページで声高に述べたりするなら、それこそ本末転倒、
偽善者と言われても仕方ない。

反対するなとは言わん。私は別に推進派ではない。
でも、反対するだけではだめなのだ。
現にそれだけの電力を使っているのだから。
火力、水力ではまかなえないのだから。
(本当はまかなえるという説もある。「まかなえない」と嘘を付いて原発を
作っているという説が。だが、その真偽が不明である以上、原発を止めることは
出来ない。)

さらに言えば、原発はその地元に多大な利益をもたらす。
各種税もそうだが(使用済核燃料税なんてものもある)、雇用も創出している。
また、原発を建ててから20年位は政府からの各種補助もあったはずである。
事実、原発が建った地方の町並みは綺麗になる。不必要なほど。
地元が「必要悪だ」というゆえんである。
こういう地元にとって見れば、都会で電気を浪費している野郎どもが「原発反対」
と叫ぶのは、「自分勝手なこと言ってんじゃないよ」なのである。

だからといって私には原発を擁護する気もないし、推進する気もない。
増設には反対である。
原発は50年しか使えない。さらに稼働後には死の灰が溜まる一方である。
(再処理してプルトニウムにして再利用しても、その後にはやはり灰が出る。)
その灰は海溝深くに沈められるか原発内の貯蔵庫に納められるかしかない。
海溝内で容器が破裂し、それが漏れだしたら・・・何万年も先の話であるが、
海洋深層水なんぞ危なくて飲めなくなるかも知れないし、
貯蔵庫は地震があったら即刻危ない。

原発は安全ななどと平気で抜かしている無知な連中がいるが、
安全だと抜かすなら原発の中に住んでみろ。電気使い放題にやると言われたら住むか?
本当に安全なら、都会のど真ん中に作ればよい。
なぜそれをしないか。言うまでもなく危ないからだ。
原発は地盤が安定している場所に建てられると言うが、柏崎のある新潟なんて
地震が結構多い。いや、日本中、どこにいても地震が来ない場所なんて無いだろう。

原発には電力事情以外の奥深い裏の事情もあるようなので、
仮に電力不足がなくても作られる(もしくは維持される)であろう。
フランスやアメリカで原発が新規に作られないのは、公に原爆が作れるからである。
だから、それらの国と日本を同様に考えてはいけない。

地方の置かれている実情を知り、又自らの生活の下地になっている状況も
考えて、いかにしたら原発を廃止できるかを考えるべきである。
「原発反対」を唱えるなと言うのではない。
言うからには自らの行動にも責任を持てと言うことである。

最近は↓こういう映画もあるようなので、見るべし。
http://www.genpatsu.bsr.jp/main.htm

        ・・・

ついでにこれも語っておけねばならないと思ったので追記する。

        ・・・「アメリカは自由の国である」・・・

ここでアメリカに自由がない等と言う気はない。
この文句については、アメリカにおける「自由」の意味を理解しておく必要がある。

アメリカにおいて根回しや談合があまり無い理由は、
「過去において独裁者が存在しなかった」というのが最大の理由であり、
またその国の成り立ちが若く、かつ本国においてそれらに辟易していた人間が
寄って作られた国であるという事実がある。

独裁者が存在した場合、必ずそこにこびる体制が出来る。
そこには根回しや談合が必ず必要となる。
日本を始め、旧体制を持っていた国家が軒並みそういう体質を持っているのは
ある意味仕方がないことである。

そしてもう1つは、特に日本のように狭い国で皆が共存していくためには
自由競争より一部制約を加えた共栄の道を探るしかないという事実もある。
現代においてもまだそれが残っているのは決して良いこととは言えないが、
だからといって急にそれが無くなればどういう結果になるかは、
今の不況の状況を見れば明らかである。

アメリカにはこういう状況が存在しないため、比較的自由が実現しやすかった
と言うこともあるが、それ以上に大きな理由がある。
それは「自由こそが力になる」と気が付いたことである。

自由を標榜しておけば、それにつられて人が集まり、がんばり、
その結果を国のものとできる。
それこそが力となる。その事実に国家として気が付いたからこそ
アメリカは自由を標榜し、それを見かけ上守っているわけである。

しかし、ここで気を付けなければならないのはその力は自国のためにだけ有効で
なければならないということである。
私が常々言う言葉に「American Justiceは正義ではない」があるが、
アメリカにとっての「正義」とは自国の利益を守ることである。
それは他国に利益でもなければ他国民の幸せでもない。
極端に言ってしまえば、アメリカの極一部の金持ち連中の利益のためでしかない。
自由もこれに沿っており、それに従わない自由は認めない。
アメリカの国益を害する自由は一切認めない。

アメリカではそういう教育が小さい頃から繰り返されている。
表面上は違うが、アメリカの教育は戦前の日本の愛国教育と何も変わらない。
「お国のために死ぬ」まで同じなのである。
すなわち「Amerca is No.1」であり、徹底した愛国主義である。
自由ということは、ともすれば愛国心も失われやすいが、
これを保つためにそうしているのである。
ことあるたびに国旗を掲げ、USAと唱えるのはそのためである。
それらの儀式こそがアメリカに住む人間にアメリカを意識させる、
いわば一種の洗脳なのである。
逆に言えば「アメリカはUSAを唱えていないと団結できない国家」なのである。
まさにその通りなのである。だから唱えさせるのである。

いや、アメリカは「愛国主義」なのではなくやはり軍国主義であろう。
似非自由付きの。新帝国主義と呼ぶ人もいるようだが。
しかし、アメリカ人でもまともな人もいる。私の数少ない尊敬する人である
ビル・トッテン氏もそうであるし、マイケル・ムーアという人も著作を
(軽く)見ればまともだ。緑の党という者を立ち上げた人もそうだ。
アメリカ人の全てがだめなのではないが、こういう極一部の悟りを開けた
人たち以外は完全に洗脳された状態にあるわけだ。

その証拠がイラク戦争の時反戦を唱えた人に対して行われた辛辣な嫌がらせである。
これはまさに戦時中日本における共産党への弾圧と同じである。
表だって秘密警察のようなところが動くことはないが、
そもそも行われている愛国教育が自然と国民にそういう行動をさせるのである。

余談である。
先日、戦時中の話を聞いた。つくづくアメリカは戦争というか人の殺し方を考えるのが
得意と見える。焼夷弾の中には油が入っていて、日本の木造の家屋を素早く燃やすように
なっていたらしい。
そして現代は劣化ウラン弾やクラスター爆弾。
敵国の軍事施設だけを破壊目的としては無用な設計といえる。
また、火災から避難した人間が川沿いに来ることを予測して、
そこで機関銃掃射をして皆殺しにした。一般市民を、である。
明らかに民間人を対象とし、そこに恐れを起こさせて戦意を消沈させるのが
目的であろう。勝つためには手段を選ばない国。それがアメリカの真実である。

アメリカに自由があるのは事実であろう。
特に行動に何かと制約が付く日本からそうのように見える。
しかし、アメリカにおけるその戦略的意味や、国情の違いを考えずして
何が何でも自由がよいなどと考えてはいけない。

一方で、今の日本では自由とわがままが完全にはき違えられているところがある。
その多くは利益だけを追求するに奔走した戦後日本のつけであり、
また戦後の腐敗した、というより芯を持たない教育による堕落である。

「自由」ほど難しく、かつ責任の重いことはないのである。
少なくとも、日本再生に必要な「自由」は、アメリカの自由ではない。
そのことをよく理解しなくてはいけない。

        ・・・

一見正義のような言葉があるが、その実体を知らずして語ることは、
かえって愚かな行為になることがある。

最近は「プロ市民」と呼ばれる連中が、自分勝手な正義感をかざして
思い違い行動を取っているのが目に付く。
嘆かわしい自体である。

事の問題の本質を問わず、現象だけを見て判断することは、
本末転倒を起こす原因となる。
常に現象だけではなく本質をとらえる努力が必要である。

笑い話で済ませられる思い違いなら良い。
しかし、きれい事だけだけしか言わない思い違いはむしろ罪だ。
実体や事実を知り、それをどうするかまで考えてなければならない。
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