「免罪符」(1993/07/21)
世の中には神仏を貴び、各地のお寺や神社に行っておまいりしたり、
お守りをたくさん買ってきたりする者がいる。
先祖を敬うとして法事をしたりお墓参りをしたりする。

それはそれで悪いことではない。良いことであるが、
しかしそういう者の中には、日頃生きている人間に対して非常にあくどいして
いる者がいる。

こういうタイプの人間には2つのタイプがある。
1つはちゃんとお参りしていれば神が守ってくれるから、
自分はどんな無茶をしてもいいと思っているもの。
もう1つは日頃悪いことをしているが、ちゃんとお参りしているから帳消しになると
思っている者である。

神仏を敬うということは、それが表だって見えるものでなければならない
ということはない。
これみよがしにお寺には行くが他では悪いことをしているよりも、
常日頃いつも心にその姿を感じ、その前で行動し、いけないことをしない。
神仏の力を感じて自らを戒めて清く生きていく方がはるかに良い。

これみよがしにやる者の中には自分の都合だけで法事などを開き、
それに来れない者を「不信心者」としてけなす者もいる。
もっての他である。
お前のような見た目だけの信心者とは一緒に行きたくないのだ。
そう言おうとする相手の心を感じることが、こういう不届き者にはできない。

死んだ者に手を会わせて守ってくれと言う前に生きている者に対して
奉仕するべきである。生きている自らが努力すべきである。

神仏は自らの力で努力しない者は守らない。
神仏は手助けするものではなく見守ってくれるものなのだ。
心の支えをそこに求めるのはかまわない。
しかしすべてをそこにゆだねるのはいけない。
生きている者は生きている者として死んだ者の分まで努力するのだ。
その姿に対して神仏は後ろから押してくれる。
決して上から手を引いてはくれない。

結局、神仏というものは免罪符ではないのだ。
それに詣ることが大切なのではなく、それを敬いその前で愚かな行為をしないように
自らを自らの意志で戒めることが大切なのだ。
そのことを忘れてはいけない。

まずは生きている者に奉仕せよ。
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