「気の話」(2004/03/29、04/05、05/31号)
世の中には「気」というものがある。
この「気」については科学的解明がされていないだけにオカルト的
雰囲気があるが、確実に存在する。
いきなり「存在する」と断定したが、あるものはあるので仕方がない。

この際「気」が何であるかは、「最初は」あまり追求しない。
結果的に「自分」に与えられる影響力の総称ととらえればよい。
「何かを感じる」という場合の「何か」が「気」である。

「気」にはいくつかの種類がある。
自然が人間に与える「気」、物が持っている「気」
人間の集まりが持っている「気」、個人が持っている「気」等がある。
それぞれについて見解というか実体験を述べていこう。

        ・・・自然が人間に与える「気」・・・

山や海辺などに行くと、体調や気分が良くなることがある。
リラックス出来るわけだ。いや、逆にある種の緊張感が漂っている場合も
あるが、それで心地よかったりする。
それは、草木が作り出す何かの成分によりそうなるのだ、
という話を聞いたこともあるが、草木だけでなく、地面からも
力を感じる。海中でも、魚の多い場所に来ると何かしらの「気」、
水の良さみたいな物を感じる。生命にあふれている場所には、
良い「気」があるようだ。

また、山の中に行くと、何も音がしていないはずなのに非常に大きな、
でも嫌じゃない圧力を全身に感じることがある。
人間には聞えない周波数で大音量の音が出ているのかもしれない。
しかし、それを自然の持つ「気」としてとらえても問題はない。

        ・・・

ちょっと感じは違うが、もう1つ自然が持つ気がある。
毎日同じ道を歩くのに、ある時は非常に軽々歩けるのに
ある時はなかなか体が進まないような気がすることはないだろうか。

これは、そのときのその回りの気の流れによる。
そのときの気の流れが自分の進む方向と同じなら滑るように歩けるし、
逆だと体が進まない感じがする。
歩みの軽やかさは、まさに空気の流れの違いで感じられる。

これは、周囲の気が自分の気と同じ方向を向いているか、
自分の気が周りの気と同調出来るかどうかによるのかもしれない。

土地が持っている「気」の流れを地脈と言ったりする。
地脈の流れに沿えばにとは歩きやすいし、建物を建てれば長持ちするし、
住む人は病気はしにくいし、使う物は壊れにくい。こういう土地を
「いやしろ地」というらしい。この逆が「けがれ地」だ。
地脈は固定ではなく動くこともある(大きな筋はあまり動かないようだけど)。
人間がむやみに地脈を断つとえらいことになったりするので、
安易に土地を掘ったりしてはいけない。

毎日同じ道を歩いて感じ方が違うと言うことは、地脈そのものの変化というより、
そこへ流れ込む気の変化なのかもしれない。
もちろん自分の気の調子の変化もあるが。

        ・・・物が持っている「気」・・・

私がS社に勤めていた時のこと。そのビルには4本のエレベーターがあったが、
ボタンを押したらどのエレベーターが来るかはわからなかった。
コンピューターが最適なエレベーターを回すようになっていたからである。

が、私にはだいたいどれが来るかわかった。
私が前に立った場所のエレベーターが軒並み来るので、
当時の上司が「なんでわかるんだ?」と聞いてきたことがあった位だ。

私にもなぜ当てられるのかと言われるとはっきりは答えられないが、
そこに来る気配を感じられたのである。
別に音を聞いているとか言うのではない。
これがエレベーターの持っていた「気」である。

物にも、使って欲しいという気とそうでない気がある。
これが物との相性になるのだろう。
そもそも、一目見ただけで欲しくなる物というのは、
自分との相性=気の同調性が高い物なのであろう。
そういう言う物を使うと自然気の流れが良くなって、物事が
はかどるようになる。

たかが物1つといえども、その選択には「気合い」が必要なのである。

        ・・・人間の集まりが持っている「気」・・・

大都市の駅に行くとすごい人で、その流れと逆方向に行くとか、
間をすり抜けて向こう側へ行くなど無理なように見えることがある。
東京もすごいが、大阪梅田近辺や、混雑時の京都駅などへ行くとそう思う。
が、実際に進んでみると結構すんなりいけたりする。

人の流れにも「気」が関係している。
多くの人は気の流れに乗って動いているからだ。
そして、この流れには必ず切れ目がある。
どんなに人が続いてきているようでも、その中に流れの切れ目が見えるのだ。
そこを見切れば人の流れに逆らって進むことも、横切ることも出来る。
この気の切れ目とらえられない人は人混みにもまれてしまうのである。

ではどこに切れ目があるかだが、これはそういう鍛錬をしないと見えてこない。
毎日どこにそれがあるのか、目で見るのと同時に肌で感じるように努力するのだ。
そしてもう1つ大事なのは、切れ目を作るほどに自分の「気」を高めることも
必要だと言うことだ。

絶対にここを通ってみせると思えば、人が勝手に避けて通るようになる。
自分の周りに、よけさせる気の流れが出来るのだ。
ただ、これを長く続けると当然疲れてくるので、ここぞという時だけに
やった方が良いとは思うが。

でも、大衆というものはほとんど同じ気の流れに乗っているが、
中にはそれに乗れない、もしくは乗らない人もいるので、
そういう人に出くわすとぶつかりそうになるわけである。
流されないことは良いこともあれば、それなりの苦労もあるわけだ。

        ・・・個人が持っている「気」・・・

体調が悪い日には、何もかもがうまくいかないことがある。
これもまさに「気」のなせる技である。
明るい人の周りにはよいことが集まりくらい人の周りには悪いことが集まるのも同じ。
昔「艱難辛苦を与えたまえ」と言って、結局その通りになった人がいたが、
それもまたそういう「気」になったからである。
問題を避ける気合い、幸せを掴む気合いを持たないとそうはならないと言うことだ。
もちろん、自分の「気」だけすべてが成り立つわけではないが、
自分の気をそう持っていかない限り、そうはならない。
気合いがあれば、ある程度の「艱難辛苦」は避けられるのだ。

体調が悪いわけではないが、どうもつまずいたり人にぶつかったりと
おかしい日もある。これは、気がずれているのである。
私の場合は、朝何かと細かいことが気になったりするときは
この「ずれた」状態にある。
こういう時は、やたらと臭い連中とすれ違って嫌な気分になったりする。

アイディアやネタが次から次へとわいてくる時は、
頭の中の気の流れが良いと言うことになる。

2002/4/22のNHK ETV2002でやなせたかしさんが
「描いているときには自分じゃない誰かが描いている
だから描き終わったら忘れてしまっている」と言ってらしゃったが、
よくわかる。なんかこれではオカルト的であるが、
私も、非常にのって記事が書けているときは、次から次へと
言葉が浮かんでくる。打ち込み速度の方が追いつかないくらい。
気の流れが良くなると、自分の意志を超えて行動出来るように
なると言うことだ。

そもそも、人間の体調の多くは気の流れで決まる。

東洋医学では人間の持っている「気」の流れを重視している。
確かにちゃんとしたものを食べて、疲労もためずいて、さらに気合いが
充実している時には病気はしにくい。

人間の体には本質的に病気を治す機構があるので、これをうまく動かそうと
するのが東洋医学である。薬などはその手助けをするだけであって、それだけで
病気を治すことは出来ない。

薬は、病気の元となっているウイルスなどの動きを押さえる反面、
正常細胞にもダメージを与える。
また抗アレルギー剤の場合はアレルギー反応を起こす体の免疫作用その物を
押さえるので、これまた体に負荷がかかる。
いずれの場合も、薬の成分その物は肝臓などを通じて無害化され排泄されるが、
臓器に負担をかける。これはある意味アルコールの接種と同じである。
と言うことは、過ぎると、中毒を起こすと言うことだ。
抗ガン剤クラスになると、効果がある物ほど副作用もすごい。

だから、薬は必要最小限だけ使い、後は体の免疫作用を最大限に
引き出せるようにする必要がある。
(一度体に入った「薬毒」はなかなか抜けない。)
薬の力で病原体などを弱らせている間に自分の「気」を修復し、
体の本来持つ治癒力によって直す。
これが東洋医学の基本理念のはず。

これ以上書いたら、それだけで1つの大ネタになりそうなくらいだが、
簡単に言えば、東洋医学が根っこ治療で西洋医学が葉治療だと思う。
東洋が予防医学で西洋が対処医学と言うべきでしょうか。
まあ、最近はこうきれいに切り分けできないところもあろうが。

ここで少し東洋医学について余談を述べておくと、
東洋医学を日常的に受けるのは難しいとしても、その根幹の考えである
「医食同源」は実践できる。うちでも、「後で病院で高額払うなら、
今食費をかける」ということで、食材にはケチらないようにしているし、
外食は出来るだけしない。
良いものを食べていれば、実は量も減るので(少ない量でも栄養が満足される
から)痩せもする。当然「気」の流れが良くなり、
体調も良くなる。

東洋医学で使うことのある針や灸、気功が効くかどうかはわからない。
針や灸は体内の気の流れを刺激するので効きそうであるが、
やったことがないので何とも言えない。

気功は、物を使わずに気の流れを整える方法なのであろう。
結構効くということも聞いた。

まあ、とりあえずは自分の気合いを整え充実させるという訓練だけで十分であろう。
それにはまずは自分がリラックスする方法を見つけだすこと、
心の平穏を保てるような気持ちの切り替え方法を見いだすことなどが必要である。
(私の最近の体調不良も、結局はどこも悪いところが見つからなかったが、
異常な仕事の量からストレスが溜まりまくって気の流れがおかしくなって
いたのが原因であろう。)

        ・・・

手違いで、「気の話」を終わる前に「Z−1」の紹介に入ってしまっていた。
ということで、4/5号からの続き。

        ・・・結局「気」とは何なのか・・・

では「気」とは何なのかを少し考えてみる。
もちろんオカルト的な話をする気はない。

科学的に見た時、「気」を電磁波の流れととらえる向きがある。

実は人間は電気で動いている。
こんなことを言うと「何馬鹿なこと言ってやがる」と言われそうだが、
人間の体の動き、筋肉を動かすための命令や、
各種感覚器官からの情報は、すべて神経細胞の中を電気信号として流れ、
脳から出たり入ったりする。脳の中での情報処理もすべて
電気信号に依っている。ゆえに、人間は電気で動いているというのである。

これを映画MATRIXでは「現実とは何だ。それが感覚だとするならば、
それは脳内における電気信号に過ぎない」と言っていた。
人間を異常な電磁波状況に置くと、幻覚を見ることがあるという実験結果がある。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」ならぬ「電磁波」なのである。

O(おー)リングというものがある。
正確にはバイ・デジタル・オーリングである。
このあたり「http://www.binchoutan.com/o_ring.html」を見ると、
基本理論と実践がわかる。
私が初めて聞いたのはもう10年も前のことになろうか。

人差し指と親指でオーケーの形、すなわちO型のリングを作り、
中指なので対象となる物を指さす。このリングを別の人が開こうとする時
どれ位の力で開けるかで、そのものがその人にとって良い物かどうかを
選択出来るのである。

そのものがその人にとって良い物なら開こうとするとなかなか開かず、
悪い物ならすぐ開く。
これも電気信号のなせる技だ。
人間には本能的に物を選ぶ能力があるらしい。
体によいものの時は気の流れが良くなるので、筋肉に無用な
力みがなくなり、力が効率よく出る。このため開かなくなるのだ。

なぜ携帯電話がいけないのか。それは異常な電磁波を浴びるからである。
それが気の流れを阻害する。

しかし、人間の体をすべての電磁波を浴びないようにすれば
それで良いというわけではない。
たとえば、一切の電磁波を遮蔽する電波暗室という物がある。
製品の実験時などに使うのだが、ここにしばらく入っていると
体調が狂ってくる。

地球が出来てから45億年の間、いや、地球上に生命が誕生してから
ずっと、地上には宇宙からの電磁波が常に降り注いでいるからである。
それまで防ぐとかえってだめになるのだ。
電磁波も、種類によって要・不要があるのだ。
自然界の発する電磁波なら良いが、人工的な、しかも強力な
電磁波「気」を乱すのである。

そういえば、最近のオーディオのトレンドも「気」や「電磁波」である。
まだ紹介してないが、AcousticReviveのRR7
という製品は、ある種の電磁波を発生させる装置である。
これを導入すると音が良くなったように聞える。
音響装置が同じなのにそう聞えるのは、聞く側の「気」が整えられる
からである。受け側がリラックスしていれば、音も良く聞えるわけである。

        ・・・

今まで何度かこの「気」について書こうと思ったが、
それこそ「気合い」が入らなかったので、結局そのままになっていた。
今回は、この話だけでなく、全体的にネタを書く「気合い」が高まっていたので
書き上げたのであった。

このように、「気」はネタを書く上でも非常に重要なのであった。
(特に、今のようにネタのほぼ全てを私一人で書いている状態ではね。)
そう、オタクラも「気」によって成り立っているのである。
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