「景色の話」(1997/07/24〜07/25号)
祇園祭に行ってきた。
ここ数年毎年行くが、毎年感動がある。
特にちまきなどを売る子供たちの歌い声がよい。
これを聞きに行っている部分も大きい。

        護身信心御方様は 点けてお通りなされませ
        蝋燭一本 献じられましょ

ちなみに、この子どもたちの歌声は、夜9時過ぎになると
聞けなくなるので、聞きたい人は早く回ることである。
いろいろな山で聞くことが出来るが、鯉山が一番音楽的である、
と思うのは私だけだろうか。
(他は他で情緒があるので、良い悪いということではない。)

さて、よく海外へ行く人がいる。
それ自体は別に悪いことではない。
しかし、「日本はスケールが小さい」などという人が多いのには、
ちょっと疑問を感じずにはいられない。
そんなに日本の風景はスケールが小さい、
感動を与えないようなところばかりなのだろうか。

勿論物理的に国土の大きさの限界があるから、
物理的な大きさ出て広い面積を持つ国のスケールには太刀打ちできない。
アメリカの公園などは確かに非常にでっかい。
この谷の中に大阪府がすっぽりおさまる、などというところもあるのだから、
そういういう意味ではこの言い回しは間違いではない。

しかし、日本でも相対的にでかいスケールの場所はある。
立山アルペンルート、称名滝、阿蘇、北海道などは
日本の中でもかなりスケールが大きいところだし、
そこでえられる感動は、決して外国のそれに劣らない。

        ・・・

結局、感動するかどうかは心の持ちようにあるということがわかる。
感動するこことがあればどこでも同じなのだ。
極端な話をすれば、原始の世界を見て感動する人もいれば、
月から地球を見ても感動しない(しなくなる)人もいるわけだ。

日本の風景に感動が出来ず、ただスケールの大きさだけを求めて海外へ行くなら、
単に大きいものが好き、動きが激しいものが好きなだけと、
その欲求は大きくなるばかりでとどまらない。
そして、刺激を求めるだけの心はやがて何にも感動できなくなってしまう。
新しいものを求めるだけでは駄目なのだ。

感動する心を保つこと。その方法。
それは、自らが感動を掘り起こすことにある。
簡単にいえば「観察」すればいいのだ。

いつも見慣れた風景を別の視点で観察してみる。
そこに何かが発見できたとき、その感動は、
誰かが教えてくれたものではなく、自分で作りだしたものであり、
その感動は忘れない。

真の感動とは、誰かから与えられるものではなく、
自ら作り出すものなのである。
<戻る>