「自転車免許論」(1996年09月11日〜09月13日号)
思えば、自転車を乗りはじめてもう何年経つのであろうか。
最初はこまありから始まり、友達が皆こま無しに移る中、
公園で特訓をして乗れるようになったことを思い出す。
まぁ、おおよそほとんどの人はそれと同じような過程をたどったのであろうが、
後の「訓練」によってか「思考」の違いによってか、
ある程度の年になったとき、その乗り方には大きな違いがでる。

「こいつらには自転車に乗る資格はない!」と言いたくなるのが多い。
晴れの昼間はまだしも、夜や雨の日には特にそう思う。
「自転車もやっぱり免許制にしなくては」とも思う。

なぜそう思わせるのか、どこを改善すべきなのか、
その辺を考えてみたい。

        ・・・

自転車を乗る上で、技術的な「うまい・へた」というのは、
一般の町中である限り余り関係ない。
ここで言う技術とは、たとえば「速度が早い」「コーナリングがうまい」
「坂道でも悠々登れる」「持久力がある」とかであるが、
まあ、坂道をとっとこ上がれる以外は、町中で必要なものではない。
普通の人は言うに及ばす、プロの人であっても、それなりの場所でなら必要だが、
町中では技術は関係ない。

私が言うところの「うまい・へた」とはもっと別の観点である。
これは自転車以外、車やバイクにも共通するのだが、
それは「安全に走れるか」ということである。

そういう面に注意して町中の自転車を見ると、
そらもう「へたくそばかり」である。
安全思考がぶっとんでいるのである。

        ・・・

手をポケットに入れたままの奴。
片手に傘をさした奴。雨傘日傘。
よそ見している、ふらふら運転。

夜道ではライトはつけない、そのうえ高速運転。

自転車のライトなんか役に立たない、という人も多い。
確かにあのライトでは前が明るくなって見えるということはない。
が、あれにはまったく違う役割がある。
前から来る人に自分の存在を知らせるのだ。
あのライトは自分が夜道を照らすためではなく、他人に自分の存在を
知ってもらうためのものなのだ。
原付の昼間のライト点灯も同じ理由だ。

この効果は大きい。
ライトを着けると漕ぐのが重くなっていやかもしれないが、
それ以上の安全があるのだから、勝手に消してはいけない。
もっとも、よそ見しながら運転している奴には無効ではあるが。

雨の中、傘をさしての運転。
雨の中運転するなとはいわん。
だが、そういう時はカッパでも着て両手をあけるか、
やむおえず傘の時はいつもよりゆっくり走らなければいけない。
雨の時はブレーキが効きにくいから、高速度は禁物だ。
出来れば昼間でもライトをつけて速度を抑えるべきだ。
雨の夜道で、ライトもつけず、あまつさえ「危ないぞ」などという
馬鹿は許されん。「せめて危ないからどいてください」とか下手に出ろ。
「どけ」ともいわんばかりの言い口には、思わず「ライトぐらんつけんかい!」
と言ってやった。問題外の奴である。

自転車を無茶句茶に乗っている奴には、老若男女関係ないと言える。
若くても駄目な奴は駄目だし、男でも馬鹿は馬鹿である。

自転車は、その気楽さ故に甘く考えている奴らが多いようだが、やはり
人間の数倍のスピードが出るのだから、その危険性を十分考えなければならないのだ。

世の中にはどうも「使えればどうでもいいやん」という奴らが多いように思う。
その危険性などは考えず、自分が使えればそれでよく、他人への影響など
考慮できない。

それを口で言ってもわからないのだから、いっそのこと免許にしてしまえばいい
というわけだ。

何をどう試験すればよいか、それは難しい。
免許がある自動車バイクですら、実際の運転手の質は千差万別であり、
自称ベテラン、自称上手は多くとも、実際に「うまい」と思わせるのは
数少ない。

従って、自転車の免許においても何をどうすればいいのかは難しいが、
歩く人と同じ場所にて動く高速物体だけに、自動車などとは異なる、
ある意味もっと厳格な試験が必要となる。
一発もんの試験ではなく、後々の行動まで調査するようなものが。

なんにしても、いちいち法律で決めたり、免許制などにせんと
ちゃんと出来ない奴らほど情けないものはない。
日本の教育がそういうことをなえがしろにしている、ということはあるが、
自覚・自認でやってほしいものである。
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