「日本語が好き」(2001/01/15〜02/26号)
もうすでに気づいている人がいるかも知れないが、
私は日本語が好きである。

日本の風景も好き。
日本人の気質も嫌いじゃ無い。
でも今の日本人は大嫌いだし、日本と言う国も嫌い。
日本の何が好きで何が嫌いかを書き始めると長くなりすぎるので、
今回は「日本語」だけに絞って書くことにする。

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最近よく有るのが、やたらと英語を使う表現。
「アバウト」だとか「アグリーする」とか。
簡単な日本語がありながらわざわざ英語で書き、あまつさえ括弧の中に
日本語を書いている場合もあるのだから、本末転倒である。
なんだか、「私はいったいどこの国にいるのだ?」と思うこともしばしば。
聞く苦しいったらありゃしない。

昔は、外来語に何でも日本語名を付けたが、
そういうのが必要、と言っているわけではない。
コンピューター用語なんて、その最たるものだが、そういうものは
英語表現のままでいい。

CPUは「シーピーユー」でいい。中央演算装置と言う訳はあるけど、
かえって解りにくいだろう。
システムも日本語では難しい概念かも知れない。装置全体とでも言えるだろうか。
太陽系のことは「SOL SYSTEM」と言うから、「なんとか系」
と言うと良いのかも知れない。
スピーカーは日本語では良い訳がない。音発生装置じゃちょっと違うしな。
ユーザーサポートもこれでいいだろう。消費者援護じゃ何かおかしい。
パスワード。「人の3倍働いていると嘘を付くこと」っていうのは
某社だけで通用する特殊訳だな。

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こういうものは日本語訳にするとどうしても回りくどい表現になる。
日本にもともと無かった物だからしかたない。
情報処理技術者試験に出てくるJIS用語を読めば解る。
そのまま問題を読むと解らないので、まずは一般的用語に直すと
途端に難しく見えた問題が簡単に見えることもあるから不思議だ。

ところが、元から日本にもあものに対する表現をわざわざわかりにくい
英語で書いている・話していると言うのが最近多く見かけられるので
いやなのだ。

以前は大学教授や海外でも講演などのある技術者の人が
そういう話し方をする傾向が有った。
一種の職業病かも知れないが、実は私は以前からそういうのを聞いていて
うんざりしていた。

英語で表現出来ることで難しいことを言っているように思わせ、
それを使う自分を偉く感じさせようとする意図が有るようにしか聞こえないからだ。
一種のみえっぱりであり、滑稽にしか聞こえなかったりもする。
そして、「こいつ、本当はそのことに付いて十分理解してないな」
と思えるのである。

ある事項に付いて、本当に理解しているならどんな表現も置き換えが可能なはずだ。
そして、専門家同士の間の話ならまだしも、そうでない人に喋る時は
解りやすい表現をすることが出来るはずなのだ。
それが出来ないと言うことは、結局その言葉の意味を理解出来ていない
ことにほかならないのだ。
私には、難しい表現をあえて簡単に言ってくれる人ほど賢く思える。

はっきり言おう。馬鹿ほど専門用語を使いたがる。
でもその言葉の意味は実は理解していない。
身の回りにいる、そういう奴らに質問してみればいい。
「その言葉の意味、本当に解ってますか」って。

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聞く側の知識などを判断して、言葉をその人の解る言葉に「翻訳」して
しゃべると言うことは、実はそれに慣れていないと難しい。
そもそも、そういう考えが思い付かない人もいるが。
技術系の人に多い傾向だ。
私はそうしているつもりであるが、どうであろうか。

まあ、元々見栄っ張りの大学教授や専門家同士で話するのが本職であろう技術者は
この際良しとしよう。
が、問題は最近の普通の人の英語(と言うか外来語)表記の氾濫だ。

「アバウト」は「だいだい」、「アグリー」は「賛成」。
「カウントする」は「数える」で十分。
「コンテンツ」は「内容」でいいのだ。

もっと、私の知らないような英語表現が、公官庁の発行する公式文章の中にまで
出てくるのには驚きどころか呆れ果てる。
何か、危険性とかそういう平易な単語が英語で書かれていたと思う。
いったい誰がそれを読むと思っているんだ。
しかも、その言葉の後ろに括弧して日本語訳まで入れてあるのだから
お笑いである。それなら最初から日本語で書いておけ。

馬鹿である。
英語で書けば博が付くと思っているに違いない。

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間違えてはいけないのは、何が何でも全部日本語にすればいいと言うことではない、
ということだ。英語表現の方が一般的ならそうすべきだし、日本語の方が良ければ
そうすべきなのだ。ここで「一般」というのは、それを読む人の間での一般だ。
自分の中での一般ではない。

最近の若い連中の中には英語で言えばかっこいいと思っている節もある。
最近の歌謡曲なんて特にそうだ。
やたらと英単語を入れてたりする。
「お前ら、その単語の意味知っているか?」
時には英語表現的におかしかったりすることもあるから、
本当に単に音として使っているに過ぎない。
ばかばかしい。

宇他田ヒカル?彼女はまだましだな。以外かも知れないけど、
英語があってもゆっくりなので歌いやすい。
小室哲哉の曲は英語が多そうで実は少ない。
だめだめは「らるく・あん・しえる」とか最近の若手男性グループ。
「X−Japan」もひどい。
だいたいグループ名が駄目。
日本語でちゃんとした発音が出来ないのを、英語で誤魔化してるようにしか思えない。
英語で早口にしておけばわかりにくいから。

ここまで日本語を駄目にしているものもあるまい。
歌っている人間の日本語の使い方も駄目駄目だが。
彼らのインタビューなんて、聞くに耐えるものじゃ無い。
英語を使った曲がかっこいいなどと思った若い連中が多くなると、
一層日本語の使い方がおかしくなる。
日本語を破壊する最大の悪の根源である。

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技術文章は英語が多いのでどうしても翻訳する時に解らない単語をそのままに残して
おいたりすることがある。まあこういうのは御愛敬だが、
最近はひどい技術書があって、日本で作られた製品であるにも関わらず
日本語の仕様書がなかったりするのだ。
その理由は「日本語で書くとあいまいになるから」。

大間違いである。
日本語だからあいまいになるのではない。
書いている人間の理解度がいい加減だからあいまいになるのだ。

確かに、日本人には西洋文化にはあまりない「あいまいさ」をうまく使うところ
がある。制度上もそうだが、言葉の上でもそういうところは多いにある。

短歌や俳句なんてその極みかも知れない。
これらは英語では絶対に作れない。
いや、それは間違いか。あいまいさを理解しない文化では作れない。

ここでいう「あいまいさ」というのは「暗黙の了解」と言ってよい。
日本人には、基本的に1国1民族と言う原則(?)があるので、
全ての人が同じ文化を共通の基盤としているので、「あいまい」「適当」な
言葉でも通じるところがある。

一方、英語圏では多民族国家が当たり前だから、共通の認識がないことも多い。
だから、まずは共通の認識を持つところから始める。
用語の定義が行われるからだ。
それによりあいまいなことがなくなる。

そう、英語で書くからあいまいさが抜けるのではない。
書き方の問題なだけだ。
日本語でも、ちゃんとそうした手順を取って書けばあいまいさはなくなる。

技術書は最初は開発した人間が書くが、開発した人間はそれを全て知っているから、
どうしても細かい部分に付いて暗黙の了解で書いてしまうことが多いのだ。
これが「あいまいさ」となる。

技術書をあいまいなままでおいとかないためには、必ずそれを知らない他人に
読んでもらい、どこが解ってどこが解らないかを指摘してもらい、
解るようになるまで何度でも繰り返すことが必要である。
そうすれば、何語で書こうがあいまいでない技術書が出来る。

英語で書けば、よほどそれを開発した人間が全て英語で書ければ別だが、
日本の場合はそういう人は少ないだろうから、誰か翻訳者が入る。
その翻訳者が納得出来るように文章を作る。この過程であいまいさがなくなるので
ある。英語で書いているからあいまいさがないのではない。

「あいまい」かどうかは言葉で決まるものではないのだ。

私個人的には、日本で作られているのに日本語の仕様書がない物は
積極的に採用しようとは思わないし、実のところ余り信用しない。
日本語で書ける技量がない、と判断するからだ。

今、開発で使っているある部品の仕様書がまさにそうである。
この部品は日本で作られているにも関わらず日本語の仕様書がない。
この商品、余り売れているとは聞かないが、そういうことのために
日本の技術者が嫌っているからではないか?等と思ったりもするのだが
考え過ぎだろうか。
(はっきり言えば、「松下」はだめで「富士通」はすばらしい。
松下はその他にも勘違いが多くて、困った会社である。)

逆に、英語圏で作られているにも関わらず、日本語の仕様書を
しっかり作ってくれる会社は信用出来る。日本で十分なサポートをしてくれる
と判断出来るからだ。日本に本腰を入れてないと、手間のかかる翻訳など
なかなかするものではないからだ。

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日本語だからあいまいなのではないが、日本人はあいまいかもしれなかったりする。
用語の定義さえすれば言葉としてのあいまいさはなくなるが、
日本人はそもそもその定義をしたがらないのである。
日本人というより、東洋文明と言ったほうがよい。

西洋文明と東洋文明には事象の認識において大きな違いがある。
西洋は形式的に物事を認識する。
そこでは、すべての事象が言葉で表現される。
俗に「5W1H」で表現するというのはその典型である。
この場合、言葉で表現されているので、誰でもある程度はわかるのだが、
中枢まできちんと理解したかというと、わからない。

ところが、東洋文明では暗黙による認識が多い。
わかってはいるのだが、それを表現出来ない、というやつである。
暗算なんてその際たるもので、どうやったら暗算がうまくなるかなんて
何とも言い難いところがあるが、でも出来るのである。
西洋人にはそれが出来ない。だから、とりあえず全部を出して、価格分を引いて渡すなどという
まどろっこしい方法しか出来ないのである(ここに相当な偏見があるのは事実
かもしれない)。

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この2つの文明の認識の違いはいくつかの言葉に端的にあらわれるので紹介して
おこう。

たとえば「湯」。
日本人は「水」と「湯」に別の文字をあてている。
ということはこの2つには大きな違いがあると思っているわけだ。
しかし、その差を言葉で端的に示すことはしがたい。

一方英語では「cold water」と「hot water」となり、冷たい/熱い+水という
表現になる。非常に端的にそれらの状態を示している。
物理的にはだ。しかし、どうだろうか、情緒と言うか感覚的な違いは表現出来てない。

たとえば「兄弟」。
日本語では年長である「兄」と年下である「弟」の区別がはっきりする。
ところが英語では「brother」であり、この言葉だけではどちらがどうだかわからない。
どうしても必要なら、「elder」とか「younger」とか付けるわけだ。
なぜそうなのかというと、通常は区別する必要がないからである。

日本で兄弟げんかをすると、たいてい理由を聞く前に「お兄ちゃんだから
我慢しなさい」となり、一方で「弟だから我慢しなさい」となってお開きとなる。
これでどうして喧嘩を終わらせることが出来るのか、良く考えたらおかしくて
説明しにくいことなのであるが、でも事実そうである。

ところが、西洋では双方の意見を聞き、きっちり論争させ、
相手を納得させて修了させるそうである。
利にかなっているが、日本人には、感覚的にちょっといやかもしれない。

小さい時からこれをやっているので、西洋人は理屈好きだし、
論争してはっきりさせないと済まないのである。
一方日本人はあいまいであっても納得してしまえるのである。
それを理解出来ない西洋人はそれをあいまいにして逃げるといって怒るのである。

が、別にあいまいにしているのは適当に逃げるためばかりではなく、
言葉だけの理屈でなく、もっと深い理解があるから、あえて言葉で言い合う必要が
ない場合もある。
「日本人はあいまい」などという西洋人は、実は東洋的思想が理解出来ないだけの
馬鹿なのである。自己流だけが正しいと思っている思い上がりである。

これを端的に示した単語が「apologize」である。
この言葉の訳は1つが「弁解する」でありあつが「陳謝する」である。
日本じゃ、この1つは違う意味であるが、西洋では同じなのだ。
ということは、彼らにとっては弁して相手に理解させることこそが
陳謝に等しいのである。

西洋人はは失敗しても謝らないで弁解ばかりする。
が、それは彼らにとってはそれこそが陳謝なのである。
東洋人には理解しがたいことなのであるが。

東洋的思想にも利点はあるし、西洋思想もしかり。
双方をうまく理解し、使い分けていくのがいちばんなのである。
そして、それはどちらかと言うと東洋思想を持っている人の方が楽であろう。
暗黙的理解を形式的理解でも間違いなく表せたらすごい。
なかなか難しいのであるが。

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日本人はもっと日本語を勉強すべきである。
日本語は決してかっこわるいものではない。
世界でこれほど表現力の豊かな文化はあるまい。

音的に言えば、母音子音は少ないが、表記する文字の多さは世界一である。
だいたい、基本表記だけでも平がなと片仮名の2種類もあって
使い分けられているのだ。
英大文字小文字の差とは違う。

そして、外来語文字も自由に使えると言うことも考えれば、
こんなに優秀な言語はない。英語の文章の中に行きなり漢字が出てくることはないが、
の本語の文章の中に行きなり英語が出てくることはしょっちゅうだ。

私が英語が出来ないから言っているわけではない。
仮に出来たとしてもこう思うだろう。
自国の文化を大切にしない奴、そういうのが根本的に嫌いなのだ。
言葉だけでなく、食文化もそうだし、風景そのものだってそうだ。
日本がアメリカの1州に成り下がってどうする。

私自身は今まで、出来るだけ不要な英語表現は避けてきたし、
これからも出来るだけ日本語で表現する。
そうすることで、自分自身として理解が深められると言う利点もあるからだ。

と言うことで、私の前で安易な英語交じりの表現は要注意である。
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