「自分の意見を持ってるか?」(1999/07/14号)
ということで、転職して早11ヶ月が経とうとしているのであるが、
まあ良い会社に来たと思っている。

やはり物を作っている会社はおもしろい。
技術的な話が多いのもそうだが、物を作ろうという前向きな姿勢が良い。
もっともこれは、単に物作りをしている、というだけでなく
社風なのかも知れないが。

それはいいとして、それでも嫌になることはある。
これはこの会社だけの話ではないのであるが、
相手が完全な素人なら「また言ってるな」程度で聞き流すのだが、
一応技術者であるくせに、そうであってもそんなことを言うのか?
ということがあるので気になるわけである。

何が嫌かというと、ものの考え方が余りに単純、というか
「本当に自分の意見を持ってるか?」という発言が多いことだ。
しかもそういう奴に限って良く喋る。

        ・・・

例えばこういうのがある。

        「PlayStationは良くSATURNはだめ」
        「X68000は主にゲーム機だな」
        「携帯電話を持っていないのはださい」

全くもって「おいおい」である。

携帯電話は別として、他の2つに共通しているのは、
そんなこと言っている本人はそれらを持っていないし使ったこともない
ということである。
「おいおい、お前ら触ったこともないのに、何でわかるんだ?」

結局そういう連中の意見は自主的なものはなく、世間一般の評価、
それは雑誌の評価であったり、新聞での評価であったり、
CMが多いなど極めて受け身的な情報によってのみ構成されているのである。

        ・・・

確かにPlayStationにはゲームが多い。
これは主に過剰とも言える宣伝によるお蔭だといわれるが、
一方で駄作ゲームも多いと聞く。
SATURNのゲームはそれに比べれば少ないが、駄作が多いかどうかは解らない。

結局、そのゲーム機が良いかどうかなんてどうでも良いことなのだ。
自分の好きなゲームが出来ればそれで良い。
やっておもいろいゲームがあればそれで良いのだ。
完全なソフトプレイヤーであるところのゲーム機本体なんて意味はない。
その上で動くソフトが意味がある。
そのソフトを走る本体を買えば良いのだ。
それはPlayStationであってもSATURNでも任天堂64でも
なんでもいいのだ。

        ・・・

X68000には確かに良いゲームが多い。
他のパソコンでは絶対に走りようがないような、アーケードゲームと同じレベルの
ものが走った。
それしか「見ていない」人はこういう評価を出す。
こういう話は今まで聞き飽きるほど聞いた。
しかし、それだけのことが出来るハードやソフト環境について
正当な評価を出したものは一人もいないし、それらを知っている者もいなかった。

X68の真価は、10年前のマシンが未だに一部の人の間で人気があり、
使われ続けられる=使い続けることが出来るのは、
それだけ先進的なハードであったし、それに見合う良い出来のソフトが
有ったからである。ハード的にはさすがに現在では見劣りするが、
各種機能や開発環境は決して引けを取らないし、
むしろ今のマシンでは出来ないことも出来る。
だから、「開発マシン」として重宝するのだ。

そういう実質的な、何が出来るかという議論をせずに
世間評価だけで判断するやからが余りに多いのは困りものだ。
まあ、そういうことを言う連中に対しては、毎回表面上は「そうですね」と言いながら
裏ではおもいっきり「また言ってるよ」と馬鹿にして差し上げているのである。

そういう連中に限って、ソフトは常に最新版を入れ、うまく動かないことを
矛らしげに喋り、マシンは常に新しいものに買い換えるのだ。
しかし、毎回そのマシンの能力、そのソフトの実力を使いこなせない。
それは、己の能力の無さを持ち物で誤魔化そうとするようにしか見えない。
実に愚かしい。

        ・・・

携帯電話に関しては、「ほっとけ」である。
私が携帯電話に対してどんなイメージと持っているかはすでに書いたとおり。
私に取って不要/自分のポリシーによって持たないと決めているのだ。
お前らにそんなこと言われる筋合いはない。
そんなにそれを持っていることがうれしいか。
それはあたかも「たまごっち」を持って喜んでいたお子様たちと同じである。

        ・・・

結局何が言いたいかといえば、「自分で評価せよ」であり「実質で評価せよ」なのだ。

何を持っているいないかではなく、それを使いこなせるかどうかだし、
表面上の評価ではなく実質の力が重要なのである。
何が出来るかが勝負だ。
他人の評価なんて関係無い。

どうも世間には、自分の意見のように言いながら、どこかで聞いたことがあるような
ことしか言わない連中が多すぎる。真の自分の意見を持っていない連中が多い。
だから、ちょっと突っ込んでやると直ぐにだじろぐのだ。
「だって、どこそこにそう書いてあったもん」。
お前はコピー機か。

特に日本人は昔から他人を同じであることを持って良し、とする風潮があり、
人と同じ意見を持っている/同じ格好をしていることで安心することがあるようだ。
これは非常にいけないことだ。

なぜ人間の個人個人が大切なのか。それはそれぞれが異なる意見=評価を持てる
とことにあるのだ。もちろん、基本的なところから全く異なる信条では
社会生活上困ることはあるが、そういう部分でなく、個人の意見を持って良い部分は
もっともっと持つべきだし主張すべきなのである。その意見のぶつかりが
新しいものを生むのだ。

同じ意見しか持たないのなら、そういうコピー連中は不要だ。
その意見の源だけ生かせば良い。
他人の意見に流される者は、やがてその意見によって抹殺される。

        ・・・

私はオラクラの中でけっこういろんなことを書いてきた。
世間の評価とは全く違うことも書いたつもりだ。
別にそれを読者に強要する気はないし、気に入らない意見だと思って怒って
もらっても良い。

ただ、そういうことを言う奴もいるということを知ってもらうことは、
評価の多面性を知らしめることになるし、
世間一般の評価だけに流されない意味を知って欲しいのである。

世間一般の意見と結果的に同じであることは良い。
他だ単にそれをコピーしたのはいけない。
自分の評価に基づいて出したものならそれは自分の意見と言えるのだ。

常にそういう態度で望んで欲しい。
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