「The 変人」(2001/06/11号)
小泉首相は「変人」と呼ばれるらしいが、御本人は、それを誉め言葉と
捉えていらっしゃるようである。

これには私も同感で、私も「変人」と呼ばれて久しいが、
要するに他人と違うということであり、
自分によって生きることが出来る=「自由である」ことの証であり、
これ以上の誉め言葉はないと思っている。

翻って、他人を変人呼ばわりする人間は、誰かと同じ事を望む
「一般大衆」であり、それは自分によって生きていない=自由ではない。
本人は自由だというかも知れないが、私などの目から見れば
他人の前にしか見えない。

今の若者には特にそういう連中が多い。
個性的だと本人は思っているのだろうが、単に奇抜なだけ。
もしくは自由とわがままを完全に履き違えているだけ。

自由とは、それなりにしんどく、また責任が重いことである。
他人と違う生き方をすることは、他人からの協力が(あまり)得られないことであり、
他に見本がないということであるから、自分で全てを捜し決定していくことが
必要となるわけである。
それは決して楽なことではない。
また、個人としては自由を標榜し行動するとしても、社会の中で生きることまでは
否定出来ないので、自分の行動による他人への影響を考えておく必要がある。
ここに責任がある。

逆に言えば、自由でないということはそれだけ楽なのだ。
一般大衆であれば、流されてその中でちょっとだけ泳げば良い。
最近の若いもん、いや、すべての世代において責任をとらない風潮がある。
責任を持たない者に自由はない。いや、そういう奴等の行う行動はすべからく
「自由」ではない。

「変人」とは「自由人」のこと。
自由人に対して劣等感を持っている「一般大衆」のひがみである。
だから、変人と呼ばれて卑下することはない。
それは勲章である。

すべての人が自由になれば、他人を「変人」と呼ぶこともなくなるだろう。
果たして、すべての人が「自由」になれる日は来るのだろうか。

        ・・・

ここで言う「変人」とは、決して「気違い」(一般的には禁句)とは違う。
誤解の内容に書いておくと、「気違い」は「知能障害者」とも違う。

知能に障害がある人は、行動に奇抜さはあるが、
よく見れば子供のようで、天真爛漫さがオーバーな表現になっているだけである。
だから、決して恐いことはない。

しかし「気違い」は違う。
自分で望んでおかしくなった者である。

何故ここで「自分が望んで」と言い切るのか。
ここで回りが助けてくれなったというのは甘えである。
大凡、気違いはもう自分である程度の判断が出来るはずの年齢である。
自分で何が正義かをある程度は判断出来るはずである。
それすら出来ないような極悪環境に育てられることは、今の日本では、あるまい。
自分の不満を親の性にしたり社会の性にして、その矛先を
その不満の元ではなく自分に対してひ弱な者に対してぶちまけるなど、
甘えた以外の何者でもない。
親が社会が悪いのではない。いつまでもそんな者に頼ろうとする己が悪いのだ。
だから、その断ち切りをしない=自分で望んだと言うのだ。

最近は、こういう気違いが非常に増えている。
それだけでなく、他人を巻き込んでのいわゆる猟奇的事件を起こすので
大問題である。

生物学的に見れば、こういう連中は間違いなく脳の前頭葉が未成熟であろう。
成長期にろくな物を食べていないからそうなる。
そういう意味では親や社会の責任も重大である。
表面上に見える問題には、もっと深い理由があるということを
社会や親はもう気が付かなければならない。

決して法の整備だけの問題でもなければ、教育だけの問題でもない。
かつてそういうことがなかった時代があるなら、そこから現在までに
至るまでの過程の再検証が必要である。

このネタを書いた後に、あの池田の事件が起こってしまった。
子を持つ親として、痛ましいなどという言葉では言い尽くせないほどである。

しかし、この事件を持ってしても、まだ学校にどうこうしてもらおうとか
そういうことを言う親がいるのが、事件よりももっとおぞましい。
事件の真相を追求しようとする者が誰も現れないのが愚かしい。

        ・・・

今の日本を変えるには、従来の見方ではなく、突飛な発想と真実を見抜く目を持った
「変人」が必要なのである。
はたして小泉さんがそうか、他の人が現れるのか。
いずれにしても、もう時間は余りない。
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