「発想力」(本誌未公開新ネタ)
 戦日本での教育の一番いかん点は「発想力を養わなかった」ことにあると思う。
教育だけでなく、環境そのものが発想力をそぐ状況になったというのもあるが。
(自然が少なく人工物が多い環境では、発想力は育ちにくい。
テレビゲームをしているのも発想力をそぐ。いわゆる「裏技発見」は
発想力ではない。テレビゲームは発想力がある程度育った「大人」が
余興にやるべきものである。)

また、発想力と同時に教えなく、なくなってきているのが「規則を見抜く力」である。
世の中、自然のいろいろな物事の中から共通性を探し、そこに規則・原理を見いだす。
その過程が発想力であるとも言える。

 これらが足りないと言うことがどういうことをもたらすかというと、
「記憶したことしか出来ない」=「教えられたことしかできない」と言う事実だ。
戦後教育は丸暗記教育だと言われるが、まさにそれである。

 教えられたことは出来るがそれ以外のことは出来ない。
人の技を盗んで覚えない。
規則を見抜く力がないので「根本的に何が必要なのか(何が求められているのか)」が
わからない。何が良くて何が悪いのか判断出来ない。

たとえば、「お皿を洗う」ことすら出来ない。
皿を洗ったと言うから見てみれば、全然きれいになっていない。
でも本人曰く「洗剤を使い、ちゃんと拭いて洗った」である。
しかしここに根本的な間違いがある。

「お皿を洗う」=「洗剤のついたスポンジで皿を拭く」ことではない。
汚れを落とすのが「洗う」ことなのだ。拭いても取れにくい汚れはある。
一見取れたようでこびりついている汚れもある。
だから、よく目で見、指先の感覚で調べるのだ。
(食器洗い機の最大の欠点はここにあると思う。)
「お皿を洗う」という行為を見た目からそのまま丸暗記し、
その意味を把握していないからこういうことになるのだ。

朝食前に歯を磨くこと。
いやこれだけならまだ良いが、この後朝食後に歯を磨かないとなると、
歯磨きの意味を取り違えていることになる。
歯磨きとはその時のごとく「歯を磨く」ことではない。
歯に付いた食事かすを落とすことで虫歯を防ぐ行為である。
食事前に歯を磨いても、その後食事をしたらかすは残る。
結局虫歯になる。
歯周病菌?それが成育する栄養はどこから来るのか。
その菌を100%殺菌出来ればいいかもしれないが、
そんなことは出来ないし、したら口がおかしくなる。
液体歯磨きではこの菌はある程度退治出来るかもしれないが、
食事かすを取る効果はない。
本当は食事かすは歯の表面には付かないので、本来は歯の間を歯間ブラシで
きれいにする方が虫歯予防にはなる。
歯をこすって歯をすり減らして「白くなった」と喜んでいる場合ではない。

お米は「洗う」ものではない。「研ぐ」ものだ。
なぜ「研ぐ」なのか、その理由はお米とぬかの関係を知っていればわかる。
「お米を洗え」(そもそもこういう言い方をする方が間違っているが)、
洗剤で洗ったという笑い話を聞くが、
本質を知らないまま行動し、その意味を考えないからこうなる。
(ただし「研ぐ」のは白米だけ。玄米は「洗う」でよい。
玄米ではぬかを落とさないからだ。汚れを落とすだけなので「洗う」である。)

 教えられたことをそのままするだけなら人間である必要はない。
コンピューターやロボットの方がよほどしっかりやる。しかも間違いなく。
簡単なことなら動物でも器用にこなす。
人間の人間である意味は、そこから規則・原理を見いだし、
それを元に今やっていることをより良くするとか、未知のことに応用していくことにある。
それが出来ないなら、人間を辞めた方が良い。

 最近若い連中はすぐに切れる。これは要するに彼らの「エラー」なのだ。
教えられていないことに遭遇し、どうして良いかわからなくなったので
エラーを出しているのだ。しかも、そのエラーに対してもどう対処して
良いかわからないから暴走しているのだ。

コンピューター的に言えば、そもそもエラートラップが無くエラー状況になったら暴走して
ハードを壊すか、少し進んでエラーが出たらトラップに飛ぶように書いてあるが、
そのトラップ先の処理が未定義で暴走するのである。

人間の成長とは、数々の未経験事項=エラーと遭遇し、その都度エラー処理を
書きつづっていくことことであるとも言える。一度書かれたエラー処理はもはや
エラー処理ではなく、普通の処理ルーチンとなる。これが人生経験である。
しかし、その書き方には発想力が必要である。
発想力がない人間にはエラーへの対処が出来ない。それが昨今の「切れ」の原因である。
また、その一度書いたルーチンをよりエレガントに書き直すのも成長である。

対処法は他人が教えてくれるものでは不十分なのだ。
必ず自分で書く必要がある。
それには発想力が必要となる。

かつての日本には暗黙の了解が多くあった。不文律があった。
これらは自分で周りを見てそういった事柄を見抜けと言う社会からの
メッセージであったとも言える。そういうことをさせるように世の中がなっていたのだ。
また、身の回りには多くの自然があり、そこで起こる事柄に規則を見いだすことは
楽しかったし、また時によっては生きることに直結した。
取説でも1から10まで書く必要がなかった。「当たり前」のことは自分で判断し、
仮にその不文の部分によって何か問題が起こっても自分で対処した。
エラー処理を自分で書き上げたのだ。
自分に対する戒めとしたのだ。

ところが最近は欧米、いや特にアメリカと同じようにすべてを書くようになった。
それは文間を読めない人間が増えたことと同時に、他人に責任をなすりつける
=書かれたこと以外の対処が出来ない=エラー処理を書けない人間が増えたからである。
実に情けない。

この原因が今の教育、社会、環境にあることは最初に書いたとおりだが、
それを教えない親もまた情けないし、いい年をこいて(18歳を超えてと言っても良い)、
そういったことに自分で気づけないのも情けないとは思う。
人間なら、一人でに発想出来るようになると思ったのだが。
最近の若゛者はそういう意味でも人間でない、世の中は人間を生み出さない
世の中になってしまっているのかもしれない。
今ならまだ間に合うと思うのだが、それほど猶予はなさそうだ。

毎日のように、「世の法則に従うだけに生きている」若゛者どもを見る。
全然個性を感じないし、そもそも生きているように感じない。
ただ単に傍若無人でやかましいだけ。例えるなら、道のど真ん中に散乱して
悪臭はなっているゴミと同じ。

生きる上で、発想する上での基礎公式はやはり知らねばならん。
小中学校、まあ高校前半までの教育が基礎公式学習である。それ以降は発想力で
生きて行く段階だ。公式もしらんくせに粋がるな。

自分がなぜ生まれてきたのか。その意味は誰かが教えてくれるのではない。
自分で発想し、書きつづるのだ。

    ・・・

発想力のなさにはもう1つ、それを支えるエネルギーに欠けるという原因もある。
発想には大きなエネルギーを要するが、それを供給出来ないのだ。
だから、発想が出来ないか、きっかけはわかってもそれを解くまでの力を維持出来ないのだ。

・・・というところで、このネタの第2幕が始まりそうだが、ここまで。
1つの問題が、1つの原因だけからなっているなら解決は楽だが、
そうでないことがほとんどだ。この問題もそうである。
それを解き出すには今日は時間がない。またの機会としよう。
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