「技術文明の進化」(1995/07/20執筆)
最近の技術文明の発達ぶりはすごいものがある。
10年前には夢であったことが、今や現実となっていることも
少なくない。
子供のころ、21世紀の夢として描いていたことのいくつかは
もう手の届くところにあるのだ。
これはすごいことだ。

だが、人間がその技術についていっているかといえば、
必ずしもそうではない。
もちろん、その技術はそこにあるのだから、誰かは使えるにちがいない。
しかし、誰もが使えるとは思えないものも多い。

例えばキャッシュディスペンサー。
銀行でお金を降ろすあれですな。
時折その前で考え込むおばさんにでくわす。
私ですら、振込の時には少々手間取る。

例えば、コンピューター。
最近はWindowsのお蔭で「簡単に使える」という「イメージ」があるのか
買う人が多くなった。
今まで「パソコン」=「根暗のもちもの」というイメージ見ていた
週刊誌がこぞって使い方などを掲載している。
所詮人の持つイメージなどこんなレベルものかとは思うがそんなことはどうでもいい。

本当にそのパソコンは使いやすいだろうか、買った人が実用出来るだろうか。
おそらく、過半数が数ヶ月の間にそれを触らなくなるだろう。
なぜなら、すごいことはわかっても、自分の技量ではそれを使いこなせない、
それを使って何をしようかというイメージが持てないのだ。
で、結局良くて床の間の飾りもの、悪くて押し入れで眠るただの箱になるわけだ。
(この件に関してはけっこう深い問題があるので、
また機会を改めて語らねばなるまい。)

その他にも、その前で悩んでいる人を見かける「文明の力」は多い。
いや、非常に高機能ではあるが、実際に使えるのはその一部だけ
という物の方が多いか。
ビデオデッキ、電子レンジ、ステレオ等など。
コードレスホンもそうか。(最近のWindows上のソフトなんか、まさにそう言った
「出来ます」だけど使えない技術の集大成であろう。
出来ると使えるは違う。
「高機能」と「高性能」は違うのだ。)

それは決して年を取った人ばかりの現象ではなく、
若い(はず)の我々でも同じだ。
確かに使いこなせれば便利なのはわかっている。
しかし使えない人には使えない。使えないものは使えない。
使える人にしか使えない。
これでいいのか。

        ・・・

良く考え込まれた技術というものは、生き残り、人の間に浸透する。
車しかり、電話しかり、テレビも冷蔵庫も、洗濯機もそうだ。
最近の例では「Walkman」もそうであろう。

多くの人が必要とする物を実現した技術というものは、そういうものなのだ。
逆に、単に1技術者の思い付きだけで産まれたものの多くは、
多くの人にとって「無用」で、こういうものは生き残らない。
一時の流行で消えていく。
そういうものの中に、たまにはいいものもあるのが少し残念であるが、仕方ない。

同じようなことを実現するのに複数の選択枝がある時には、
技術的に優位なものより、政治力で生き残るものもある。
86チップやMS−DOSなどはその最たるものである。
こういうものは実に見苦しい。

        ・・・

いずれにしても、今の技術は人の生活進化に比べて余りに早すぎる。
理解する、浸透する前に次の技術が来てしまう。
これが今の技術進化の現状だ。
だから浸透しにくい。
本来浸透すれば生活が良くなるはずのものでも、
なかなか広まらなかったりする。

人間の精神文明の発達よりも早いという場合もある。
こういう場合はもっと大きな不幸を生むこともある。

火星に人を運ぼうとして生み出されたロケットの技術は、
それを使う人の精神が野蛮であったため、
戦争の兵器=ロケット爆弾として実現されてしまった。

開発した者ではなく、使う側が、その技術が実現するものに溺れてしまう場合もある。

バイクや車は人に、自身で努力するよりも遥かに速い移動技術を与えてくれる。
しかし、そこに溺れた者は、他人の迷惑を省みないただのクズに成り下がったり、
技術を過信して、その命を落とす羽目になる。
それは自業自得とは言え、技術にのまれた者の哀れな末路である。

人の進化に合っていない技術の進化というものは、
本来幸せを享受させるはずのものが、その逆になってしまうこともあるということだ。

        ・・・

人間の熟練というものはそんなに急に出来るものではない。
「日頃の鍛錬が必要」とはいえ、それが死ぬまでずっとではたまらない。
また、それをしなければ生きて行けないような世の中も間違っている。

よく練りこまれたものは、使えば使うほどに味が出る。
なれば、あまり駆け足で新しい技術を追い求めるよりも、
1つの技術を十分にこなし、次のステップを迎えるのがよい。
一足飛びで積んだ経験は、中抜けが多く、意外な落とし穴があるものだ。
結局、「新しい物好きの風見鳥」は何もものに出来ず終わる。

そして新しい技術は、それが誕生してから少しの時間が経てこなれてきたところで
使うのがよい。先先を追い求めるのは技術者に任せておけばよい。
使うものは、それが使えるものになった時、初めて手を出せばよい。
それでも間に合うのだ。
「遊びに投資する必要はないが、使えるものであれば一刻も早く使う」である。

        ・・・

人の想像力や、こう出来たらいいというものの考えは尽きること無い。
それが新しい技術の開発につながるわけで、それはそれでいいのだが、
その出来上がったものが、技術ばかり先行し、
実際に使えない物になっているのだとすれば、それは悲しいことだ。

開発する者は、単に思い付きを実現するだけでなく、
それをいかにしたら浸透させることが出来るまで十分考えることが必要だ。
人に使われない者を作って喜んでいるだけでは、子供の工作と同じ。
技術は使われてこそ意味がある。
技術は人間に奉仕してこそ意味があるのである。
(そういう意味では核兵器を始めとする軍事技術などは愚の骨頂である。)

今のメーカー同士の過当(下等か?)競争は、本当はそのように思っている
技術者がいても、その意向を無視して商品化して出してしまうことを
強要しているのかも知れない。

それは技術者にとって不幸であり、それを買い使う側にとっても不幸であり、
使い続けられない商品(その原料、その原料を作った人)もそうであり、
長い目で見れば、それを売った会社も不幸である。
使い続けられる=長く必要とされるものを売っている会社というものは
存続するものだからだ。

技術が進むのはすばらしい。
新しい技術を見るのは面白い。
しかし、それを使うのは開発した人ではなく、普通の「人」である。
そのことを忘れてはならない。

Any time, standing for user.
(英文法的に合っているか?)
である。
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