「技術進化と経験」(1995/07/02執筆)
技術文明の余りにも早すぎる進化は、別のいくつかの悲劇も産んでいる。
それは「経験」が無意味になり易いということだ。

新しい技術が次から次へとやってくる。
前の技術での経験がすぐに無意味になる。
努力すれば付いていくことは可能だが、それにも限界がある。
やがては付いて行けなくなる。
これがその1つは技術を使える者、その文明に追い付ける人と、
そうでない人の間のギャップを産む。

昔は「経験」というものは何にもまして強いものであった。
「お年寄りを大切に」ということは、
お年寄りの経験から出る知恵を借りていこうというものであった。

が、今この技術が過剰に進む世の中では、必ずしも「経験」が
いい方向に働くとは限らない。

経験は、その経験をもたらしたものを絶対化する傾向がある。
自分がそれで学んだとすると、それが一番いいと思い込むということだ。
これは場合によっては、それ以外の技術を排斥する方向に働くことがある。

電卓が出来てもそろばんが一番良いと言う、
コンピューターで自動計算出来ても電卓の方が良いと言う。
画面で見ることが出来るのに、わざわざ紙に打ち出さなければ気が済まない。

新技術ばかり好むことが必ずしも良いことだとは言わないが、
古い技術に固執して、新しい技術を拒む、それを信用しないというのも
問題だ。

ただ単に、自分が理解出来ないものは悪いものだから使わない。
新しいものを知る努力をせず、単に自分の経験を拒むものを「悪」とする。
こういう人間は早く排除した方がいい。
世の中に付いていくという意志がないのだから。
こういう人間はがやて足を引っ張ることとなる。

ただ、新しい技術もそれなりに使ったが、やはり前の技術の方がよいと判断した。
その理由をはっきりと述べられると言うのであれば、
これはこれでいい。
単に新しい物好きというのも困ったものなのだ。
新技術の中には練られていないもの、
冷静に見ても信頼性が低いものもあるのだ。
その当たりを冷静に判断出来るということはすばらしい。

良いものは良いとして受け入れる。
悪いものは悪いで使わない。
この判断が重要だ。

「昔は良かった」という言葉が発せられる時、
それが対技術であった時は、多くの場合、今の技術に付いていくことの
出来ない人の悲鳴である。
そのような人が上記に2つのいずれであるか。
それによってその人の存在価値が決まる。

        ・・・

だからと言って、全て「経験」を否定するわけではない。

技術だけによる経験は確かに技術の進化と共に陳腐化するが、
いつの世にも変わらない、いや、少なくとも長い間変わらない
経験というものもある。

あえていうなら、すぐに陳腐化するのは「知識」であり、
長く使えるものは「知恵」である。
知識はその一局面でしか利用出来ないが、
知恵というものは知識によって洋々に変化する。
全ての根幹にあると言ってもいい。

知識だけいくら新しくてもだめだ。
それを使う知恵を持たない人は実は余り重要ではない。
知識を持つ人は山のようにいる。
また、そういう人間は必要だが、自分がなる必要はない。

しかし、それを使いこなせる知恵を持つ人は少ない。
知恵は経験だけからしか得られないからだ。
いくつもの知識を越え、それを知恵へと昇華出来るかどうか。
ここが重要なのであり、それが出来る人間こそ必要なのだ。
知識は他人に任せられるが、知恵は任せられないのだ。

ただ、己の経験が他人の経験を否定することないよう、
今の経験が未来の技術を否定することないよう、
常にその目を開いておく必要があるということだ。

「技術進化」というものは、単なる物質の進化ではなく、
人にも進化を要求する。
そして、「進化」そのものは実は「経験」無くしては不可能なのだ。

経験が進化を否定しないよう、逆に経験が進化を受け入れる、
促進するように、そのような「知恵」=「経験」を持つ
必要がある。
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