「不便な生活の勧め」(2004/08/23〜08/30号)
最近は子供を狙った犯罪が増えていて非常にゆゆしき状態である。
本来社会が守るべき対象、一番弱い立場のものを狙う行為は、
まさに弱いものいじめで卑怯なことこの上ない。

一連の事件の発端が池田小学校にあるのは間違いない。
犯人の死刑で決着を付けたような形になっているが、あまりにも手ぬるい。
あのような非人間的犯罪に対しては、量刑も又それ相応を用意すべきだ。
死ぬまで貼り付けくらいでもいい。見せしめが必要なのだ。

「精神的に異常があるから量刑を下げる」という昨今の風潮にも納得出来ない。
そんな悪い前例を作るから、みんなそういう方向へ持ち込もうとする。
そもそも、そういう犯罪を起こす奴はみんな精神異常なのだ。
だから、精神異常だけで量刑を下げることは理にかなってない。
人格異常は脳の病の場合もあるが、自分での望んだ結果の場合もある。
異常だと言って見逃すのではなく、むしろその異常から
解放してやるのも情けである。死刑という手を持って。

死には死をもってむくいよという手法がよいとは言わない。
一方で、死刑が執行されているにもかかわらず、その死刑が
同様な犯罪の抑止として有効になっていないのも事実である。
昔は日本でもアメリカでも死刑は公開されていたようだが、
そういうことが必要なのではなかろうか。

もっともそれらは対処療法的なので本質的には、
人の命の大切さ、人の痛みがわかるような教育が必要なのだが。

そもそも、日本はいつからこんなに他人の命の大切さを解らない
人間の集まりになってしまったのだろうか。
その理由を昨今の教育や受験戦争に求めることはよくなされるが、
それよりも今の恵まれすぎた社会環境自体が原因であると思う。

昔は毎日を過ごすことだけで一苦労だった。
だから家族が寄り集まったし、家族の人数が多かった。
村落全体でもそうだ。
皆で分担しなければやっていけないのだ。
自分が生きるためには他の人の協力が必要なことを
日々の生活の中で理解できた。

今は全てが整えられて与えられている。
蛇口をひねれば水どころかお湯も出てくるし、
ガスも電気も当然のごとくにある。
ご飯を炊くのも炊飯器で簡単。無洗米ならとぐことすら不要。
冷蔵庫があり外食産業が発達していれば食料を得るにも苦労しない。
極端に言えば、コンビニの近所に住んでいれば一切の調理器具がなくても生活出来る。
洗濯は洗濯機で一発、お風呂も自動お湯張りで一発である。
暇だったら携帯電話で自分の都合でいつでも電話、
またはレンタルDVDで映画鑑賞である。
物を買うにもいろんなお店を回って店で話をして自分で選んで、値切って買うと
いうことをしなくても、インターネットで他人の評価を捜し、
一番安い店を簡単に捜し出して、1日中家にいながら買えるのだ。
これは極端な例だとしても、少なくとも35年前と比べれば
格段に便利な世の中だ。

だから、最近の若い連中は苦労を知らない。
自分1人でやっていけると思いこんでいる。
これが他人を尊重しない風潮の根本になっている。
大きな間違いだ。人は1人では生きていけない。

上記の便利な環境も、当たり前のようにあるから他人の存在を意識しないが、
それを準備する、もしくは維持するのには他人の影の支えがなくては
ならない。表には出てこなくても、必ず他人のお世話になるのである。
自分は1人で生きている、等と思っている奴らは大勘違いなのである。

人はもう一度生きることの苦労を知るべき時ではないのか。
毎日とは言わない。
年に1度だけでも便利な暮らしを捨ててみるべきではないのか。
そうすれば生きることの苦労が解るし、
共に生きることの喜びや意義が解る。
それはとりもなおさず他人を尊重することとなる。

当たり前にあるものがあることのありがたさや
人の命の大切さを教えるのに本を読むだけ、映像を見せるだけではだめなのだ。
やはり体験が一番だ。

炊飯器なしでお米を炊くこと。
ガスなしでお風呂を沸かすこと。
料理の手伝いをすることなど。
普通に生活するのに必要な時間が増えれば、
それだけ協力してくれる人のありがたさに気付くはずだ。

        ・・・

家は必要だと思うが
本当に、電気、ガス、水道がなければ人は生きていけないのか。

電気
        夜になれば寝ればよい
        月明かりを愛でればよい
        夜の不要な明かりが減れば星が見えるようになり、
        それは想像力をかき立てる。

ガス
        薪でも十分ではないか

水道
        清水や井戸がある
        それを綺麗に保つことの重要さを知ることになる

本当にパソコンは必要か?本当に携帯電話は必要か?
私は新潟へ帰っている間はPCは持って行かないが、全く困らない。
特に携帯電話は、他人には他人の時間があることを忘れさせてしまう
悪さがある。いつでもどこでも自分の世界に入り込む悪さがある。

人は一体どこまで効率を求めれば済むのだろうか。
アメリカ的効率至上主義は、一見自由で開放的に得るが、
その実、効率主義について行けないものを切り捨て、
人間を生産の道具、利益を生み出すための道具に仕上げるシステムに過ぎない。
その現実が、内には健康を全く考慮しない子供の時からのジャンクフードでの
餌付けであり(あれはまさしく餌だ)、外にはアメリカ至上主義の押しつけと
それへの反抗を「テロ」と称して弾圧する軍国主義である。
そんな帝国を模範になんぞしてはいけない。

私の世代はかろうじて不便さを知っている最後の世代であると言える。
私は竈でご飯を炊いた経験もあるし、薪で湧かして五右衛門風呂も入った。
かつを節を削るのは子供の仕事だった。
そういえば、洗濯板で洗濯したこともあったっけ。
さすがに電気がない生活は知らないが、夜は8時に寝ていた。

私にとって、新潟の暮らしは1つその意味がある。
当然新潟の家にも電気ガス水道はある。
でも料理は自分でするし、庭掃除もあればお墓掃除もある。
買い出し1つでも、一番近い店は6キロ離れていて、ちょいとそこまでとは行かない。
夜はあまり遅くまで起きない(テレビも見ないしパソコンも使わない)。
京都の暮らしに比べれば格段に不便だ。
しかしそれが手伝ってくれる人の重要性を再認識するきっかけとなる。

        ・・・

不便さには、別の精神的効果もある。
それは「ハングリー精神を持つ」と「我慢を知る」ことである。

全てが満足された世界では、がんばろうと思うハングリー精神も
なくなってしまう。
何かを得るため・達成するためのがんばりである。
不便であればあるほど、それを解決しようと考え、がんばるものだ。

まあ、その積み重ねが今の便利な世の中を作ったと言えるが、
ある方法で解決できるとしても、あえてそれを不便なまま置いてくこともまた、
ハングリー精神を保つために必要なのである。

人間の人生の中では、がんばりが全て、もしくは即実的に
自分に戻ってこないことも往々にしてある。
一種の我慢の時期である。
考えてみれば、農作物だって種をまいて収穫できるまでには
時間がかかるのだ。こういう「待ち」「我慢」の時期が絶対に必要なのである。

今の若い連中は望めばすぐに手に入る、やったことの見返りをすぐに
要求できる世の中しか知らない。
これが我慢のなさの原因であり、手に入らなければすぐに「切れる」一因である。

こういう意味で、私はアムウエイが大嫌いなのであり、
昨今の年俸制も1つ間違えばこの傾向になりがちなのが問題だと思うのである。
(出来ない奴に、ただ勤続年数が長いだけで高額な給料を払うことはないが、
出来るからと言って、そっくりそのまま返すのも問題である。
多くの場合、ある人のがんばりには多くの人の助けがあったはずだから、
その評価も正しく考慮しなければならない。うちの会社の年俸制は
単に残業代カットのためだけのものだから問題外だけど。)

        ・・・

人が生産の道具になって久しい。
今の人はいろんなものに心の救いを求めているようであるが、
多くはごまかしに過ぎない。
なぜなら自分のために時間を使っていないのだから。

昔の生活は決して悪いものではない。
特に自分が日々生きるために時間を費やすというのが良い。

仕事に割いている時間を、自分が生きるために使うことは、
今となっては一番優雅なことかも知れない。
不便さこそが、優雅さなのだ。
同時にそれが他人の存在価値を知るきっかけになるなら、なお良い。

真の優雅さを求めようではないか。
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