「軽い文化論」(1999/07/07〜07/12号)
この手の話を始めると長くなる可能性があるが、
今回は短く済ませたい希望なので、軽く行くつもりである。

        ・・・

今の時代、確かに技術文明は進んでいるが、それを使うことを考えたとき、
果たしてそれが必要かどうかと言えば、必ずしもそうではない物が多いことに気付く。

あれば、それが使いこなせれば便利かも知れないが、
他の物でも代用可能だし、なくてもかまわない物が多い。
それは単品でもそうだし、ソフトの機能でもそうだ。

で、要らない物が氾濫していて、それがごみを増やしたり、
要らない電気を使ったり、ソフトであれば肥大化(メモリーやハードディスクなどが
必要になる)と速度の低下をもたらすのである。

昔は「必要は発明の母」であった。
必要だから作られたのである。
従って、できた物は使える物であった。
また、新しいものはそんなにすぐには出なかったので、
それを活かす手法が考えられ、さらにそのものが長く使われたのである。
そしてそれが「伝統」となったのである。

ところが、今は「こんなん作ってみたから使ってくれ」
「作ったからついてこい」である。
誰かの思いつきで作られた物が与えられているのである。
それは必要ではないので大きな需要の喚起が期待できず、
小手先の変更を小出しにして細かい欲望を引き出そうとしているのである。

今の時代はせっかく産んだ物を有効に使えるようになるまでの時間的余裕がない。
ものの能力を探り活かす方法を考えている時間はない。
すぐに次の物が出てしまう。
だから伝統もできない。
前の物は「古くて使えない」というイメージを植え込んで廃棄させる。
本当はまだまだ使えるにも関わらずである。

またそれは、ものの能力を引き出すという自発的能力を退化させることにもなる。
引き出すためには日頃の鍛錬と研究が必要である。
そのような目は一日にして出来るものではない。
長期的視野、忍耐力もそこから産まれる。

たとえば「即戦力を採用」は、実は自分が相手の能力を見いだせない、
引き出せないことを隠すだけなのである。
そういう会社は、自分で自分を鍛えられないということであり、
今はいいかも知れないが、根本的な会社の強さにはならないので、
何か大きな波が来たときに潰れる可能性が高い。

        ・・・

このような退廃的・・・いや大廃的と書いた方がいいか・・・な文化は
物を大切にしてその能力を十分に引き出すということを忘れさせる。
それはやがて物だけではなく人に対しても行われるようになるのであり、
それが昨今のリストラや「人材」などという考え方の物になっているのである。
人の善し悪しを今持っている能力だけで判断する。なんと恐いことか。
(会社にとって明らかに負の人はいるが、そうでないにも関わらず
役にたたないとレッテルを張られて捨てられる。)

このような思想はアメリカを起点にしている。
アメリカの社会は欲望と大廃によって出来ている。
だからそこには本当の意味での文化や伝統がない。
今だけ輝いている、フラッシュ的存在である。

今だけ見ればそれはおいしそうだが、すぐに腐るのだ。
食べたら胃の中で腐るかも知れない。
その恐さを知らずにそれに付かれている人間が余りにも多く、
さらに増えている。

文明が進化することを否定はしない。
しかし、多くの人にとって不要な物があふれる世の中を良しとはしない。

エコロジーなどと世間では騒いでいるが、
まず最初に、このような今の体質を変える必要がある。
パソコンなんて、まだまだ使える物が廃棄されている実状をみれば、
いかに無駄かよくわかる。

このまま突き進んで行けば、物も人もその価値があるのは
ほんの一瞬であると言う考え方になってしまうだろう。
これはきわめて危険なことだ。

地球に優しいということは、人にとっても優しいということであり、
作りだした物を大切にするということである。
それは結局、作りだした人・自然への感謝となる。
まわりへの感謝が出来れば争いもなくなる。
今の世の中、表面上の戦争は減ったが、精神的戦争は激増していると言える。
しかも身の回りにだ。

それは昔には出来ていたことである。
「昔のような生活をすれば・・・」という話をすると
「今と昔では人口が違いうし・・・」などというやからがいるが、
基本的な物の考え方というものは、いつの時代にも変わるものではない。
それは生きていく上での真理だからだ。

1999年に地球人が滅びるかどうかは、決して何とか大王によるのではなく、
自らの心の持ちようによるのである。
そう、自分の、地球人の運命は自らの手の内にある。

大切に守ろうという考え方を、すべてに優先して持ち、教えていかなければ
地球人に未来はない。

        ・・・

別の視点から。

どんどん新しいものを出すということは、それだけ作りだした
商品の寿命が短いということである。

そういうことをメーカーがやっていくうちに消費者が逆にそれを求めるようになった。
その結果、1商品開発にかけられる時間が短くなった。
当然、それだけ練り込まれていないと言うことで、
小手先の改良になってしまうのである。

また、必要でない商品と言うのは、一時的な欲望を満たすだけのものなので、
すぐに飽きられる。長くは売れ続けない。
だから飽きられる前に次のものを出す必要がある。

1商品の寿命が短いということは、その開発期間が短いだけでなく、
開発にかかったお金を償却するのにかけられる期間も短くなったと言うことである。
(商品の価格の中には源材料費、人件費のほかに研究にかかった費用も入っている。)
だからといって商品の価格はあげられない。
ということは、必然的にコスト削減ということで
部品の質を落とす場合も出てくる。
そうなると商品の寿命は物理的にも短くなる。
(中にはわざと一定期間で壊れる部品を入れて故障による買い替えさせようという
ものもあるという噂を聞いたこともある。寿命回路とかいうそうな。)

(一般的に、商品の価格の中で研究費の締める割合は10%以下である。
5%未満が好ましいとされる。逆に20%近くいくものはよほど売れる見込みがないと
危ない。こういう場合、全体の価格を上げて割合を下げる。)

部品にしわ寄せするとクレームとなり、それはメーカーの信頼を落とすので
やりにくい。となるとどうするか。
人件費(給料や福利厚生費)へのしわ寄せがくるのである。
会社のために社員が犠牲になるのである。
結局、1商品の寿命を短くした結果が自らの首を締める結果となったのである。
これが今の不景気の隠れた原因だと言ってもよい。
不景気の原因は自民党の不策もあるが、メーカー自らの商品開発のあり方にも
あったのである。

良い循環というのは以下のように行われる。
 1、良いものは長く使われる。
 2、前に出したものが使われている間に十分な研究が出来る。
 3、大幅な改良となるので価格が上がっても良い。
 4、十分な売上が期待できるので人件費も上げられる。

研究するには人がいる。そこに求人も発生する。
そこには投資がある。そこに別の需要がある。
結局、1つのものを大切にするということが全体の流れを良くする。
それは小手先の売上確保でなく景気回復への確かな基礎ともなるのである。

前にも書いたが、物を大切にすると言うことは、人の大切にすることにつながる。
それは決して概念的なものではなく、実際に上記のような循環、
めぐりめぐってくるものなのである。

果たして今のメーカーがそのことに気がつけるか。
少なくともアメリカ人には無理だし、そのまねをしている日本人には無理だ。
ヨーロッパはそのことを知っている。
日本の経営者が早く目を覚まさないと、手遅れになる可能性がある。
猶予はそう長くない。
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