「2000年代の始まりに」(2000/01/07号)
ということで2000年である。

まあ、切りの良い数字なので世間的にはいろいろとイベントが
催されたようではあるが、落ち着いて見れば
実にくだらないことが多いのである(キッパリ)。

テレビでもラジオでも、その他各地のイベントでも
見るに有意義、聞くに高尚、参加するに価値があるものがないので、
大掃除を済ませ、年越しそばを食べたら、
8時過ぎにはさっさと寝ていたのであった。
もちろん、紅白も見ていない。
翌日も9時過ぎまで寝ていたので、まったくの
寝て過ごした年の変わり目なのであった。

そもそも、2000はキリスト教世界の年号であって、
平成は12年だし、皇紀でも2660年だし、
椅子裸無(仮称)でも湯田屋(仮称)でも違うわけである。
何で日本人が騒がなあかん、と言うところであるが、
クリスマスの件と言い、お祭り好きな日本人だから、仕方無いか。

ってなわけで、新年早々愚痴ってしまったのは
昨年待つのネタから引っ張っているものがあるのだが、
まあ、この位にしておこう。

        ・・・

年が明けたといえば、普通の人は「一年の計」等を立てるところであろう。
んが、私は普通ではないので何も立てないのである。

何故立てないかであるが、私は「のんびり、なるようになる」のが
好みだからである。好みと言うより身上と言っても良い。
ぐうたらと言われればそれまでだが、単にそうではないと言っておく。
そのわけを話するには、新年一番に頭に浮かんだことを話さねばなるまい。

        「人間は生かされているのである」

人間、自分で生きているように思っているかも知れないが、
実は「生かされている」のである。

人間は生かされている。
その「生かしている」源を「神」と考えても良いし、「仏様」としても良いし、
「御先祖様」と考えても良い。無神論者の人は、「太陽」としても「大宇宙」
としても「大自然」としても良い。
もっと現実主義なら「社会」もありかもしれない。
「親」や「会社」というのは余りお勧め出来ないが。

自分の生かしてもらっていれば、他人もそうだし、
植物も、動物も、物もみんなそうなのである。

生かされているのにも関わらず、自分で生きているなどと思い上がっているから、
平気で他人を傷つけたり、水からの命を軽ろんじたり、
自然を破壊し、無用に大量生産し、大量破壊し、ゴミを出すのである。
生かされている命はみな大切にしなければならない。

生かしてくれている源はまた、我々の前に「進むべき道」も示してくれる。
しかし、それはほんの一瞬であり、些細であって、
よくそれに注意してないと見逃してしまう。
「果報は寝て待て」と言う言葉があるが、多分それと同じである。
あるきっかけが示され、それをこなしていくとまた次が見えてくる。
しばらくしてみると、結果として何かがなされている。
その繰り返しによって生きていく。
それが私の目標であり、毎年、あえて立てはしない「計」である。

こういうことを書くと、流れに流されるだけとか、その日暮し的だと思えるかも
知れないが、そうではない。
多くの人が選ぶ道を選ぶのではなく、自分の道を選ぶのである。
それは、社会が求めると言われるもの(姿)になることを目標を立てて進むより、
ずっと強い精神力と辛抱が必要である。

進むべき道は示されるものを見つけだし進むのである。
そこには「望むこと」が必要であるが、これを「欲望」と勘違いしてはいけない。
「欲望」は「渇仰」しか生まない。

「渇仰」(かつごう)とは、よく「喉の乾きを海水で潤そうとするがごとし」
と言われる。一旦口にすればさらに喉が乾く。
欲望は、それが達っせられるとまた次のものを望むようになる。
その達成のためには他のものの犠牲も厭わない。
この欲望のサイクル=渇仰に陥ったら人間おしまいである。
今の社会はまさにこの状態にあると言える。

・・・何か話がずれそうなので、今日はここまでにしておくが、
要するに、年の始めに取り立てて計画は立てないが、
毎日が計画と実行であるということだ。
親として「子供の未来を創るとか」そういうのもその中に含まれる。
そして、その実行時の基本的な考えとして、「生かされていること」
を忘れないということである。
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