「局長の思考」(1995/04/20、04/22執筆)
私の思考は実に突拍子もないように思う人も多いだろう。
実に、その書く文章、行動、どれを取っても「変」である。

「ひょっとすると、こいつは気○いではないだろうか」、
と思っている人もいるだろう。いや、現にいると思う。
だいたいそういう人は本人がどう思っていようと、
表情や行動に出てしまうもので、そういう意味では、実に単純だ。
私に言わせれば。
個性がなく、扱い易いと言うか把握し易い。
(だいたい、おたくをバカにするような奴には個性がない。
まあ、この辺の話については、またいつか書くことになろう。)

私のような人間を従わせる、扱うことが出来るという者は
それはもう大したものだ。
そういう人はなかなかいるもんではないが、確かにいる。
私は、何が何でもわがまま言いではない。
真の理論で説明されればそれに従う。

ただ、いかんせん、「政治」だけで私を扱おうとする人間が多すぎる。
そういう人間に対しては、私はわがままを言い倒す。
まあ、はっきり言って、そういう人間の言うことは、
言葉半分でそれなりに行動するが、心の中ではおもいっきりバカにしている。

話がずれた。
要はだ、私の思考は飛んでいるようで、
実はその根幹では常に1つの流れがあるということだ。
(多分に多重人格性は有るとは思うが。)

そしてもう1つ。
こだわらないこと。
1つの事象に対しては、最低2つの側面があるということを知り、
いろいろな側面から見ようとしているということ。

論説では多くの場合、その1面しか紹介しないので
(たいていその時一番強い面を紹介する)、
片寄った考え方に見えるかも知れない。
そうしないと話にまとまりがなくなるから。
しかし、ほとんどのことで2つの異なった側面から見るようにしている。
そうすると、以外と簡単に物事の事実が見えるようになるものだ。

そして、あえて発想をおもっきり飛ばしてみることもある。
普通の人が考えないような発想をしてみるのだ。
そうすることで発想の限界が広がり、
より多くの面からものが見ることが出来るようになる。
そして、そういうことは実に面白い。
(でもやっぱり、ああいう文章とか歌を思い付くってだけで変?)

文章を作る力、文章にする力などというものは、
書いていくうちに何とでもなるものだ。
そんなものは天性でも何でもない。
練習次第である。
私だって昔は国語で60点以上は取れない、
作文は「なになにがあった、面白かった」しか書けない人間だったのだから。

私の前にかつて現れた「天才」達。
世の中には確かに「天才」と呼ばざるおえないような者がいる。
私は残念ながらただの「凡才」だ。
いや、ただの「バカ」であろう。
しかし、なんとかして、そのような天才達の足元にでも及べばと思って
努力しているつもりだ。

        ・・・欠点・・・

さてさて、私の場合、何かに付いて書けといわれれば、
およそ知らないこと以外は、何でも書いてしまう。

が、いかんせんその読みが甘い、というか浅い。
これは本人が一番気にしているところなのだが、
「他人の意見を広く集めない」というところに根本が有るように思える。

情報そのものを集める力はなかなか、かもしれない。
ちらっと聞いたことでもを後々まで覚えている。
地元の人間でも覚えていなかったと言われるような
古い細かいことまで覚えていることがある。

それが一定の情報として確立された時、
もしくは他の情報と結び付いて点が線になった時、
論評しようとしている。

しかし、浅い。
そもそも深い読みが出来ないのか。
この辺りが私が「凡人」であり、「天才」の足もとに及ばないと言う
ゆえんである。

修行が足りん。
修行だけで追い付くもんなら何とかしたいが、何とかなるだろうか。
う〜ん。

        ・・・

というわけで、半分自分の言い訳のような文章になってしまった。
こんな私の書く文章で良かったら、
これからも読んで欲しいものである。
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