「私の嫌いな奴」(1995/07/10執筆)
読者の方も薄々感づいているかも知れないが、局長には嫌いなやつが多い。
いや特定の個人というより、ある性質を持った奴と言った方がいいかも知れない。
どういう性格が嫌いなのか、それを述べてみよう。
私と相手上での傾向と対策になるかも知れない。

        ・・・

*自分のポリシーを持たない奴

私が嫌いなのは、まず何と言ってもこういう奴だ。
流行ばかりを追う、時の勢力のある方に媚びる。

ハッキリ言うが、自己の方向性というものを持たない奴は人間として失格だ。
それは他の動物にも劣るといっていい。
人間以外の動物の方が世ほどはっきりした方向性を持っている。

あんたは何をしたい、どういう風に持っていきたい。
誰に対してもハッキリ言えるように、とは言わない。
ただ、自分としては少なくとも今はこういう風にしたいという
意志を持たなければ駄目だ。

上司といわれる人間の場合は、それがその部署の方向性になるのだから、
一層はっきりしなくてはいけない。
風見鳥、その場やっつけ続き。
こういう奴は上司失格。というより無用だ。

流行を追うのがすべてにおいて悪いのではない。
流行を十分に調査し、それが自分にとってよいものであるとして取り入れるのなら
これは結構なことだ。
だが、何も考えず、ただ世の中がそのようになっているからそれに従うというのでは
頭はいらない。自分で判断せず、他人の言い分の自分のそれと同じにし続けるのなら、
操り人形になってしまえ。


*無茶を言う奴

社会の中で物事を行う場合、どうしても自分一人ではなく、他人の力を
借りる必要がある。そうした中では、自分の都合だけではなく、
相手の都合も十分に考慮する必要がある。

ここで、他人の都合などお構いなしに、自分の都合だけですべてを勧めようとする
奴らがいる。こういう奴らは大抵、政治力を使って相手を動かす。
そして出てきた成果は自分達だけのものにする。

世の中には出来ることと出来ないことがある。
自分の範疇では出来ず他の力を借りる時、相手が「無理だ」と言うことは
素直に聞くべきである。自分らの意見を尊重しないような奴らの仕事は、
たとえやるにはやっても、思い入れがなく、いい仕事は出来ない。

相互信用に基づく関係こそが、連携作業に於ける基本だ。
時には無茶をしてもらう必要もあろう。
でもその時には、何かの面でそれに報いなければならない。

一方的な「無茶」では出来るものも出来なくなる。


*理屈を言う奴

理屈にも2通りあって、1つは理想であり、1つは現実だ。
どちらも重要だが、どちらかに片寄っていてもいけない。
一方へのこだわりは、時として「悪」になるから捨てねばならないが、
「まあまあ」などといって、単純にどちらにもへこへこするやつもいかん。

あることをするために、理想も何も捨てて、汚くても現実だけでやり遂げる。
やり遂げるためには手段は選ばない。すべて我慢をする。
それはそれでいいだろう。だが私はこういう人間を尊敬しない。

仕事の上では過程よりも結果を重んじられる。
それは良くわかる。
だが、そればかりを行うと世の中はいっこうにいい方向に進まない。
「出来たらいい」では進歩しない。

理想論をすると、よく「それは理想であって現実的ではない」と、はなから
否定してかかる人間がいる。世の中の悪を正義と説き、世渡りのためには
そうすべきなのだというものがいる。

愚かにもほどがある。こういう奴らはもはや人間ではない。
人は生きている限り、少しでも世の中を良くするべく生きるべきだ。
「進化」するべきなのだ。
「進化」「進歩」を捨て生きるだけ、それでは人間である必要はない。

10のうち、9は現実でも構わないが、せめて1でも理想に近付けるべく
努力すべきである。

        ・・・

結局のところ、次のように要約されるのかも知れない。
人は、自分の意見を持ち、それを他人とうまく強調させ、
少しずつでもいいから、進歩するように進めていくべきなのだということだ。
そういう風に生きていこうとする人間は好きだ。
そして、その正反対の人間は「大嫌い」だ。
まあ、はなっから相手にしないので、「嫌い」にもならないが。
(認識しない。)

結構多いのだけれどね、こういうやからは。
ほら、そこにも・・・。
 「ふん、そんなこと理想に過ぎん。しょせんは落ちこぼれの言う戯言さ。
        現実に世をうまく渡っている自分達の方が偉い。」

そう思うなら結構。
うまくやってくれたまえ。

私は、今の現実社会だけにその生きる価値を見つけるほど
了見と認識の狭い人間ではないのでね。
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