「御用達の謎に迫る」
(2000/11/29〜12/08号、2003/09/20追記)

先日、会社で言葉にまつわる話が電子掲示板に上がった。

そこで私が「御用達は『ごようたつ』」と読むのが正しいと言ったら、
「ごようたし」と読むのが正しいと反論されてしまった。
辞書にもそう載っていると(確かにそう載っている辞書もある)。

私もつい最近まではそれが正しいと思っていたのだが、
とある文献に「実は『ごようたつ』が正しい」と書いてあり、
それを納得したので認識を改めたのである。

しかし、残念ながらその文献が何であったか失念してしまった。
(確か地元の小冊子で、和菓子屋の人が書いていた文だと思ったが。)
そこで、改めてこの言葉の由来を考え、私なりに「ごようたつ」が
正しい理論を作り上げたのが以下の文である。
(当然会社の掲示板にもあげた。)

        ・・・          ・・・

「御用達」の件であるが、一般的には「ごようたし」であり、
そう書いてある辞書もある(←この言い回しを覚えておくこと)。

私も最近までそう思っていたが、何かの文献で「『ごようたつ』が正しい」と
読んで、それを納得した。
しかし、今となっては何の文献だった、どういう理由だったかはっきりしない。

そこで、私なりに分析してみた。

        ・・・

そもそも「御用達」とは何か。この語句は何処で切って考えるべきなのか。
「御用・達」なのか「御・用達」なのか。

「御」は位の上の者に対する敬語というか敬文字である。
ということは、その位の上の者の名前が前に付くと考えるのが妥当である。
例えば、「宮内庁御用達」のようになる。

宮内庁自らが自身に「御」を付けることはないので、
この文言は位の下の者が敬まって使ったと解る。
従って、これは「宮内庁御用・達」である。
宮内庁の御用をさせていただくわけである。
「御・用達」ではない。

ここで漢和辞書を開くと、「達」の読みに「たし」という読みは「無い」。
(「たっし」はあるが、それに付いては後述。)
また「用達」という言葉もあるが、この読みも「ようたつ」であり
「ようたし」ではない。
だから、本来の漢字の読みからすれば「ごようたし」はあり得ない。
もっと言えば、本来「御用達」という独立した言葉すらないのだ。
前が省略された言葉なのだ。

        ・・・

ではなぜこれが一般化したのか。

位の下の者から言う時は、御用を達するので「ごようたつ」だが、
位の上の者から見れば、そこを使って用を足してやっているになるのかもしれない。
即ち「宮内庁御用足し」である。
この「御・用足」と「御用・達」が混ざって「ごようたし」になってしまった
のではないかと推測する。

位の上の者が「ごようたし」とい言うのは「ご」の分がおかしいし、
下のものが言っては無礼にあたる。
従って、「ごようたし」は身分制度が表面上廃止された明治以降に
発生したのではないかとも思われる。

これを確認するには、江戸及び明治の文献を調べなくてはならんと思っているが、
まだ機会がない。
田舎に明治の辞書があったから、今度帰った時に調べてみよう。

        ・・・閑話休題・・・

「御用命」という言葉はある。この場合も「宮内庁御用・命」であり、
宮内庁の御用を命じられたという意味である。
「用命」という言葉はあるが、それで行くなら「宮内庁用命」としなければ
ならない。

位の上の者が自身に「御」を付けることはないし、
それを位の下の者が書いてはならない。

また、「達」には「たっし」という読みはある。これは訓令を意味し、
要するに命令である。
従って、「御用達」が「御用を命じられた」という意味で取るなら、
「ごようたっし」と読めなくはない。
これが短くなって「ごようたし」になったと。
しかし、この「たっし」を使った熟語は他には存在しない。
せいぜい「御達」と書いて「おたっし」である。

この意味で行くと、「宮内庁御用・達し」であるが、
「御用」だけでは動詞が存在しないので文章にならない。
すると、少々くどいが「御用を達することをお達しされた」と解釈するべきである。
となると「ごようたつたっし」であり、「ごようたつ」を間違い
とすることは出来ない。もっとも、「ごようたし」も間違いとは言えないが。

最後に。「国語辞典,三省堂,1974」によると、
「『ごようたし』、正しくは『ごようたつ』」とちゃんとある。
金田一京助+金田一春彦先生がそう言ってる。
やっぱりこれでいいんだ(自信)。

        ・・・

参考文献
        現代国語辞典,新潮社,1985
        新選漢和辞典,小学館,1977
        国語辞典,三省堂,1974

        ・・・

ということである。

世の中で一般的に言われていることに対し、「実は間違っているのではないか」
という疑問を持ち、それを立証しようとする。
発見・発明は、常識を覆すことから生み出されることもある。
だから、常にこういう視点でものを考えてみるのも良かろう。

この件も、別にどちらであってもいいようなものだが、
こんな些細な言葉から、常識が本当に正しいかどうかの議論のネタが
出来たことは面白い。

        ・・・2003/09/10追記・・・

↓ここに「ごようたし」が正しいとするとある教授の話が出ている、というメイルをいただいた。
http://osaka.yomiuri.co.jp/feature/kotoba/010214.htm

何かどこかの辞書に書いてあったような内容で、私を強く納得させるものはない。
極端な言い方をすれば「別にそう考えたければそれでどうぞ」という程度である。
所詮それも「一説」であるし、私のも「一説」である。
仮に「おまえのは間違っている」と言われても何とも思わない。
現に金田一先生は「ごとうたつ」を正しいとしている。

しいてこの教授の説の問題点をあげておくならば、
「御用達はもともとは御用商人のこと」としている部分がいけない。
この「定義」の裏付けとなる記述がない限り、もっと言えば
この部分が「思いこみ」である可能性がある限り、この文章が「正しい」とは言えない。
確かに公であるという歴史的事実を何かの資料をあげて紹介して頂けると
ありがたい。

        ・・・

日本人はどうしても「権威」の発言に対して暗黙に納得してしまう悪い癖がある。
それが例の縄文時代発掘ねつ造などを見抜けなかった原因である。

大切なのは、たとえそれが「権威」の発言であっても鵜呑みにしないという姿勢である。
それについてよく考えた結果、同じになればそれで良いし、
異なる結論を得たなら、それを思い切って発言すればよいのである。
それに対して「権威」が反論しても無視すればよい。
一番大切なのは自分の意見を持つことである。

        ・・・

私が強くそう思うようになったのは、そもそも「権威」が大嫌いということがある。
(マンガ「美味しんぼ」の影響も多分にあろう。^_^)
私は「教授」が常に正しいなどとは全く考えていない。
むしろ、「一度自分の思いついた考えに固執する頭の固い人」と思うこともある位だ。
もちろんそうでないすばらしい「先生」もいるが、
過去の論文にあぐらをかき、今は権力闘争に終始する醜い老人も多いのは事実であろう。
(そういうのを大学の時に見てきた。)

「教授」という肩書きを取った努力はすばらしい。
しかしがそれが「過去の思い出」とならないよう、常に研鑽をして欲しいと思うのである。

そうそう、上記ページに書いている教授がそうだと言っているわけではない。
念のため。

        ・・・2003/09/20追記・・・

で、9/10の指摘があったので、今度は別の辞書を元に検証することにした。
今回使ったのは、CANONの電子辞書IDF−4000であるが、
この辞書の元になっているのは広辞苑(第5版)および漢字源(漢字辞書)である。
これは現行機種ではないが、後継機種は出ているのでそのカタログを見るか、
私もここで紹介しているので参照されたい。

これによると、確かに「御用達=御用商人」という記述がある。
しかし、これは本来の言葉の出自から考えると、後からこうなったと考えるべきである。
なぜなら、「達」そのものに「商人」という意味はないからである。
更に調べていくと、「用達」という言葉も本来別の言葉から変成したような
感じがする。

「用を足す」という言葉がある。
これは用事を済ませるという意味である。
これは動詞であるが、これの名詞形が「用足し」(ようたし)である。

辞書によるとここに「用足し または 用達」とある。
しかし、本来の漢字の意味から言って「達」はおかしいので、
これは「足し」(たっし)と同じ音の「達し」が当てられたと思われる。
その理由であるが、「足」という漢字の感じを嫌ったか、
「用足し」には「便所へ行く」という意味もあるので
それをいやがったかと思われる。
もしくは、「用足しをする人達」を縮めて「用達」になったかである。
まあ、これは少々こじつけではあろう。

このように、同じ読みの漢字へすげ替えることは、昔(今も?)はよく行われている。
特に地名にその例が多いが、「おおさか」はそもそも「大坂」であったが、
「坂」が「土に返る」となるのでその意味をいやがって「阪」としたのは
有名であるし、大分県にある「杵築」もそもそもは「木築」であったが、
幕府が間違って書いてきたので以後「杵築」にしたという例もある。

この考え方で行けば、「用達」とは本来は「用足し」であり、
「御」は位が上の人に対する献上のために付けられた接頭語(?)、となる。
従って「御用達」は「ごようたし」と読むのが正しい、と言える。

さてここまではその読みの考察であったが、「用達=御用商人」
とする過程の考察が抜けている。

江戸の大奥において、品物を買い上げる役職があった。
これを「広敷用達」という。
「買い上げる」と言うことは、買ってくると意味ではなく
いわゆる「質」のようなことをしていたのではないかと思うが、
そのほか諸々の用事もさせられていたではあろう。

この「用達」の由来は上記の通りであるが、
元々は武士の役職であったろうが、後にこれが商人に替られるようになることは
想像に難くない。特に江戸後期は商人が金を持っていたから。
これが「用達」=「御用商人」の意味の成り立ちだと思われる。
すなわち、この等号は、「用達」という言葉の成立よりずっと後に出来たのである。

この説では「ごようたし」の読みが正しくなる。
だからといって、先に述べた「ごようたつ」説が無効になるものではない。
ゆえに、どちらか一方を間違いだ/正しいとは言えない。
どちらでも言える、である。

しかし大本をたどればそもそも「御用達」という漢字の当て自体は間違っていると言えるし、
さらに、「用達=御用商人」だから等という言葉で片づけるのはあまりに安易すぎる、
というより、この手の議論をする上では手順として間違いであると言える。
その意味では件の教授の意見は「正しくない」。

この教授に対してはなんの恨みもないが、ある一方を正しいというなら、
まして己の立場を考えて述べるのなら、これくらいのことを書いてくれなければだめだ。
「一般人相手にそんなに真剣に書けるか」と思っていたなら傲慢だし、
(辞書を読んで)盲目的に「『ごようたし』が正しい」と思いこんでいたなら怠慢である。
立場のあるものとして言葉の由来を述べるならば、
この程度の考察は「最低限」必要だ。

ということで、「御用達」の読み方、両方について考察したのであった。
いやあ、たまにはこういう事をすると頭の体操になって良い。
また別の例を見つけてやってみるかな。
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