「電子ブック論」(1995/05/29執筆)
「DynaBook」。

それは東芝のパーソナルコンピューターの製品名ではあるが、
そもそもはアラン・ケイという人が提唱した、(一種の)究極のコンピューターの理想像である。

その理想に近づくために作られたのがXeroxのAlto
(現在のグラフィカルユーザーインターフェースの基礎や高解像度
グラフィックディスプレイ、マウスなどはここで開発された)であり、
アップルのLisaやマッキントッシュである。
そして、今のパーソナルコンピューターは、全てこの理想に近づこうとしている
といても過言ではない。

その理想を一言で言えば、「電子ブック」である。
1冊の大学ノートをコンピューターに出来るか。

どこにでも持ち運べる。
絵も文字も区別の無い自由な書き込み、読み出し。
これにコンピューターならではの便利さを加える。
検索、音楽や動画も入れる。
そして遠くの人との通信、
自分の入れたデータだけでなく、他の人のデータの参照、
データの共有など。
確かにどれが出来ればどれだけいいだろうか。

このような電子ブックは、はたして実現可能なものであろうか。

結論から言えば、ソフトウエア的には、
もうだいぶいいところまで来ているといえる。

手書き入力はもう実用可能なレベルにある。
手書き漢字入力も十分利用に耐えるレベルだ。
(SHARP「書院」のそれは非常によく出来ている。)
音楽や動画も扱える。音声取り込みも簡単だ。
通信は今や一般的だし、データ共有もLANや通信で出来る。

ではハード的にはどうか。
私が思うに、ハード的にはまだ解決されるべき点が多い。
これは意外だと思うかも知れない。

高解像度ディスプレイやマウスはすでに出来ている。
液晶もカラーになっている。
ノートパソコンですら数百メガバイトのハードディスクを積んでいる。
これで何が足りないのか。

事実、電子ブックに必要だと思われるハードウエアデバイス(デバイス=装置)は、
その多くはすでに開発されていると言える。
しかし、それを「電子ブック」として使うには問題があるのだ。
問題を要約すれば、
        大きい(重い)
        少ない
        遅い
        根本的思想の欠如
の3点にまとめられる。

        ・・・

「大きい(重い)」。
これはわかりやすい。
持ち運ぶにはまだ大きすぎるということ。
今のポータブルコンピューターは大学ノートと比べ、大きさこそ
同じであるが、実は分厚くて重い。
大学ノートは分厚くても5ミリ程度だし、重さだって、
1キロ有るノートなんて無い。
液晶、キーボード、ディスク全て大きくて重すぎる。
相手を文庫本にすれば、大きさもとうていかなわない。

「少ない」。
ハードディスクの容量が数百メガバイトであろうとも、
動画や音声を記録すれば1分ももたない。
動画などは他のコンピューターデータと比較して、
べらぼうにデータ量が多いのだ。
(余談だが、超高速通信手段が必要といわれるのは、高速に多種の情報を
送ることではなく、大容量の小数精鋭データーを送ることにある。)
これらをまともに処理するためにはギガ(=1024メガ)バイト単位の
記憶容量が必要だ。

「遅い」。
速度の問題。
現在のCPUの処理スピードは決して遅いものではない。
いや、十分すぎるほど速いと言っていい。
「でも遅い」と言われるかもしれない。
これはCPUの問題ではなく、ソフトの作りが甘いのが原因だ。
このあたりはよくCPUの速度比較において「誤魔化し」として使われるのだが、
いくらいいCPUもソフトが腐っていればどうしようもない。

速度といえば、処理能力だけでなく、
電源を入れて、使えるようになるまでに時間がかかるのもいけない。
ノートは開ければすぐに使える。
そのスピードは電子ブックにも必要だ。
レジュームももちろんだが、電源オンから利用可能まで、最大でも2秒。
これが限界だと思わなくていけない。
そういう意味では、今のDOS/Windowsパソコンはすべて
失格である。
そして最後が「根本的思想の欠如」。
これが一番厄介だ。
今のコンピューターは、機能上「DynaBook」に近づいてはいるが、
思想の面でまだまだ多く及ばない。
その理想と現実の隔絶を埋めるためには、
もう一度何を目標にしているのかを見つめ直す必要がある。
そして、それと人とのかかわりについて考え直す必要がある。

        ・・・

ノートはどのように使われるのか。
本はどのようにして読まれるのか。
そうした「根本」を見つめ直さなければ、「DynaBook」は出来ない。

例えば本のページをめくるという動作。
何気ない動作だが、これには大きな意味がある。
仮にページをめくる必要の無い本があったとしよう。
大きな巻物を連想すればいいかもしれない。

そのような本(?)を読み続けることが出来るかどうか。
現代人なら、おそらくは、最後までいく前に疲れてしまうだろう。
読んでいる途中でも、何か1つイメージがわかないのではないか。

ページをめくると言う動作に秘められた意味がそこにある。
ページをめくっている一瞬の間、一瞬文字が見えなくなる間に
人は想像をかきたてているのだ。

例えば、先にあげた立ち上がりの速度。
開けてすぐに読めない本がどこにある。
すぐに書き込めないノートがどこにある。
「準備が必要」というものは、すべて使えない。

人はいつまでも、旧来の作法や技術にしがみ付いていてはいけないが、
そこに根本的利点があるとするならば、それを無視してはいけない。
「電子ブック」求められるのはそこなのだ。

先のページめくりの例でいうなら、
必要な技術は、紙のように薄い表示デバイスであり、
ソフトウエアとしては、それをめくる動作をすれば次のページが
表示されるようにすることである。
立ち上がりのスピードは一瞬でなければならない。

これから先10年、いや遅くても20年のうちには
「電子ブック」は現実のものとなろう。
それがこの理想にどこまで近いか。
それは旧来の「本」や「ノート」の利点を全て引き継ぎながら、
さらにいっそう便利なものであろう。
そうなった時、人類最高の発明と言われる「本」や「ノート」が、
「紙」から解放される。
ここに真のペーパーレスが実現する。

そうなると、次に求められるのは人間の進化である。
それまで親しんできた「紙」から離れ「電子紙」へと移る。
見た目上の問題だけでなく、その使い方の変遷。

読むだけ、自分だけのものでなく、1冊の「本&ノート」が、
書き込め、取り出せ、他の人ともつながっているということ。

同じ名前のものの、全く新しい使い方。
それが出来るかどうか。
その使いこなしが人の価値を決める。
そういう時代が、もうすぐやってくる。
<戻る>