理想が緊急に必要とされている

ヴャチェスラフ ルィバコフ


「人が自分自身に対して為すありとあらゆる惨禍の中で、魂にとって
最も破壊的で堪え難いものが戦争である。かつてマルクス主義者たち
は戦争を正義の戦争と不正義のもの、民族解放戦争と侵略戦争・帝国
主義的戦争とに細分していた。だが、人類共通の観点から、わたした
ちは戦争を二つの異なるグループに区分することができる。」

「前者の戦争は実際、別の手段による政治の延長以上のものではない。
このような紛争では、どちらの側も相手を滅ぼそうとしたりはしない。
かれらはただ、互いに相手から何かを手に入れたいだけだ。それ故、
どんなに逆説的に聞こえるにせよ、戦闘の最中でも互いを必要として
いるのだ。あたかも仲違いはしているが、相変わらず愛しあっている
夫婦のように。」

「己の世界観、己の価値体系そして己の信念を相手に完全に押し付け
る目的を持って戦争が生じ、戦われる時、これと完全に異なることに
なる。そこでは戦闘行為は完全な破壊のもとに行われる。勝者の目的
は軍事的勝利によってはもたらされず、この勝利は単に本当の目的を
達成するための障害を除去するだけなのである。そして真の目的とは、
相手を完全に精神的支配下に置く侵略であり、軍事的敗北の後も個人
的な精神的抵抗を続ける個人を公然と根絶することにある。根絶する
べき信頼はどんなものでもかまわない。自国民に対する信頼、自分の
神に対する信仰、己の社会発展のモデルに対する信頼。まさにここに
戦争遂行手段の極限の恐ろしさと非人間性が発生する。」

「20世紀は既に新たな技術とプロパガンダの段階にあるのだが、ふ
たたび世界に宗教戦争の相貌を示した。」

「それはなぜか?」

「宗教発達の歴史とは、かなりの度合でそれら宗教を組織した来世に
ついての超越的権威者たちの発達史である。しかしながら、彼らは彼
らの種族、民族、職業そして信仰についてさえ(改宗にいたるまで)、
その特質に対してますます関心を払わなくなり、まず第一に自分たち
自身を可能な限り、より偉大な人々であると考えたように思われ
る。」

「原始社会の超越的権威者は始祖であり、あれはだめ、これはだめと
さまざまな種類のタブーを大量に考案した。だが、これは氏族構成員
である人々との関係においてのみのことであった。他の2本足の連中
は人間とは呼ばれず、まったく別の言葉で言い表された。しかし、自
分たちとの関係においては、あらゆる不吉なことが禁止されてい
た。」

「だが、社会が複雑化すると、世間は新たな統合された神々を呼び招
くようになる。そして、そのような神々がやってくる。『ギリシア人
もなければ、ユダヤ人もない』倫理的な宗教が徐々に発生し、世界の
人の心を征服してゆく。すでに血のつながりではなく、信仰のつなが
りによる宗教団体が『自分たち』の規範となり、通常、宗教団体への
加入は公式には個々に開放される。」

「18世紀、そしてとりわけ19世紀ヨーロッパ社会における世俗化
とそれに続くなだれのような無神論化はキリストの権威をモラルか
ら駆逐し、モラルを将来性の無いものとし、プラグマティストの嘲笑
に対してまったく無防備な生命の無い紋切り型の言葉のセットに変
えてしまった。まさにこのことがしばらくの間、戦争を脱イデオロギ
ー化した。勝利者が己の信仰を敗北者に押し付けることは、特に相手
がそれを信じていければ、いささか困難だったのだ。とは言え、この
ことこそが社会の平和状態をドストエフスキイが公式化した恐るべ
き将来の前に追いやったのだ。即ち、もし神が存在しないのならば、
あらゆることが許されるのだと。言うまでもなく、文化にとって、こ
の将来展望の実現を許すことはできなかった。」

「その当時、はなはだ異なった学説を研究していたどのような哲学者
達の意図をも超えて、彼らのうち誰一人としてこの問題を避けて通る
ことはできなかった。哲学者達の大多数はとにかく、新たな超越的権
威を見出そうと試みた。個々の信者に対してその人自身の『わたし』
よりも大いなる価値を設定し、モラルを補強し、その戒律を疑う余地
なく、個人主義的な侵食や歪曲に見舞われないようにする新たな超越
的権威を。」

「ちょうどこの時、ヨーロッパ文明はまったくもって新しい歴史の概
念を提起した。それに従えば、歴史は一ヶ所で足踏みしたり、輪を描
いて疾走するものではなく、程度の低い世界からより完全な世界へ上
昇する前進的で、ある程度制御可能な過程である。」

「まさにこの概念こそが質的に新しく世俗化した、人々をまったく異
なる主義により、大規模で無限に拡大する力を持つ教団に統合する超
越的権威を探し出すことの始まりを可能とした。これらの超越的権威
とは、現世の未来モデルである。その可能性と望ましさを証明するた
めには、未来の社会体制について、ある程度は科学的に見える何等か
のバリアントを提示する必要がある。そしてもしその未来に情緒的に
心を惹かれる人々があれば、その人達はみな、他のあらゆる信仰と同
じく個人にとってかくも必要な個人を超えた存在の意義を与えてく
れるこの奇妙な信仰の同信者と言うことになる。そして仮にメンバー
が他のメンバーに対して不道徳な行動をすれば、超越的権威者は未来
が実現しないかもしれないとして罰するのである。」

「言うなれば、こうした第3段階の宗教のすべてがまさにキリスト教
地域で発生したことは非常に注目に値する。一方では、超自然的なモ
ラルのよりどころしか知らず、その反対側では大衆的無神論にまで至
るのである。新しい世俗化した倫理は極東には何一つ存在しなかった。
そこには古来からすでに儒教により開発された道徳が存在し、国家/
家の二元一体の現世の超越的権威を拠り所としていた。回教地域でも、
道徳の世俗化は必要なかった。そこでは雪崩的な無神論化が起きなか
ったからだ。それはそうとして、まさにそれ故に非キリスト教文化地
域では、日本を除いてまじめなSFが発生しなかったのだ。こうして、
ヨーロッパ文明はいつの間にか窮地に陥った。すでに平面上をさまよ
う余地はなく、新たな段階へと飛躍せざるをえなかったのだが、言う
までもなく、そこには新たな諸問題があった。どのような質的跳躍の
場合でも同じに、そうした問題を前もって知ることは不可能であった。
そして、それらの対策を事前に練ることはそれ以上に不可能であっ
た。」

「マルクス主義は、それを経済学説とみなすことは愉快であるが、文
化の発達そのものが提起した問題、即ち、何故に人はキリストの世界
ではなく現世で、互いに愛しあうのか?に対する解答を探し求める、
十分意識的なものではないが、歴史的に最も意義のある試みであると
わたしには思われる。マルクスはまた、階級的特徴により人類を’自
分たち’と’他人’とに区分せずにいられなかったし、ことの本質、
具体的な政策に至る必要があったので、これがキリスト教最初の世紀
の血まみれのごたごたをほうふつさせる血生臭い混乱を生じさせる
こととなったのだが、それは別のことである。」

「もう一つの歴史的に極めて意義深い未来建設のモデルを提起した
のがナチズムであった。今、わたしたちのロシアでは共産主義とナチ
ズムとは同じものであると繰り返し言うことが流行となっている。政
治的に見てナチズムが共産主義の影響なしに発生したのではなく、共
産主義により投じられた挑戦への反応であるとする考えは正しい。ま
た、双方のモデルを実現するため、グロテスクな全体主義マシンが創
造されたとすることも正しい。しかしながら、はなはだ本質的で、た
ぶん根本的な違いがあるのである。」

「ナチズムにおける宗教的崇拝の対象は祖国であり、その提起する未
来モデルの核心はナチズムによる世界の、悪くとも地域の制覇であっ
た。それ故に、ナチ社会は原始部族のように閉鎖的で、孤立していた。
共産主義にとってはギリシャ人もユダヤ人の別もなかったから、教団
への加入は常に開かれていて、階級の無いユートピアを信じるように
なるだけで十分だった。ナチズムは人類が支配者の種族か、奴隷の種
族かに分けられる近未来を常に皆に提示している。共産主義は、収奪
者の収奪の炎を通じて、やがて永遠に普遍的な教団を理論的に必然的
に確立するはずであった。まさにこれゆえ、共産主義はナチズムより
発展性を持っていたのだ。まさにそれ故に、共産主義は、その教義の
実践上の実現が共産主義を大量虐殺の深遠に投じるまで、かくもしば
しばナチズムが決して与えられることなかった、キリスト教と比較さ
れる光栄に浴することになったのだ。まさにこのこと故に、60年代、
共産主義がテロと強制収容所とに絶縁しようと試み、しばしの間、か
なり熱心に本当に縁を切ったふりをしたその時、ロシアの宗教思想に
おいて、ソビエト政権の下で生まれた世代のうち、おそらく最も正直
で、最も私心なく、そして最も善良な世代が成長することができたの
だ。そして、かれらは他の人々の間にあって、共産主義的理想に基づ
き、今なおその芸術的価値を失っていない燦然たる文学的ユートピア、
例えば、エフレーモフやストルガツキイ兄弟のファンタスチカ小説の
影響なしに育ったのではないのである。」

「20世紀の相次ぐ流血の狂騒を幕開いた第一次世界大戦はすでに
宗教戦争の要素を持っていた。ロシアの内戦は、どはずれた宗教戦争
であった。人類史上最大の軍事衝突であるソ連対ドイツの大祖国戦争
は、始まりから終わりまで宗教戦争であったのだ。」

「70〜80年代の共産主義地域における雪崩のような無神論化は、
前世紀のキリスト教ヨーロッパにおける怒濤の無神論化に似ており、
以前そのままの緊迫度をもって、個人の存在の超個人思想の問題と、
人々を教団に統合し、さわやかなモラルの束縛を投げかけて信者を互
いから保護する能力ある超越的権威の問題が再度、生じてきた。価値
体系に突如として生じた結び目の空白に、古い神々が最も醜い形で侵
入した。とりわけ高い神の地位を得たのが、古代の氏族・部族の盲目
的崇拝物である『自分たちの民族』であった。自分たちの部族、自分
たちの始祖、自分たちのトーテム。そして、自分たちのナチズム。」

「それ故に、ロシアのいわゆる地域紛争、例えばアフガニスタンの部
族間の反目もまた、王の治世に提示された未来モデルを喪失している
し、バルカンの戦闘もあのように長引き、果てしない性格を帯びてい
る。敵対者達はもう相手から何も欲していない。例えそれが最も名誉
あるものであってさえ、何等の妥協も、如何なる譲歩も、どのような
賠償をも欲してはいないのだ。かれらはただ相手に存在して欲しくな
いだけなのだ。もしくは、最悪でも相手にとにかく見えなくなるくら
い服従することを望んでいる。文化が事前に予知することができなか
った新たな、原始時代のものではない理想に対する支払いとは、かく
の如きものなのである。」

「民族が互いからこれら最近の理想主義的夢想を駆逐し、思想などな
しに、'live and letlive' つまり、'生きよ、そして他の者の生きる
邪魔をするな'の原則に基づき暮らすようになるまで待つ方が簡単に
思われた。だが、ことは皆、そのように簡単には行かなかった。」

「問題は、思慮も抑制もなしに発達した工業・消費文明は、さまざま
な予測によればまだ50〜80年は続くだろうと言うことだ。驚くべ
き、ますます増大する速度をもって、工業・消費文明は世界を食いつ
くし、世界を消化し、汚物と人の血液に沈めて行く。人類は自覚的に
建設される未来を必要としているのだ。」

「来るべき危機については、もう少なくとも四半世紀前から書かれ、
語られてきている。だが、それらすべてのうち最も説得力のある言葉
でさえ、実務的な政治家やプラグマチストとともにガチョウのように、
転落してしまう。賢く、理性的な思想家たちは荒野に向かって叫んで
いるのだ。実際、かれらはあまりに気の滅入るような言葉を述べ、人
類が何とかして生き延びるためには、多く人々があまりに多くのこと
を放棄するよう求めている。非の打ち所のない議論のロジックも、
人々の日常生活上の憤激と言う障壁を通り抜けることはできないの
だ。」

「人々を大衆運動に導きいれ、その大衆的生活態度を変えるためには、
科学的計算ではなく、崇拝の対象となる力を持ち、情緒的に人の心を
惹く未来モデルを示すことが必要である。しかも、共産主義にとって
そうであったように、その未来モデルにとってギリシャ人もユダヤ人
も、キリスト教徒も仏教徒も違いがあってはならない。そして、その
未来モデルにとっては、キリスト教にとってそうであったように、収
奪者も被収奪者もあってはならない。」

「この過程において、大きな役割を果たすのは、人間の意識に対し情
緒的に働きかける非暴力の手法である。それが芸術である。そして、
まず第一に文学である。そして、ひょっとしたら、主としてファンタ
スチカである。」

「この語の結合の持つ本来の意味におけるSFは、ほんの最近になっ
て生じたものだ。産業革命がうまく進展しはじめ、その当時人々には
あまり理解できなかった工業が多くの人々を吸収しはじめた時、現実
がSFを存在せしめた。大衆科学文学は存在しなかった。普通教育用
読み物への慣れの方が大きかったのだ。こうした環境の下、小説作品
の創作について極めて好適な考えが現れた。そこでは可能性の段階と
して、出来事は主題的に理由ある何等かの科学的、技術的な知識の説
明に貫かれ、おまけに、恐ろしくないばかりか有益ですらある主題が
立証されていた。」

「しかしながら、この考えの採用によって局地的な日常生活の変化の
みならず、はるかに興味深い、総体的でグローバルな生活の変化をも
提示することができることが明らかになった。いわゆる進歩と言う社
会的成果を示すことは、完成度の低い社会からより高い社会への上昇
過程としての歴史の理解そのものであり、それによりこの世の超越的
権威を公式化し始めることを可能とした。ありとあらゆる変化、技術
的なもの、自然のもの、社会的なもの、歴史的なものの結果として生
じる社会、そしてこれらの社会が産み出した人々を示すことを。」

「ファンタスチカの対象となるのは世界の変化ばかりではなく、変化
した世界でもある。気がつくとらせんは完全に一周しているのだ。既
に多種多様な活動舞台の創設の採用と言う新たな絶大な兵器庫によ
り武装した新しい段階にあって、ファンタスチカは、何を変え、何を
変えるべきでないかを説き、どのように生き、どのように生きるべき
ではないかを解説する大領域に戻ってしまう文学領域から永久に離
れてしまっている。」

「この後、ファンタスチカが多数、例えば中世の傑出したユートピア
作品のように重要な作品と共に出現したと言うことはほとんどでき
ない。第一、これらのユートピア自体がわれわれの精神に固有の不可
解な芸術的形象による非常に古い伝統の方向に位置している。何か望
ましいものを納得できるように、そして魅力的に書きさえすれば、も
うそれでもってある程度現実に現れるのであり、いずれにせよ、近未
来においてその実際に出現する確率は急激に増大するのだが、何か望
ましくないことを納得でき、胸の悪くなるように書きさえすれば、そ
れは回避され、現実世界への出口を閉ざされるのだそうだ。わたした
ちは、祖先がマンモスの線画を刻み、そのことが明日の現実の猟の助
けとなると固く信じ、悪霊の真の名前を知り、それを声に出して言い
さえすれば霊が直ちに降伏し、無害になると確信していた洞窟からこ
うした信念を盗んできている。そして、第二に、福音書や黙示録と言
った作品がヨーロッパ文化にとってのこうした伝統の壮大なフィナ
ーレとなった。天国についての書物、天国へ行くためにはどのように
生きるべきかを書いた書物、そして世界の終わりの地獄についての本、
その地獄を通りぬけるためにはどのように生きるべきかを書いた
本。」

「小説化された望ましい世界、そして望ましくない世界の記述とは本
質的に何かの天与あるいは何かからの保護への祈りである。そこでの
読者の感情は、集団祈祷式の時の信徒たちの感情に類似している。シ
リアスなファンタスチカは、伝統的に書き加えられた科学性にもかか
わらず、本来の宗教文学に次いで最も宗教的な種類の文学なのである。
神を信じないが、それにもかかわらず、超越的権威や共通の信仰を必
要としている無神論者たちの世界に、宗教が侵入するための隠れ頭巾
や迷彩服なのである。そして、無神論者たちはわたしたちが欲し、そ
して欲しない未来のヴァリアントあるいは二者択一的現在として、こ
の信仰を得ているのだ。」

「こうしたわけで、60、70年代のロシアでファンタスチカはとり
わけ特徴的で驚くべき役割を果たしたし、おそらく将来もその役割を
演ずるであろう。信仰を同じくする人々の連合である宗教組織との類
似性すら生じている。わたしが考えているのは、標準から外れた思考
をするが、決して犯罪行為の傾向は持っていないファンタスチカ愛好
者達のことだ。ファンタスチカ・ファンの集会や大会では、その時の
最上のファンタスチカ作品が提起した倫理的・社会的な諸問題が、何
世紀も前に正教の全地公会で『だれが聖なる神を産んだのか?』につ
いて討議したのと同種の情熱と好奇心とをもって議論されているの
だ。このようにして、信奉者たちは人道主義的・共産主義的な道徳の
教義の輪郭を究明していったのだ。」

「わたしは休憩したい時に娯楽そのもののために読む、気晴らしのた
めの商業主義的ファンタスチカの役割を絶対に過小評価したくない。
しかし、シリアスなファンタスチカ(これをロシアでは時として『幻
想的リアリズム』と呼んでいるのだが、近年は、『ターボリアリズム』
なる用語さえ発生している)は、ひょっとすると、その読者の理解し
やすさと情緒に訴える力によって、道徳的な、そして社会的ですらあ
る全人類的理想を形成するための最強力手段の一つとなるかもしれ
ない。そして、その理想はしだいに大多数の人々にとって現世の超越
的権威となりつつ、さまざまな民族やさまざま信仰の代表者達の現実
未来についての考えを同じくしてゆき、そのことは将来において理性
的で人道主義的な作用を及ぼし、人類の実生活から大規模な宗教的、
思想的そして民族的紛争を追放することを可能とするであろう。」