SFオタクの「巨匠とマルガリータ」を巡る遍歴

 以下の文章は、とあるSFオタクのモノローグとして受け取っていただきたい。
 実のところ、筆者はロシア語やロシア文学を専攻したというわけではないので、文献に恵まれた環境にはいなかった。したがって、最近まで訳本が入手しづらかった「巨匠とマルガリータ」はずっと幻の作品だった。
 現代のロシアSF――ファンタスチカの源流を形作った作家として、ブルガーコフは絶対に避けて通れない作家なのだが、実際に読んだことがあるのは「犬の心臓」と「悪魔物語」くらいしかなかった。だが、両作品はSFとしても最高の出来だったので、そのブルガーコフの最高傑作とされる「巨匠とマルガリータ」に対する期待は、筆者の中ではこれ以上ないほど膨らんでいった。実際、ローリング・ストーンズ「悪魔を憐れむ歌」の下敷きとなり、ロシアのSFオールタイムベストでも常に上位に入る作品ともなると、SFオタクの心を刺激しないはずがない。話はちょっと外れるが、ローリング・ストーンズのミック・ジャガーに「巨匠とマルガリータ」のことを紹介したというマリアンヌ・フェイスフルも、私と世代を同じくするSFオタクにとっては「神」に等しい存在なので、周辺部からさらに期待が高められる結果となっていた。
 「読みたい病」が高じ、英訳版の本を買い、インターネットから原著をダウンロードしたりと、周辺を巡ることだけは続けていたが、読むことだけはなかなかできないでいた。そんな折、集英社版を実際に初めて手にすることができた。群像社版が出版される数年前のことだった。本を初めて手にした時には、それだけで感動したものだった。
 ブルガーコフの凄さを今さらここで語る必要はないだろうし、「巨匠とマルガリータ」のストーリーを語っても仕方がないので省略するが、読後の最初の感想は「やっぱり期待に違わぬ出来のSFだ!」というものだった。
 ここで、「巨匠とマルガリータ」はSFである――という主張に対して異論を抱く方も多いだろうと思うので、ちょっと付け加えておく。SFというジャンルはやっかいなもので、冒険小説の側面と、思弁小説の側面を同時に併せ持っている。最近では、冒険小説としての側面ばかりが強調されているので誤解されやすいのだが、SFの出発は英米ならばウェルズ、ロシアならゴーゴリの作品に代表される「幻想的手法を用いた文明・文化・社会批判小説」だったのである。
 したがって、「巨匠とマルガリータ」は、幻想的エンターティンメント性と社会批判を同時に併せ持つ、まっとうで、かつ正当なSFに他ならない。SFを読み続け、SFにこだわり続けてきたオタクの一人として、筆者は逆に問いたい。
 「巨匠とマルガリータ」のどこがSFじゃないの?