科幻情報 Vol.33


《科幻世界》日本でも購読可能に

 前号でお知らせした《科幻世界》誌の購読の件ですが、内山書店へ問い合わせてみたところ、何とか購読できるようになったということでした。連絡先は前号をご参照下さい。購読料は1年間で1万2千50円。また、会員の川口秀樹さんからの情報によると、次のところでも購読の取り次ぎをしてくれるということです。
 購読料が割高になるのは、郵送費の関係上やむをえないところでしょう。しかしあの雑誌1冊読もうと思ったら、そうとう読みごたえがありますよ。きっと値段だけのことは十分にあるのではないかと……(^^;)


古龍の武侠小説上陸!

 徳間書店から金庸の武侠小説シリーズが刊行されはじめて、はや3年めに入ろうとしていますが、中華世界で香港の金庸と人気を2分している台湾の古龍の作品群が、小学館文庫から刊行されました。「アジア・ハードボイルド」と銘打って発売された第1号は、侠盗楚留香の活躍する『蝙蝠島』の上中下3巻。時代考証にこだわらない、というより架空の時代の物語を展開する古龍のシリーズは、FTのつもりで読めるので、あるいは日本の読者にとって入りやすいかも。表紙イラストは思いっきり目立ってますので探してみて下さい。文庫本なのでお値段のほうもそこそこ。むろん徳間書店のほうも元気で頑張ってます。来年は『雪山飛狐』『飛狐外伝』の連作が刊行されるとか噂されてますので、こちらもどうかよろしく。


97年科幻小説銀河賞受賞作の紹介

 Vol.31で川口さんが紹介してくれた97年銀河賞受賞作のいくつかを読んでみたので、その感想などを述べてみたい。

緑楊《黒洞之吻》科幻世界97.8掲載

 科学にあまり強くない身にとっては、最新の研究成果を追いかけるのはしんどいものだが、彗星や小惑星ならぬマイクロ・ブラックホールが地球に接近してきた場合、どんな現象が起きるのだろう。――などと書いてしまうとネタバレになるのだけれど、なに題名でネタを割っているようなものだし、先の展開が読めないほど奇想天外なできごとを描いているわけでもない。要するに、「どうなるだろう」という疑問に答えているだけのお話だといっていい。いそいで福江先生の『 』(裳華房)を読んでみた。うーん、どこか致命的な誤解などしてないだろうな。ひとむかし前の中国科幻小説に比べると、ずいぶん読みやすくはなったが、まだ科普小説の手法を引きずっているような気がするのは私だけであろうか。

雲翔《天驕》科幻世界97.8掲載

 これもやはり反物質エネルギーに関する科学解説のたぐいを探してみたくなったのだが、こちらは科学解説のたぐいとは一線を画する。反物質エネルギーによる推進装置が出てくるのはほんの発端部分だけで、あとは中世にタイムスリップした主人公が出会ったひとりの人物に関する話。彼はレオナルド・ダ・ビンチよりも早い時代に人力飛行装置の実験をしていたのだった――。先の展開がわりと早く見えてきてしまうのはちょっと残念だけれど、このテーマで話を作れば、こうなるしかない結末だなあ、という気もする。科普小説の影響というか、教訓的なにおいのする話。

陳蘭《猫捉老鼠的游戯》科幻世界97.9掲載

 コンピュータもインターネットも、日本と同様、中国のインテリのあいだではまさに流行の最先端になっている観がある。《科幻世界》でもしばらくアメリカのインターネット事情に関する連載をやっていた。で、これはコンピュータ・ウィスルの話。こんど読んでみた3篇の中では、受賞結果こそ3等だったけれど、面白くなる可能性はこれが一番だったように思う。既知の世界から未知の世界を描こうとする姿勢を評価したい。その点こそが、SFを「科普小説」と区別する要素であるからだ。また、ひたすらテーマに向かって突き進んでいくようなストーリー運びよりも、大学生が実習のふりをしてこっそりゲームを楽しんでいたりする細部の描写に、大いに興味を引かれる。いかにもありそうな話ではないか。こういう細部の描写をある程度ていねいに書き込まないと、物語全体がウソっぽくなる。その点では、同じコンピュータ・ウィルスを扱っていても、『中国SF資料之六』に載せた『ウィルス』(姜亦辛)のほうが怪談仕立てになっていて面白かったと思う。 以上三篇を通しての感想はというと、どうもまだSF独特のガジェットをいろいろいじってみて、取り扱い方を試してみているといった観がある。『星雲』で鄭文光が指摘したとおり、作者自身の生き方のようなものが見えてこないのが残念。かつての鄭文光『海豚之神』『星星営』『地球的鏡像』などには、それが見えていたのに。


中国古典SF史研究の最近の成果

武田雅哉

 これまで中国のSF史を概説してくれる適切な読み物は、あまりなかった。かつては貴重な資料として、刊行されるや、むさぼるようにして読み、あわてて年表づくりに励んだ人も多いであろう、葉永烈氏の評論集『科学文芸』(科学普及出版社、1980)および同氏「中国科学幻想小説発展史」(『科学幻想小説創作参考資料』3、1981、掲載。拙訳「中国SF小説発展史」、『イスカーチェリ』27,28、1986、掲載)、そして蕭建亨「試談我国科学幻想小説的発展」(黄伊主編『論科学幻想小説』科学普及出版社、1981、所収)なども、もちろんまずはじめに読むべき資料だが、いまでは本来の役目を終え、古典となったといってよいだろう。
 1997年には、続けざまに、古典小説研究家である欧陽健氏の単行本が刊行された。『晩清小説史』(浙江古籍出版社、1997)、そして『中国神怪小説通史』(江蘇教育出版社、1997)の二冊である。
 「晩清」というのは、日本では清末という言い方が一般的かもしれない。この時期の小説については、阿英の『晩清小説史』(邦訳は飯塚朗・中野美代子訳『晩清小説史』、平凡社東洋文庫)が古典である。似たようなタイトルの通史は、いくつか刊行されていたが、いまひとつ、阿英を突破するという意味においては、物足りなかったような気がする。今回刊行された欧陽健の同名の書は、中国SFファン(あるいはクールな関心を抱いているもの)には、なかなかおもしろい本だろう。
 清末の小説には、SF的成分が多い。阿英の本にも、「科学小説」に触れた部分がないわけではないが、つっこんだ考察は加えてはいない。欧陽健の『晩清小説史』は、浙江古籍出版社の「中国小説史叢書」の一冊であるが、読みようによっては、一冊が清末SF史とも言えるものなのだ。
 まず扱われている作品に特徴がある。SF作品としては、梁啓超『新中国未来記』、呉p人『新石頭記』、蔡元培『新年夢』、海天独嘯子『女゙石』、陸士諤『新三国』『新水滸』などが、正面から扱われ、多くの紙幅が費やされているのだ。
 『晩清小説史』が時代で区切った小説史であるとすれば、『中国神怪小説通史』のほうは、テーマで縦割りにした通史である。中国文学を専攻しているかたには、いまさらであろうけれど、中国人が文学史を語る際に「神怪小説」や「神魔小説」などと呼んでいるジャンルは、『西遊記』や『封神演義』のようなたぐいである。魯迅は「神魔小説」というタームを使って、特に明清の通俗小説のこの種のものを総括した。最近では、「中国神怪小説大系」「十大古典神怪小説叢書」などというシリーズものも出ていて、なかなかの人気である。広い意味では、荒唐無稽が売り物の武侠小説や怪談のたぐいまで含まれるだろう。武侠も神怪も、中国では、おもしろけりゃなんでもありの分野なのだが、かれらの書くSFの性格は、「なんでもあり」なのか、それとも80年代初期にいろいろ論議されたように、自己規制があるのか、そのへんを検証するためにも、神怪小説という流れの上で語られたこのSF史は、一読の価値があるだろう。ただし現代SF史については、1980年ころまでで筆をおき、特に新しい材料を紹介しているわけではない。
 また、David Der-wei Wang(王徳威),"Fin-de-Siecle Splendor,Repressed Modernities of Late Qing Fiction,1849-1911".(Stanford Univ.Press,1997)は、中国の近現代文学についてのエッセイだが、そのなかの一章「Confused Horizons:Science Fantasy」は、清末SF史の紹介と分析になっている。なお、その前身とでもいうべ き文章に、王徳威『小説中国 晩清到当代的中文小説』(麥田出版、1993)に収められた「賈宝玉坐潜水艇−晩清科幻小説新論」がある。
 SFにかぎらないが、清末小説は、日本ではあまり紹介されていない。つい二十年前までは、この時代の小説は、一部の有名なものを除いては、中国の書店で売られることもほとんどなかったし、研究も微々たるものであった。ところが最近では、清末SFのいくつかは活字本で刊行され、容易に読めるようになってきたので、これはうれしい。ぼくも、ここに紹介したSF史関係の文章の翻訳とともに、作品そのものの翻訳をやろうやろうとは思っていて、なかなかできずにいる。
 どんなお話があるかというと……
 近未来の地球は、大飢饉。そのころ全地球を支配していた清朝皇帝は、大量の食糧を持ち帰るべく、百隻からなる宇宙船団を木星に派遣したものの、途中で彗星と衝突し、すべて灰燼に帰してしまった、という暗くて悲しいスペースオペラ。(陸士諤『新野叟曝言』1909年)
 世界各地に出現しては、超高速で移動し、都市を次から次へと破壊してゆく飛行物体。それがついには、ニューヨークをも消滅させてしまった。ヴェルヌのエプヴァント号のような「空飛ぶ怪物」の出現に、世界は戦々恐々となる。なんとその怪物から、中国製の「嗅ぎたばこ入れ」が落ちたのが発見され、これを操っているのは中国人ではないかと疑われて、清国は弱い立場に追いやられる、という、もうひとつの「阿片戦争」みたいなおはなし。(肝若『飛行之怪物』1908年)
 ……などなどが、清朝末期に書かれていたのでありました。
 ところで、作品を原文で読みたいというひとのために、清末から民国初期にかけての短編SFを収めたアンソロジーが出た。『清末民初小説書系・科学巻』(中国文聯出版公司、1997)である。その名のとおり「清末民初小説書系」というシリーズの一冊で、ほかに社会、偵探、武侠、愛国、笑話、家庭などのジャンルがあり、文学史の教科書では教えない、もうひとつの中国近現代文学史を読むことができる。本書は、創作SF二十二編とともに、翻訳もの九編が附録として収められている。児童向けの科学啓蒙ものなど、少し毛色の変わったものもあるが、中国人の選ぶ「科学(幻想)小説」のなんたるかを感じ取るには、手ごろなアンソロジーだ。ほとんどが当時の雑誌をひもとかなければ読めなかったものばかりである。それにしても、このような企画は、日本で言うなら「明治大正小説全集」に「SF巻」が設けられるようなもので、出版社のSFに対する度量の広さは、日本の負けかもしれない。総じて、中国は、無視するときも宣揚するときも、おしなべて徹底的なのであった。


編者後記
 今回は武田雅哉氏のおかげで発刊にこぎつけることができました。武田雅哉氏は北海道大学助教授で、中国文化に対して独自の切り口で迫る若手研究者。本研究会創設当時からの会員です。近く『中国科学幻想文学館』なる本を世に問うべく準備中。林久之も共同執筆者として名を連ねる予定。ともあれこの「科幻情報」今年は年内に三回刊行することができてホッとしてます。では皆様よいお年を……。(林久之)