ミステリ日記 第3回  by 田波 正



<EQ>1995年3月号(104号)の創刊100号記念チェックリスト特別座談会を読んでいて、各務三郎氏の発言に思わず笑ってしまった。
「それと、世の中のせいだろうけど、いわゆるサイコ・スリラーが増えてミステリーをだめにした。あれ、読者は女性が多いと思うんだ」
 断っておくが、この発言が時代遅れだから笑った、というのではない。第一、ぼくは各務三郎という人に非常に敬意を払っている。たぶんものすごーく気むずかしい人だろうとは想像するが、その文章を読むかぎりは、ファンといってもいいほどだ。最近の例でいえば、『東西ミステリーガイド』としてまとめられた新聞掲載の海外ミステリ名作紹介などは、切れ味よくまとまった短評のお手本といってもいいくらいだ。
 では、どうして笑ってしまったかというと、昔のことを思い出したから。そう、例の「ファンタシー汚染論」というやつを思い出したのである。「読者は女性が多いと思う」というあたりに、特にそれを感じましたね。
 しかし、どうなんだろう。「正常な心理を持つ人間が明確な動機を持ってしかたなく人を殺す」話は楽しく読めて、「異常者が猟奇殺人を犯す」話は生理的嫌悪感を感じるというのは、ちょっと変じゃないのかな。人殺しには変わりないでしょう。それこそ「ファンタシーは科学的じゃないからだめ」というのと同じで、じゃあなにをもって科学的というのかは、すごく恣意的に決められているような気がする。かつてのハードSFで、相対性理論が出てくると「科学的」といわれていたのと似ているかな。

 そのうち、<現代思想>1995年3月号で「メタ・ミステリー」特集がおこなわれた。柄谷行人を援用してエラリー・クイーンを論ずるという、文字どおりの「論理のアクロバット」を展開した法月太郎「初期クイーン論」をはじめとして、作家、評論家諸氏の論考が掲載されている。これを見たときも、昔の<ユリイカ>の「P・K・ディック」特集を連想した。
 なんとなく「本格ミステリのSF化」現象が進行しているような気がするなあ。これをふまえて、今後の本格ミステリの展開を予言してみよう。
  1. 本格ミステリを難しい批評用語で論ずるのがブームになる。
  2. 一部のマニアックな本格ミステリ・ファンがこのブームに大いに反発し、「クイーンを本格ミステリに取り戻せ」とか言い出す。
  3. 日本人本格ミステリ作家がどんどんいなくなる。
  4. 「日本本格の危機」が叫ばれ、「日本には本格ミステリはもともとなかった。日本の本格ミステリは実は昔からサイコ・スリラーだったのである」といった意見まで登場する。
  5. 「新本格SF」を名のる一群の若手作家が登場し、本格ミステリ・ファンはみんなSFを読みはじめる。「新本格SFっておもしろいじゃん」といった発言をして、昔からのSFファンを激怒させる。
 ぼくの予測では、5.がだいたい2001年ごろに現実化するはずである。
 もちろんこれは冗談だが、あながち冗談とも言い切れないところがある。やはりミステリの世界も、けっこう偏狭な人が多そうだからね。たとえば<EQ>のチェックリストを担当している某氏は、「『ストーン・シティ』をほめる人はミステリ読みとして修行が足りない」といった発言をして、〈本の雑誌〉で茶化されていた。正直いって、こういう発言をする人の気がしれない。何様のつもりだ、と思う(余談だが、この某氏はあるガイドブックで小泉喜美子『検察側の証人』のメイン・トリックを思いっきりばらしていた。このような暴挙をおこなう人が、はたして「ミステリ読みとして修行」を積んでいるといえるのか、はなはだ疑問である)。
 また別の某氏はある年間ベストテン評で、「この作品をおもしろいと思わない人は本当の本格ファンではない!」といった発言を連呼していた。世の中には「本当の本格ファン」と「偽物の本格ファン」がいるのだね。初めて知った。この某氏のことは基本的に尊敬しているのだが、こういうセクト主義的な発言はいただけない。  ぼくは基本的に「修行」とか「道」とかが大嫌いなので、「本格ミステリ道」に精進するつもりはまったくない。別の某氏が絶賛していた某国内作品はまったくおもしろくなかったから、たぶんぼくは「偽物の本格ファン」なのだろう。それでいいじゃん、と思うのである。
 なんでもそうだと思うのだが、愛が高ずるとひたすら純粋化の道を走ってしまって、活力が失われる。いろいろな作品があって、いろいろな考え方の人がいるから、世の中はおもしろいのである。国書刊行会の〈世界探偵小説全集〉しか読むものがないのでは、これはやはり困る。ぼくは宮部みゆきも読みたいし、マイクル・Z・リューインも読みたいのです。
 サイコ・スリラーもOK、メタ・ミステリーもOK、ミステリの評論が数多く出るのはラッキー、じゃありませんか? 正直いって、〈現代思想〉の法月太郎の論考は「本当か?」という感じだったけど、彼のクイーンに対する愛の深さだけは感じとれたから、よしとしよう。どうして一部の熱狂的なクイーン・ファンの皆さんが『シャム双生児の謎』を称揚するかという理由もわかったし(しかし、どう考えても『シャム双生児の謎』はつまんないぞ)。ほかの論考はいいものもあったし、悪いものもあった。しかし、まったく論じられないよりはましだろう。いいものと悪いものを見きわめる目をこちらが持っていればいいだけのことです。
 とにかく「××しかだめ」という発想はやめようと思う今日このごろである。
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 とはいうものの、告白するが、ぼくはサイコ・スリラーが大嫌いなのです。どうして嫌いかというと、理由はふたつあって……おっと、もうおしまいじゃん。このお話は次回に。



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