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1998年2月号

『ジャンパー(上・下)』スティーヴン・グールド

『消えた少年たち』オースン・スコット・カード

『虫の生活』ヴィクトル・ペレーヴィン



『ジャンパー(上・下)』スティーヴン・グールド

(1997年10月31日発行/公手成幸訳/ハヤカワ文庫SF/上下各640円)

 本邦初訳となるアメリカの作家スティーヴン・グールドの長編デビュー作『ジャンパー(上・下)』は、もしもテレポーテイションが可能であったら……という単純なアイディアを論理的に発展させ、わくわくするような冒険物語に仕立て上げた良質なエンターテインメントである。
 主人公のデイヴィーはオハイオ州スタンヴィルに住む平凡な高校生。ある日、アル中の父親からの虐待を受けようとしたまさにその瞬間、デイヴィーは自分が公立図書館の中へ一瞬のうちに移動したことに気づく。何度か移動を経験するうちに、どうやら自分にはテレポーテイションの能力があるらしいと気づくデイヴィー。ただし、移動先は自分が知っている場所に限られるようだ。早速デイヴィーは家を出て、ニューヨークへ行き、初めは父親からくすねたお金で、後には銀行から盗んだお金で生活していく。オクラホマシティに住む大学生の恋人も出来た。遠距離恋愛も瞬間移動が出来るから何てことはないはずなのだが、彼女に能力を知られないようにしているので、結構大変だ。六年前に離婚して家を出た母親とも連絡がつき、感動の再会を果たしたデイヴィーだったが……。
 とまあ、ここで前半終了。後半戦は、前半の順風満帆ぶりが嘘のように苦難に満ちた展開となる。国家安全保障局に追われたり、テロリストたちとの戦いに明け暮れたり、比較的のどかで地味な展開であった前半に比べると随分派手な立ち回りも行われている。テレポーテイションの原理は棚上げしておいて、もしも可能であったらこうなるだろうという仮定を一つずつ積み上げていく緻密な思考法によって、一七歳の少年がテロリストと戦い勝利を収めるという一見荒唐無稽な物語を現実味豊かに描き出してみせた作者の手腕はかなりのものである。そのテロリストと戦うきっかけというのが実に痛ましい悲劇的な事件なのであるが、これは実際に読んでもらうしかないだろう。よくよく考えてみれば、こんな奇妙な能力の持ち主を理解し暖かく包んでくれる優しく理想的な恋人なんてそういるわけがないし、瞬間移動能力があるとは言えテロリストとの戦いをほぼ無傷でくぐり抜けたりといった余りに安直な展開も目につくけれど、全体としては練り上げられた構成を持つ、良い意味での願望充足小説として完成度の高い作品となっている。続けて訳されるという『ワイルドサイド』も楽しみに待ちたいと思う。

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『消えた少年たち』オースン・スコット・カード

(1997年11月30日発行/小尾芙佐訳/早川書房/2600円)

 オースン・スコット・カードの『消えた少年たち』は、八九年に発表された短編(紀伊国屋書店刊『この不思議な地球で』所収)をもとにして書かれ、九二年に刊行された長編版である。短編の発表時には、その是否をめぐってアメリカでは大きな論議が巻き起こった。近年はアメリカのみならず日本でも社会問題化しつつある幼児誘拐・殺人事件といった微妙な問題を扱い、自らを主人公として描く実話形式で作品を発表したカードに対する道義的責任を問うものや、不快感を表したものが多かったようである。わが国でも伊藤典夫氏(本誌九一年四月号)や野阿梓氏(同九一年六月号)が主にカードの意図を擁護する形で論陣を張っていたのを覚えている方もおられるだろう。
 カード自身としては、脳性麻痺にかかった子供を持った悲しみ(これは本当のこと)を、別の形の悲しみとしてなぞり直したのだと短編版のあとがきで述べている。カードは余程この物語に愛着がわいたと見え長編版を書くに至ったわけだが、読者の気持ちを逆撫でしないようにと配慮したためか、自分自身を主人公にするのはやめ、代わりにプログラマーのステップという男とその家族を登場させている。
 一九八三年、子供を三人抱えたステップ一家はインディアナのヴィゴアからノースカロライナのストゥベンという町へと引っ越してきた。ステップの仕事先が、この町にあるコンピュータ会社のマニュアル作りに決まったからである。八歳の長男スティーヴィは、転校した学校に馴染めず、どうやら空想の友だちをこしらえて、その子たちと遊んでいるらしい。ある日、ステップと妻のディアンヌは、スティーヴィの遊んでいる架空の友人の名が全て最近行方不明になった子供の名と一致することを発見する。これは一体どういうことなのか。そして、遂に明らかにされた驚くべき真実とは……。
 主人公を変えて三人称で語る試みは見事に成功しており、プログラマーとしてのステップの仕事の内容やコンピュータ会社内部の雰囲気、モルモン教徒としてのステップとディアンヌの活動内容などの詳細でリアリスティックな描写とともに、カードは読者を違和感なく一九八三年のアメリカの田舎町に引き込んでいく。とりわけ、八三年というのは、コンピュータ業界ではパソコン市場がアタリやコモドールからIBMのPCへと転換する時期に当たり、ハードの転換に合わせて揺れ動くソフト業界の内情が丁寧に描かれていることが、本書の迫真性を増している。当時のポリスの大ヒット曲「見つめていたい」(懐かしい!)の使われ方も心憎いほど効果的。幻想的で悲しい結末さえなければ、ほとんどノンフィクションと言われても通用する書き込みの細かさである。しかし、この結末こそが本書の感動の核心をなしているのだ。短編版で一度経験しているにもかかわらず、クライマックスでは涙がこみあげてきてしまった。天性の小説職人カードの肉声が聞こえてくるかのような、自伝的な意味あいの強い異色作であるとともに、感動的な傑作である。

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『虫の生活』ヴィクトル・ペレーヴィン

(1997年11月20日発行/吉原深和子訳/群像社/1800円)

 例えば、日本の第二次大戦後のような根本的な世界の変化に伴う価値観の激変を体験したある作家が、SFという自由な発想を許すジャンルにおいて戦争体験を裏返しにした形で発表したことがあるように、ソ連邦と共産主義の崩壊を二十代で体験したロシア人が、その体験をSFという自由な発想を許すジャンルにおいて寓話の形で風刺的に描き出した書物がヴィクトル・ペレーヴィンの代表作『虫の生活』であると言えるだろう。
 本書には、ストレートな物語の粗筋は存在しない。おそらくはソ連邦崩壊後のロシアに生きる様々な人々の姿を虫の生態に重ねあわせて描き、その現実離れしたエピソードを重層的に積み重ねることによって、逆説的ではあるが、現代ロシアの人々の姿をくっきりと浮かび上がらせているという、複雑かつ精緻な多重構造を成した作品なのである。既訳の短編集『眠れ』所収の短編にも見受けられた技巧の冴えは、本書において見事に結実している。『眠れ』が今ひとつだったという人も是非本書には目を通してほしい。こちらにこそ、ペレーヴィンの本領は遺憾無く発揮されていると思う。
 人から虫へ、虫から人への移行は実にスムースで、継ぎ目がない。アメリカからロシアにやって来たビジネスマンがホテルのバルコニーから飛び降りると、次の瞬間には蚊になって飛び去って行く。空中から降りて来た雌アリのマリーナは、地上に着くや否やハイヒールを履きバッグを肩から下げた若い女性としてさっそうと歩み去る。虫の生活と人の生活は互いに入れ替わっているのではなく、常に重層的なものとして同時に存在していると言った方が正しいかもしれない。従って、アメリカ人男性サムとアメリカ文化に憧れているロシア人女性ナターシャとの恋愛はロマンチックに描かれてはいるものの、実はよくよく読めば、蚊(サム)と蝿(ナターシャ)とのグロテスクな絡み合いに過ぎないし、父親から人生の真実について教わる子供の姿は二匹のフンコロガシに過ぎず、哲学的な会話を交わす二人の若者は街灯に向かって飛び続ける二匹の蛾に過ぎないのである。滑稽さを漂わせながらも懸命に生きる人々の姿に共感したり胸打たれたりする点がなくもないけれど、結局は生の無意味さ、空虚さ、滑稽さを描く方向に作者の力点は置かれているように思う。とりわけ印象に残ったのは、麻薬中毒の二匹のシラミがサムの吸うマリハナ煙草の中にいつの間にか移動して敢え無い最期を遂げる場面と、ナターシャが昔の日本でも良く見受けられたある物に捕えられて呆気なく死んでしまう場面の二つである。この痛烈なシニシズムはヴォネガットにも通じるものがあるのではないだろうか。
 作者一流のシニシズムは、旧ソ連や共産主義に対しても大いに発揮されている。ブレジネフ時代の政治的スローガンのパロディ、レーニンの電化政策を偽物の光に例える場面、ソ連崩壊後に何度も改称したKGBへの当てこすり、等々。ソ連時代には、おそらく書くことも許されなかったであろう辛辣な諷刺の数々に、ロシアの新しい読者が快哉を叫んだことは容易に想像される。ただし、本書の特色は、そのような表面的な目新しさだけにあるのではなく、自我という名の糞の玉とともに転がり続けなければいけない我々、たとえ偽物だろうが光を求めて飛び続けなければ気が済まない我々人間の真の姿を顕わにしてくれるという文学的な深さにもある。軽さと深みが同時に存在する希有な書物として一読をお勧めしたい。

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