日誌 (2002年)
中島虎彦






★★★  日誌 (2002年)  ★★★ 
■第五十二回  (2002年4月24日)

 このところちょっと気が重い。
というのも公立学校の週五日制にともなって、
子どもたちの塾通いが増えるのではないかと言われ、
うちにも来るのではないかと案じているのだ。
 ちなみに現在生徒は一人もいない。ここ数年は
年に一人あるかないかというところだ。
小子化と不景気と私の不熱心さのためである。
 もともと自分から始めたわけではなく、
入院中ひとかたならぬお世話になった看護婦さんから頼まれて
断りきれずに始め、口コミで伝わり、気づいてみたら15年にもなっていた。
しかし無年金の私にとっては貴重な収入源である
という面は否定しようがない。
 教えることそのものは楽しいし分けへだてもしていないつもりだが、
塾へ通わせる経済力のある家とない家では自ずから
子どもに不公平が出てくるという厳然たる事実は
いかんともしがたい。来れない子どもたちに合わす顔がない。
また来れる子どもたちも忙しなくさせている。
 この日誌ではいつも偉そうなことを言っているが、
私もまたせちがらい世相を形作っている一人なのだった。
 それを思うたび私は気力が萎え、
できればやめたいとひそかに思ってきた。
原稿書きの仕事でそれくらいの収入が得られれば、
いつでもやめる用意はある。とはいえ田舎では
浮世の義理というものがあって、なかなかすっばりといかない。
連れてこられればおそらく断りきれないだろう。
さいわいまだ一人も来ないのでホッとしている。

★きょうの短歌

教え子がおかまとなってテレビに出ているのを口あんぐりと見る   虎彦
 














■第五十一回 (2002年4月22日)

 この四十四回で書いた「郵便局への疑問」の件を、
朝日新聞佐賀県版の「随想倶楽部」に投稿したら、
4月16日に「不足と余分」というタイトルで掲載されて、
19日にはそれを読んだ嬉野町の郵便局から
局長代理と副局長のお二人が訪ねてきてくださった。
今度はなかなか素早い対応で、恐縮してしまった。
とはいえ結論として、貼りすぎた切手を戻すことは困難、
という回答で何ら進展はみられなかった。
私の提案した方法がどうして無理なのか
とうとう納得のいかないままだった。
いずれにしてもご報告まで。

★きょうの短歌
シャガの咲くきりぎし道をあったかおとどけ君が疾駆してゆく
   虎彦













■第五十回 (2002年4月9日)

 世界初のクローン人間が誕生しそうだというニュースを聞いて、
数年前に書いた原稿を思い出した。ご参考までに記しておこう。

 いやあ、最近これほどたまげたことはありません。慶応大医学部(吉村泰典教授)研究班の発表によると、「この30年間に男性の精子数が一割減っている」といいます。おそらく環境ホルモンのせいだろうと言われていますよね。いやいや、私がたまげたのはそのことじゃなくて、彼らはどうやってそれを調べたかという解説記事のほうです。つまり「AID」(非配偶者間人工授精)の25000例のうち6000人の統計によるものと。
 AIDとは夫の生殖能力に問題がある場合、夫以外の男性の精液を妻の子宮に注入する方法で、慶応大では1949年に初めて実施して以来、すでに11000人が産まれているというのです。「夫以外の男性」とはどういう人たちかというと、主に18ー25歳の同大医学部学生だと。私はここのところに心底たまげたのです。

 そういう人工授精があることは知っていましたし、アメリカの代理妻などと比べればよほどおとなしい方法で、抵抗感や違和感も少なかったのですが、それもやむにやまれぬ場合だけせいぜい数百例くらいのものだろうと思っていたのです。それが一万人以上も産まれていたとは! 
 慶応大だけでこの数字ですから他の大学や病院を合わせるとどれくらいになるか見当もつきません。一万人以上産まれているということは精液を提供した学生も(のべ)一万人以上いるということで、私はここのところがどうしても釈然としません。
 彼らには道徳的な抵抗感というものはないのでしょうか。自分たちのように優秀な人間の子孫が増えるのは言祝ぐべきことだとでも思っているのでしょうか。その子どもたちが成長して(大きな子はもう50才!)自分の出自を知らされた時いったいどういう気持ちがするか、それを考えたなら、もう少し辞退者が出て10000人以上という数字にはなりにくいと思うのですがねえ・・・・・・
              (「WORKING QUADS」ニュースレター)

 今度のクローン人間も不妊の女性のために研究されてきたものという。夫の体細胞から核が抜き取られて、妻の卵子に植えこまれるのなら、まだ抵抗はすくないだろうが、これもそのうちより優秀な男性の体細胞が求められがちになることは目に見えている。誰も障害者の体細胞などわざわざ求めようとはしないだろう。
 そうなると、問題は先のAIDとなんら変わりない。

★きょうの短歌
 笑ってもごまかせないし泣いても済ませられない電動車いす
 虎彦













■第四十九回 (2002年4月3日)

 四月一日に鹿島市の旭ヶ丘公園と祐徳神社まで
今年三回目のお花見に行った。わが家から20kmほど。
電動車いすで片道三時間以上の道のりである。
 いつもは人妻のYさんと待ち合わせてお昼を食べるのだが、
今年はなんとなく一人で行きたかった。それもまた
しみじみとしてよかった。
 すでに花吹雪が舞っていて、満開の頃よりもよかった。
風が吹くたび息もつけないほどだった。
私も電動車いすも花びらだらけになった。
旭ヶ丘の松蔭神社へはスロープがつけられていて、
一人で上れたのは嬉しかったが、くずれかけた石段の趣が
見られなくなったのは惜しい。このジレンマはいつも味わう。
 祐徳院ではガネ漬けと稲荷ようかんをお土産に買った。
今年も出かけられてよかったなあと感謝している。
これで冬のつらさはきれいさっぱり忘れられた。
いつのまにか寝汗もだいぶ薄らいだ。
 それにしても何故こんなに桜に惹かれるのだろう。
このホームページの掲示板でも問いかけて
さまざまな意見を交わし合っているが、
今年もとうとうわからぬままだった。

★きょうの短歌
花ふぶく一家団欒などという幻想とはついに無縁のまま   虎彦













     第四十八回 (2002320)

今年第一回めのお花見をした。

そんなつもりはなく嬉野の市街へ用事で行くと、

うれしの河畔の桜並木がもう二分咲きから三分咲き。

じっとしていられなくなり、スーパーで握り寿司とカップ酒を買い、

遊歩道でさっそく一杯ひっかけた。美味しかった。

昨年より12日も早い。この分では三月中に散り終えるかも。

31日に伊万里の酒谷愛郷さんと嬉野町西公園で約束しているが、

少し早めたほうがいいかもしれないな。


★きょうの短歌

論客にあなたはいいわよ褒められてばっかりだからと言われている  虎彦













■第四十七回 (2002年3月12日)

 「EINS」3号の小説「お花見日記」を書いていたので、
しばらくごぶさたしていました。でももうおおかた
出来あがりました。早いのが取り柄です(笑い)。
あとは本物のお花見を待つばかり。

★きょうの短歌
 粗相して拭いてもらっている間にも歌の浮かんでいる私って   虎彦













■第四十六回 (2002年2月21日)

 今年初めての遠出をした。
電動車いすでおとなり嬉野町の市街まで。
片道8kmほどをいろいろ用事をすましながら2時間ぐらい。
前夜の天気予報で気温が14度と言っていたので思い切った。
ほうぼうの白梅や紅梅やしだれ梅がきれいだった。
北の風が弱かったのでなんとかたどり着けたが、
風の吹いてくるところではやっぱりまだ凍えてしまい、
帰ってからお腹をこわした。なにしろ電動車いすはむきだしだ。
15度を超えるようになればもういつでも大丈夫なのだが。
今まで三ヶ月のつらい冬眠の仮死状態から目覚めて、
いよいよお得意のほっつき歩きが始まるのだ。
待ちに待った春がきたのである。
ひゃっほー! 

★きょうの短歌


同時多発テロからこっち女たちにフリルやレースを流行らせている  虎彦











■第四十五回 (2002年2月18日)

 「青年海外協力隊」というネーミングは恥ずかしい。
「結団式」や「壮行会」というのも出たくない。
「あいつは世間を知らないから」という言い方もイヤだ。
その「世間」とやらがたいてい「長いものには巻かれろ」とか
「寄らば大樹の蔭」「清濁合わせ呑む」とかいう体のものにすぎず、
そこで幅を利かしているのが鈴木宗男議員のような人たちだとしたら
そんな世間は知らないほうがなんぼかいい。

★きょうの短歌

野良クロが足をひきずってゆくのを見てからこっち穏やかでない   虎彦









■第四十四回 (2002年2月8日)

 真紀子大臣を更迭して支持率を50%以下に低落させた
小泉首相の施政方針演説では、お得意の「郵政三事業の民営化」も
すっかりトーンダウンしていた。これで化けの皮も剥がれるのだろうか。
もともと過大な期待などしていないから、失望も少ない。
せめてもう少し長い目で見てあげましょう。
 ところで「郵政」といえば、日頃から疑問に思っていることがある。
国政に比べればあまりにセコイ話で気が引けるのだが、
封筒に貼った切手が料金不足のときはちゃんと戻ってくるのに、
多めに貼りすぎたときは何故戻ってこないのか? ということだ。
民間の企業や店舗ならそんな殿様商売はできまい。
戻す手間のほうが高くつくというのなら、不足の時も事情は同じだし、
後日うちの郵便受けに余分の切手を貼り付けた葉書でも、
配達のついでに投げ入れておいてもらえばいいのではないだろうか。
 こんなことを言うのも、私はよく多めに貼りすぎるからだ。
同人雑誌などをやりとりすることが多いから、料金が複雑になる。
もちろん郵便局に持参すれば簡単なのだが、電動車いすでは遠い。
料金表にしたがっていちいち重さを量るのが面倒だから、
だいたいの目安をつけて切手をそれよりちょっと多めに貼れば
まずまちがいはない。80円切手がなくて50円を2枚貼ることもある。
そんなことを何十年もやってきた。
その間にふり積もった切手の余分はいくらになることか、
考えるだにそら恐ろしい。
 この件に関して町の郵便局に手紙を出したことがあるが、
返答はいただけなかった。民間の企業ならそんなことはない。
はてさてどうしたものでしょうか。

★きょうの短歌
 庭の木にメジロ夫婦がきてくれず今年の冬は凍てついてゆく   虎彦







■第四十三回 (2002年1月28日)
 地方自治体の会議のもようなどが映ると、
各テーブルに以前はお茶が乗せてあったけれど、
最近は「オーイ、お茶」などのペットボトルが
乗せられている場面が多いようですね。
東京都などはどうかわかりませんが。
 あれはどういう変化なのでしょう。
いわゆる「お茶くみ」を拒否する女性職員が増えたので、
手間を省くためなのでしょうか。しかしあれだと
各地の地場産業でお茶を作っているところが多いのだから
農家の意欲を殺いでしまうでしょうね。それに何といっても
味気ないとは思わないのでしょうか。
ゴミ問題も生じてきます。
 これを読んでいる公務員の方がおられれば
わけを教えて下さい。









■第四十二回 (2002年1月15日)

 近くの路傍に菜の花が数本咲きました。
寒さはまだまだこれからが本番ですが、 
春は確実に忍び寄ってきています。
 今年の冬は縟瘡と残尿感と盗汗と痺れがひどく、
いつになくつらい毎日を送っていますが、
春のお花見をひたすら楽しみにして、
なんとかやり過ごしていこうと思います。

●きょうの短歌

元はといえば裸んぼうで泣きながら産まれでてきた私じゃないか

虎彦










■第四十一回 (2002年1月12日)

 以前この日誌でも問題提起した「無年金障害者」について、
1月11日付けの毎日新聞によると、
坂口厚生労働相がその解決に意欲を示した、ということです。

 「学生の国民年金加入が義務でなく任意だった当時に年金に加入しなかったため、その後重度の障害を負いながら障害基礎年金を受けられない『学生無年金障害者』問題について、坂口力厚生労働相は11日の記者会見で『法と法の谷間で、現実に苦しんでいる人がいる以上、真剣に考えるのが我々の立場だ』と述べ、問題解決に意欲を示した。
 国民年金法は91年の改正まで、20歳以上の学生に国民年金加入を義務付けていなかった。このため、学生無年金障害者26人が昨年7月、年金不支給の決定取り消しと慰謝料を国に求めて全国8地裁に一斉提訴している。原告弁護団によると、同様に年金を受けられない人は全国で約10万人と推定されている


 とあります。坂口さんといえばハンセン病問題で劇的な解決策を示した大臣です。公明党で元医師ですが、もしかしたら今度もやってくれるかもしれない、という一縷の希望がわいてきました。政治家に何かを期待するというのは本当に珍しいことです(!?)











■第四十回 (2002年1月月5日)

 今年も百枚ほどの年賀状をいただきました。
どうもありがとうございました。そのうちパソコンで印刷したものが
かなり増えてきました。アイデアをこらしたデザインが楽しいですね。
Sさんの冷蔵庫から馬が顔を出している絵が傑作でした。
 中島らもの「ガダラの豚」に出てくる謎かけ、
「冷蔵庫に象を入れる三段階の方法とは何か?」
を思い出しました。
(答えは@ドアを開ける。A象を入れる。Bドアを閉める)
 ところで、ワープロやパソコン印刷が出始めのころ、
「味気ない」という声が多かったみたいですが(今でも?)、
そこで毛筆が見直されたりもしているわけですが、
最近、毛筆のすごい達筆で挨拶の決まり文句だけを
水茎の跡うるわしく書いた年賀状を受け取ると、
(もちろんありがたくかしこまってしまうのですが)、
心のどこかで疎ましく感じ出している自分にも気づきます。
時勢の移り変わりとはそら恐ろしいものですね。
 決局いちばん嬉しいのは、端っこのほうにサインペンか何かで
私の作品への批評などを書いてくださっている
その一、二行であったりします。


★きょうの短歌

 ワープロに劣らず毛筆の達筆もとりつくしまのないお正月   虎彦
















■第三十九回 (2002年1月1日)

 新年あけましておめでとうございます

この挨拶がしらじらしく聞こえるほど、多難が予想される今年です。
しかし不足を常としておけば、失望も少なくてすむでしょう。
あまり期待などもたずそろそろと歩き出しましょう。

★きょうの短歌
 いたずらに馬齢を重ねましてなどと馬に失礼なことは申しますまい

 虎彦

  












■第三十八回 (2001年12月28日)

 先夜、テレビの深夜映画で「ねじ式」(石井輝男監督、浅野忠信主演、藤谷美紀、つぐみら出演、1998年、石井プロ)をたてつづけに二回見た。知る人ぞ知るつげ義春の1968年の名作漫画「ねじ式」が、今ごろになって(?)ついに映画化されたものである。つげファンには感涙ものであろう。石井監督は同じつげ原作の「ゲンセンカン主人」も映画化している。
 近くに映画館がないので新作はなかなか見に行けないが、このごろは一、二年もしないうちにテレビでやってくれるので障害者にはありがたい。もっとも、そのため私の映画情報は一、二年がとこ遅れているが。
 浅野はこのところ「鮫肌男と桃尻女」(石井克人監督、1999年、東北新社)をはじめ、出ずっぱりという感じの売れっ子で、わが佐賀県武雄市出身の戦場カメラマン一ノ瀬泰造を描いた「地雷を踏んだらサヨウナラ」(五十嵐匠監督、2000年、桜映画)にも出ていた。外れの少ない役者で、ここでも原作の煮え切らない主人公ツベを演じてそれなりの存在感を漂わせていた。ただ、あまりにも出すぎのためすり切れさせられ、印象が薄められてゆく危惧の念は否めない。
 映画は前半でつげの短編漫画「別離」「もっきり屋の少女」「やなぎや主人」を下敷きにした、売れない漫画家のいじましい日常を写実的に描いたあと、後半から「ねじ式」に忠実に添ったシュールレアリズムとナンセンスで奔放に描かれている。
 ちなみに主人公がある日海から上がってくると、メメクラゲに刺されて左腕の血管がちぎれて外へ飛び出しているので、右手でそのつなぎ目を押さえながら廃れた魚村をさまよい歩き、ついに婦人科の女医に性交かたがたねじ式に手術してもらう、という荒唐無稽な話である。その衝撃力は今でも十分鑑賞に耐えるものである。
 後半は漫画で知っての通りだから、演出ぶりの適不適をあげつらうこともできるが、前半とのバランスがちょっと取りづらくなっている。それを補うように三分の一ほどのところ、新人女優つぐみの出てくる「もっきり屋」という居酒屋あたりから不条理さを混ぜ始めている。しかし言葉使いがいまひとつ馴染んでいない。それにしてもつぐみの可憐さにはまいってしまう。
 つげ義春をモデルにした映画としては、すでに名作「無能の人」(竹中直人監督・主演、吹雪ジュンほか、1991年、ケイエスエス)がある。確か石井克人も一枚かんでいたような気がする。その中で竹中演ずる漫画家は、ひと昔前までは「ねじ式」や「ゲンセンカン主人」など夢の覚え書きを素材にした作風で芸術的な漫画を書き、詩人など一部から高く評価され根強いファンもついていたのだが、いつのまにか書けなくなり河原で石を売ったりして無聊のうちに過ごし、妻からも疎んじられるようになっていた。
 彼が書けなくなった理由は妻にはわからないが、私にはそこはかとなく思い当たるところがあった。私もまた一時夢の覚え書きを素材にして、小説を書いていたことがあるからだ。その手法は数ある夢の選択が厳しく統一され、凝縮度が維持されているうちは新鮮だが、いったん選択眼が曇り散漫になり始めるととりとめがなくなる。
 そのため私は夢の覚え書きと見せかけて実はまったくの創作を記すなど、さらに実験的な手法を探ったりもした。一部の熱心な読者はついたが、なかなか評価は芳しくなかった。それどころか「作者の小説のお勉強会には付き合っていられない」とこきおろされたりもした。芸術性と独善性とは紙一重なのである。
 現実のつげ義春もそこでだいぶ苦しんだようだが、彼はその後貧しい下請けの町工場など市井の暮らしをスーパーリアリズムふうに書いたりして、道を切り開いていったように記憶している。私も他山の石とせねばならないだろう。いつまでも足踏みをしているわけにはいかない。そこで新しく発表したのが「海水浴日記」である。このホームページの「小説」メニュー欄に載せている。
 さて、原作から30年ほどもたって、「ねじ式」はどういうつもりで作られたのだろう。原作のあまりの荒唐無稽さを映像化する技術がようやく整ったのだろうか。あるいは「無能の人」であまりにも駄目亭主に描かれていたので、実際の彼の業績を若い人たちに知らせたいという愛読者心理からなのだろうか。確かにそれは少し達成されたろうが、過去の栄光にすがるような真似ではないのか。
 ともあれ映画を見終わっての感想は、彼の世界はやはり漫画でないと表現しつくせないのではないだろうか、ということであった。











■第三十七回 (2001年12月21日)

 この一、二年、NHKの「のど自慢」が変だ。
いかにも歌いこんだような演歌はなかなか合格せず、
かわっていわゆるJポップと呼ばれる若者の歌が、
かなり下手でも合格している。審査員が若返っているのか? 
それとも若者に自信を持たせようという恩情が働いているのか。
 ど演歌の旧態依然とした世界観に浸って
何の疑問も抱かない連中にはいいお灸になるだろうから、
それはそれで一向にかまわないのだが、
Jポップの中にはかなり気色悪い発声をする連中がいて、
よくまあこんなのを合格させるなあと首をかしげることもある。
どっちもどっちである。
 ちなみに私は「のど自慢」が好きではないが、
老母が好きでよく見るのでお付き合いで見ている。

 







■第三十六回 (2001年12月8日)

 126日、夜9時からのTBS「ココが変だよ日本人」という番組で、障害者問題が取り上げられていた。ゲストにホーキング青山氏など車いすの若者5,6人が出ていた。この番組はエキサイティングでかねてから楽しみに拝見している。

 その中で「障害者に『頑張れ』というのはやめてほしい」という意見が出た。生まれつきの重度障害者にとっては毎日をただ生きてゆくだけでも十分に頑張っていることなのに、この上どう頑張れというのか!? と憤懣をぶつけていた。それはまあその通りなのだろうが、私などは「頑張れ」と言われてもさほど気にならない。日本語の「頑張れ」にはたいした意味はないのである。健常者たちもほかに言いようがないからああ言っているだけで、要するに語彙力の貧困をさらけ出しているのである。

 するとそこへアメリカのケビン某が立って、「日本の障害者は甘えてるんだよ! アメリカではねえ、ルーズベルト大統領が車いすに乗っていたんだよ。君らも言いたいことがあったら、政党を作って主張すればいいんだ」と発言し、日本人と外国人双方からブーイングを浴びていた。ちなみにこのケビン某というのは毎回国粋主義的タカ派発言で物議をかもしているいわば名物外国人である。その実、裏ではBSフジのバラエティ番組などに出演して日本でちゃっかり稼いでいる。ともあれマンネリになりがちな番組をかき回して問題提起してくれるところは、局にとって重宝な存在であろう。

 日本の障害者が甘えているかどうかはともかくとして、「ルーズベルト大統領」うんぬんのところはいささか認識不足が感じられた。アメリカにはルーズベルト大統領が二人いて彼が言うのはフランクリン・デラノ・ルーズベルトである。

1882年、ニューヨーク州の米国有数の名家に生まれる。親類に26代大統領セオドア・ルーズベルト大統領がいる。ハーバード大学卒で、一族の娘エレノアと結婚。しかし39歳でポリオ(小児麻痺?)を発症し半身マヒとなるが、不屈の闘志で再起し、29年ニューヨーク州知事から、1933年に第32代大統領となる。29年からの大恐慌で失業者が1280万人にも上る。ニューディール政策は経済効果があがらなかった。39年に独と英仏の間で戦争が起こり、初めは参戦しないと表明していたが、日本の真珠湾攻撃で世論は一転して「参戦」気分になる。実は大統領は奇襲を知っていてわざと放置したのではないかという説がある。やがて独の対米宣戦布告。41年日本に宣戦布告、武器製造のため工場はフル活動し失業者は44年67万人に減少し、大いに支持を増す。ラジオで国民に呼びかける「炉辺談話」がスタイルとなる。しかし短気で気難しい一面もあった。初の三選をへて四期半ば、硫黄島陥落からまもない45年4月12日に脳出血で死去、63歳であった。現在ワシントンDCのFDRメモリアルの銅像を「立つか座るか、座るのは椅子か車いすか」に造り直そうと大論争がおきている。参考文献として「フランクリン・ルーズベルト伝」(R・フリードマン、NTT出版)、「ローズヴェルト」(W・ルクテンバーグ、紀伊国屋書店)など。

 つまり、大統領は生まれつきの障害者ではない。39歳までは普通のエリートとして上流社会の中で相応の社会的地位を固めていたのである。もちろんその後刻苦して政界へ打って出たことには感嘆するが、それは名家の出でWAS(白人でアングロサクソン系でプロテスタント)という条件を運よく満たしていたからである。

そして何よりも致命的なことは、彼は自分が車いすに乗っている姿を決して人目にさらそうとはしなかった、という事実である。演説でバルコニーなどへ立つときは護衛官に両脇を支えられていたという。テレビのない時代ならではのことであろう。今ならとうてい隠しようがない。どうして彼がそれほど隠したのかというと、当時のアメリカ社会がまだまだ障害者を受け入れなかったからにほかならない。つまり差別に満ちた社会であったわけである。

したがって、ごく普通の家庭の生まれつきの重度障害者が、大統領(首相)にまで上りつめることはとうてい不可能に近かったであろう。そういう認識がケビンの発言には欠けていたわけである。 














■第三十五回 (2001年12月5日)

 「障害者の文学」を調べている過程で、最近高木善之氏のことを知った。
氏の経歴は下記の通りである。

 高木善之(視覚障害、環境保護活動家、著述家、1948年、大阪生まれ、
父は医師、幼時より片方の目が失明、そのため目つきが悪いとイジメられる、
大阪大卒、松下電機に入社、中央研究所勤務、1980年にバイク事故で
生死の境をさまよい人生観が変わる、そのとき「10年後ソ連崩壊、20年後アメリカ崩壊、
40年後地球崩壊」を予言し、実際にソ連崩壊を的中させる。
 以後環境保護ネットワーク「地球村」を組織し、著述・講演活動をつづける、
著書に「新著球村宣言」「オーケストラ指揮法」「転生と地球」「高木善之」など多数。)

 その講演ビデオ(昨年)の中でも、上の予言について語っておられた。
そして今年アメリカの同時多発テロが起こったわけである。
アメリカがなくなりはしないが、その存在基盤が揺るがされたのは事実。
これは予言が当たったのであろうか。それとも単なる偶然であろうか。
してみると40年後(つまり2020年前後)地球は崩壊するのだろうか。
もちろん地球がなくなりはしないだろうが、その存在のありように
大きな転換が見られるということかもしれない。だとしたら
それはまんざら悪いことばかりではないかもしれない。
私は予言など信じない人間だが、ご参考までに記しておく。










■第三十四回 (2001年11月29日)

 10月28日、佐賀市八戸溝の「ボウルアーガス」で
全国脊髄損傷者連合会佐賀県支部主催の
車いすボウリング大会がありました。
県内から40人ほど参加。そのうち私は
頸髄損傷の部で初優勝しました。
三ゲーム投げて70、40、77点。ストライクが4回。
といっても頸損は三人だけ。
幼児用のミ二すべり台から転がして投げます。
大半はガーターばかりでしたが、
だいぶコツがつかめてきました。
 これでも学生時代は一時はまりまして
ノーミスで最高210点ぐらい出したこともあります。
しかし楽しさでいえば断然今のほうが楽しいですね。

 ★きょうのギャグ
  ガーターばかりで溝掃除    虎彦





■第三十三回 (2001年11月28日)

 先日、嬉野町のホームページ掲示板に次のような書き込みをした。

 謹啓 嬉野町まちづくり課 様

 三寒四温の小春日和がつづいております。まちづくり課の皆様もお健やかにお過ごしのことと思います。さて、本日は気掛かりなことをご相談させていただきます。私は吉田の上吉田地区に暮らす者でございますが、この一週間ほど前から岩ノ下地区の公民館の裏山あたりで工事が始まっておりますね。おそらく急傾斜面の防護だろうと思われますが、これは地区住民の要望があってなされているものでしょうか
? 
 要望だとしたら仕方ありませんが、その工事の仕方に懸念を感じています。というのは、そこから
200mほど下ったところにやはり一昨年頃から急傾斜面の防護工事が100mほどにもわたって施されていますが、その工事跡をご覧になったことがおありでしょうか。率直に申し上げて無残この上もない姿をさらけ出しております。白々しいコンクリート打ちっぱなしの壁面が延々とつづき、美しかった山際の景観が台無しになっております。それを毎日毎日眺めて暮らさねばならない地元住民の精神的苦痛はいかばかりでしょう。
 とりわけ登下校の子どもたちに与える情操面での影響ははかりしれません。そういうことの積み重ねで子どもたちが切れやすくなるのかもしれません。こういうことは数値で計りようがないから困ります。これが嬉野の温泉街のどまん中だったらどうでしょう。いくらなんでもあんなぶざまな工法は使わないのではありませんか。それは嬉野河畔の親水歩道などの工法をみれば一目瞭然です。
それがどうして町外れの岩ノ下地区ではあんなことになっているのか納得がいきません。
 今度の工事も地区民の要望によりなされるものならば、いまさら外部の者がとやかく言っても遅いかもしれません。しかしせめてその工法に工夫を凝らしてほしいと願わずにおられません。石垣を積むとか、横竹ダム取り付け道路の山肌のように金網を張り泥を吹き付けるとか、いくらでもあると思います。予算の関係はあるでしょうが、なるべく公平な配分を望みます。 そして何よりも土木関係の方々にはもっともっと「美的センス」というものを磨いていただいて、あんな工事は恥ずかしくてできないと生理的な嫌悪感が湧くくらいになってもらわないと困ります。一度できてしまうとその後何十年も何百年も取り返しがつかないのですから、地元民の精神的苦痛は計りようがありません。何とぞよろしくご検討願います。こういうことは狭い地区内では何かと確執や軋轢を生みやすいので、失礼ながら匿名にさせていただきます。                                    敬具

 











第三十二回 (20011124)

 去る19日未明、しし座流星群を見ることができた。

ベッドに寝ながらカーテンを開けると東の空と山の端が見える。

早朝四時頃は頻尿のためいつも目覚めるので、何の造作もなかった。

ベッドから流星雨が楽しめるなんて、なんて恵まれた環境だろう。

都会のコンクリートジャングルに住まっている障害者たちには申し訳ない。

うつらうつらしながらも20分ほどの間に100個近く流れただろうか。

普通の流れ星よりだいぶ明るいように感じる。

三十数年に一度の天体ショーらしいから、まさしく有り難いことだ。

次回はもう見られないだろう。

 私は子どものころ、内之浦のロケット発射場に勤めたいと思っていたほどの

天文学ファンだった。庭のばんこに寝転んでよく星を眺めたものだ。

しかし、高校・大学と進むうちあまり夜空を仰がなくなっていた。

将来の志望もひそかに変わっていた。

 それが頸髄損傷になってから、再び眺める機会が多くなった。言うまでもなく

不眠のためである。いやおうなく夜空でも眺めなければやってられなかった。

そのとき窓の外がいきなり障害物のない空という環境であったことは幸いであった。

 もっとも、だからと言ってまた天文学者になろうと思い直したわけではない。

子どもの志望なんてころころ変わるものだもの。

 

       きょうの短歌

 日のひかり月のひかりを浴びて寝るしし座流星群もまた    虎彦

        

 

 

 

 

 

 


■ 第三十一回 (2001年11月14日)

 久しぶりで次のような詩を書きました。
発表の機会を与えて下さった西日本新聞の塩田さんには
感謝申し上げます。

  「星々のしずく」 

太陽が汗を流して

そのしずくが金になったという

月が涙を流して

そのしずくが銀になったという

(ここまではインディオの言い伝え)

 

してみると地球が血を流して

そのしずくが銅になったのか

あるいは鉄さびた匂いを発して

鉛の弾のように飛び散るのか

 

二〇〇一年初秋

ハイジャック機は高層ビルに突っこみ

岩肌のアジトが音もなく空爆され

テロと報復は引っこみがつかなくなり

おたがいに相手の神の破滅を祈り

市民の願いと国家のメンツは乖離し

難民は顔の蝿を追いはらう気力もなくなり

車いすはいるのかいないのかさえわからず

女こどもは引き裂かれ

 

血を流すよりほかにないのか

涎や膿や愛液がまだましではないのか

そのしずくが緑青やヘドロになるとしても

 

宇宙に浮かぶ宝石のような星

夜明けの闇はことのほか深い

(ここからは誰が言い伝えるのか)

     
             (西日本新聞、200111月4日発表)







■ 第三十回 (2001年10月31日)

 今日10月31日は私の27回めの受傷記念日です。
1974年(昭和49年)の夕方、大学の体育館で事故にあいました。
あれから四半世紀以上、よくぞ生き延びてきたものだと思います。
当初は平均余命15年くらいと聞かされていました。
平均なんて当てにならないものですね。
 その間、お医者さんや看護婦さんや家族や友人やボランティア
その他多くの皆さんの手助けをいただいてきました。
このホームページの読者の皆様にも励まされてきました。
あらためてお礼申し上げます。
 これからもギャグでも飛ばして自分を楽しませ奮い立たせながら
やっていこうと思います。お付き合いのほどよろしく。

★きょうのギャグ
 
ためらいがちに告白するススキ     虎彦










■第二十九回 (2001年 10月29日)

  本日付けの読売新聞に下記のような朗報がありました。

 「脊髄損傷、幹細胞移植で回復…札幌医大が実験に成功」

 脊髄(せきずい)が損傷したラットに人の様々な神経細胞のもとになる
神経幹細胞などを移植して運動機能を回復させることに札幌医科大学の
本望(ほんもう)修講師のグループが成功。患者にも応用可能とみられ、
脊髄損傷の治療につながる成果と期待される。
 本望講師らは、脊髄の一部を切り取って、足の運動が不自由になったラットに
人間の胎児の脳と成人の脳、成人の骨髄から採取した3種類の幹細胞を移植した。
三つの幹細胞のどれを使った場合でも、ラットは移植6週間後、歩いたり、
走り回ったりするなどの運動機能が、約半分の水準ながら回復した。
 実際に治療後の脊髄を調べたところ、移植した細胞が、脊髄の神経細胞と
なって組織の修復に役立っていることが確認できた。
 本望講師は「三つの幹細胞には、増殖のスピードなどに差はあるが、
ほぼ同等の成果が得られた。臨床応用を考える場合、
採取に倫理的な問題がなく、本人の細胞を使えて免疫拒絶反応の心配がない
骨髄の細胞の利用が有力だろう」と話している。


 動物実験の記事は今までにも何度か目にしてきましたが、
人間に応用できるまでにはまだまだという実態が明らかになるにつれ、
軽い失望を味わってきました。
 しかし、今回の報が一味ちがっているのは、「幹細胞」というものです。
聞きかじりではありますが、1998年に米国で人間の受精卵から抽出された
「胚性幹(ES)細胞」というものは
「神経や筋肉などあらゆる組織の細胞になる可能性を秘めている」
として注目されました。
 今回の幹細胞は骨髄の細胞から採るらしいのですが、
少しは似たような性質を秘めているのでしょうから、
今までのような「神経細胞を切り取り神経組織へ移植する」方法より
ほんのわずかでも希望があるのではないか、と期待しています。
元通り歩けるようにはならなくても、指の一本、腕の一本でも
動くようになればどれだけ助かるかしれません。
 とはいいながら、この身体が再び動くようになるなどとは
夢にも信じていない私もどこかに頑として居座っています。 
それに札幌医大といえばかつて日本最初の心臓移植で
とやかくの物議をかもしたところではありませぬか。
その疑惑を今回は見事に跳ね返してほしいところです。

★きょうの短歌
 四十年待ったのだからあと一二年のびたってへのへのもへじ

  虎彦












第二十八回 (20011023)

  ふた昔まえくらいの西部劇映画によく見られた場面。
牧場を営むやさしい白人の主人夫妻と、
家事を引き受ける忠実な黒人奴隷の夫婦。

いわゆる「アンクル・トムの小屋」状態である。

 主人一家は決して黒人夫妻を
こき使ったりはしないし、
黒人夫婦は母屋のとなりの粗末な小屋住まいながらも
仕事のあることをいつも感謝して過ごしている。

それを見ながら子どもの私も微笑ましい思いがしていた。

 確かに奴隷制度は貧しい黒人に雇用をつくりだしていた、
という見方もできるだろう。しかしいくら微笑ましかろうと
奴隷として使っていることに変わりはない。

人間が人間を隷属させるなどということはあってはならない。

それに気づいてからは、西部劇には何の感興も湧かなくなった。

 それと同じように、
健常な人間の障害のある人間に対する偏見の上になりたった
作品、
男性の女性に対する横暴のうえになりたった作品、
先進国の開発途上国に対する搾取の上になりたった作品、
人間の動植物に対する傲慢の上になりたった作品などは、

今ではすっかり色褪せて見える。

 昔はこんなものを面白がって見ていたのか、と思わず赤面してしまう。
もうそんな時代に後戻りすることはできない。
先へ進むしかないのだ


★きょうの短歌

 
パラダイムシフト進行中につきいましばらくお待ちください    虎彦










●第二十七回 (20011016)

 表現にかかわる仕事をしていると、
「差別」に関する用語には敏感にならざるをえない。
この八月に出版した歌集「夜明けの闇」
(アピアランス工房)でも、
実は二つ判断に迷うケースがあった。それは

「夜桜をそぞろ歩いてゆく中に原発ジプシーもまじっているか」

「悪友と両性具有者も見にいっている山頭火ではありますのんた」

という二首である。

ごぞんじのように、「原発ジプシー」とは各地の原発を渡り歩き
危険な作業をする季節労働者のような人たちである。
正規の職員では被爆の許容量が厳しく制限されているから、
ときおり外部の日雇いを使って補われる。もっとも現在でも
そのような人たちがいるかどうかは知らない。

この語の元になっている「ジプシー」という語が微妙である。
「大字林」によると、「ジプシー
(gypsy)」とは、

()白色人種に属する黒髪・黒眼の漂泊の民。
揺籃
(ようらん)の地はインド北西部。ルーマニアやハンガリーを
中心にして数家族または十数家族から成る集団を形成して各地を転々とする。
音楽や踊りを好み、男子は馬の売買や鍛冶
(かじ)、女子は占いなどを行う。
自称、ロマ。(
2)そこから「各地・各界を転々とする(人々)

という説明がある。ナチスによる迫害の歴史などもあることから、
彼ら自身が「ロマ人」
と呼び改めるよう求めている記事を読んだことがある。

 とはいえ「ジプシー・キング」という男性ギターコーラスグループも現存しているし、
「原発ロマ人」ではもともとの造語の意味をなさなくなるし、
文学上の言葉のあやとしてぎりぎりセーフではないかと判断して、
そのまま使わせてもらった。皆さんのご判断を仰ぎたい。

もうひとつは、「両性具有者」のところを初めは「ふたなり」としていた。
「定本 山頭火全集」
(春陽堂)の中の「日記」にこの語が出てくる。
これも先の「大字林」によると、

1)一つのものが二つの形をもっていること。特に、
ひとりの人が男女両性をそなえていること。
また、その人。半陰陽。はにわり。

という説明がある。「うらなり」などと似たような使い方であろうか。
「めくら」や「つんぼ」が差別用語にリストアップされて
使えないことは言うまでもないが、「ふたなり」については聞いたことがなかった。

 かつて「無人警察」で日本てんかん協会と
差別論争を巻き起こした筒井康隆は、

「現在の『ことば狩り』『描写狩り』『表現狩り』が
『小説狩り』に移行しつつある傾向を感じ取った。
(中略)『差別』という一言に過剰な反応をする文化全体がおかしい」

と疑問を投げかけ、断筆宣言をしたことは記憶に新しい。
そういう筒井の思い描いているブラックユーモアとは、

「人種差別をし、身体障害者に悪辣ないたずらをしかけ、
死体を弄び、精神異常者を嘲り笑い、人肉を食べ、
老人を嬲り殺すといった内容を笑いで表現することによって
読者の中の制度的な良識を笑い、仮面を剥いで悪や非合理性や
差別感情を触発して反制度的な精神に訴えかけようとするもの」
(「日本てんかん協会に関する覚書」から)

であった。まさに日本じゅうの人権擁護団体を敵に回すようなこの宣言は、
しかし作家としてはある意味で潔い。これは文学の世界ではすでに
筋の通った主張だからである。
表現にたずさわる私たちも、
いたずらに規制するのではなく、和語本来のもっていた深いニュアンスや
屈折した行間をもう少し大切にすべきではないかと思う。
 たとえば、「ふたなり」の場合も語意そのものに
差別的なニュアンスがあるわけではないし、
瓜のうらなりなどを連想させて比較的のどかな語感があることから、
これもぎりぎりセーフではないかと考えていた。

 しかし出版元との打ち合わせの中で、
やはり配慮したほうがいいだろうということで、現在のような形となった。
しかし私としては「両性具有者」ではいかにも硬い。
歌集を貫いている私の文体ではない、と感じられた方もいるかもしれない。
そこのところ涙を呑んで書き直した次第である。
これも皆さんのご判断を仰ぎたい。

ちなみに「のんた」というのは、山頭火のふるさと山口県小郡あたりの方言で、
「ですね」というほどの意味である。

「次へ

●第ニ十六回 (2001年10月6日)

 それにしても、私は以前から怪訝に思っていることがあります。
それは「湾岸戦争のとき日本は大金を出したが評価されなかった」
という慙愧の論調です。その轍を踏まぬために今回は自衛隊の派遣を、
とごり押しする口実にも使われています。しかし待ってくださいよ。
 一体どこの誰が
それほど激しく「評価しない」と表明したのでしょうか。
私は不勉強な
ためあまりはっきりと見聞きした記憶がありません。
もちろん海外のメディアなどで
皮肉っぽく寸評されることはあったでしょうが、
一国の指導的な政治家がはっきりと
侮辱したりしたのでしょうか。
私はどうも記憶が定かでありません。どなたかご存知なら

「どこ」の「だれ」が「いつ」ごろ「何」と言ったのか教えてください。

 あの大金の中のほんの一部でいいから、
たとえば無年障害者の救済に投じられていたら、
どれだけ助かっていたかしれません。そういう貴重なお金を国民は
税金の中から涙を呑んで出したのです。
それをいかにも「ドブに捨てた」ような言い方をされてはたまりません。

(追伸) その後、ある新聞記事で、湾岸戦争後にクゥエートの出した
多国籍軍への感謝状の中に、日本が含まれていなかったという事実が
あったことを知りました。それも一つの要因でしょう。

 
 






●第二十五回 (2001年10月1日)

 9月28日、29日と横浜へ行ってきました。
「はがき通信」という頸髄損傷者たちの懇親会のためです。
全国から60名ほどの頸髄損傷者が参加しました。
ほとんどが電動車いすで、家族やヘルパーさんやボランティアの
付き添いがついていますから全体ではその2,3倍。盛会でした。
私はNPO「たすけあい佐賀」の梅田君に付き添ってもらいました。
梅田君には就寝時の収尿袋までつけていただき
ことのほかお世話になりました。

 全身マヒにもかかわらず自立生活している人たたちもいて
そのバイタリティーにことのほか刺激をいただきました。
私なんかまだまだ甘い! 
西宮市からきたうめ吉さんたちにも会いました。
歌集「夜明けの闇」も何冊か買ってもらいました。
半分押し売りに近かったかもしれません。

 有明佐賀空港から1時間40分の近さです。
飛行機は二度目でしたが帰りは過緊張反射のため
脂汗がとまらず難儀しました。それにテロの影響か
飛行機はかなりチェックが厳しくなっていました。
とりわけ電動車いすはお荷物扱い。
「バッテリーの中身は?」と聞かれて「硫酸」と正直に答えたのが
まずかった(?)。「蒸留水」とだけ答えておけばよかった(笑)。

 とはいえ横浜の魅力を満喫させてもらいました。
講演、懇親会のほか、中華街、山下公園、ラポール、みなとみらい地区、
ランドマークタワー、ベイブリッジなど見て歩きました。
日本一の高層ビルを真下から見上げているとき
初めて貿易センタービルの爆破テロを実感できました。
これが今回一番の収獲だったかもしれません。

 移動のため地下鉄とエレベーターにくさるほど乗りました。
佐賀とはくらべものにもならないバリアフリー。
ううむ。なんとしよう・・・・・。

 夜はホテル(ベイ・シェラトン)でカラオケなど歌いました。
井上陽水の「能古島の片思い」、テレサ・テンの「香港」。
椎名林檎の「罪と罰」はちょっと無謀でした。

 それから一ついいことがありました。
この日誌の18回で書いていた友人が、あれを読んでくれたらしく
帰り際に謝罪の言葉を述べてくれたのです。
これでケジメがつきましたから以前の友情が戻るでしょう。
それにしても彼もしぶとかったなあ。

★きょうの短歌

ランドマークタワーを見上げしみじみとビル爆破テロを思い知る
  虎彦






●第二十四回 (2001年9月20日)

 世界貿易センターへのテロの映像には息を呑むばかりでした。
くりかえし再生される爆破場面を見ているうちに、またしても
湾岸戦争のときのような、その真下で繰り広げられているはずの
市民たちの阿鼻叫喚を忘れてしまいそうになりました。
私たちもテレビもいったい何を学習してきたのでしょう。
 湾岸戦争のときとまったく同じ愚行が繰り返されようとしています。
あのとき結局フセイン某を追い詰められなかったことをもう忘れているのでしょうか。
いや、米国内にもジョディ・ウイリアムスさんや坂本龍一さんのように
報復攻撃に反対している人たちがいます。市民レベルではそういう
知性のブレーキが働くのに、こと指導的な政治家の中からはただの一人も
真っ向きって抑制するような言葉は聞かれませんでした。
報復しなかった場合のメンツばかりを考えているのでしょうか。
もうああいう人たちの世界は終わっているのかもしれません。
政治家だけでなく今の米国世論に何を言っても無駄でしょう。
 私はまたしても高橋竹山さんの言葉を思い出してしまいます。

 
「まなぐ(目)の見えねえもんに、一番ひどかったのは、戦争だったな。
戦争になると、まなぐの見えねもんは役立たず、言われで、生ぎで行がれねえもんな。
したはんで、戦争だば、絶対まいね(いらない)じゃ」
  

 紛争が長引いていちばん苦吟するのは、そこに暮らしている
障害者やお年よりや女性や子どもたちたちです。
どうか世界の指導者たちは冷静になって事態を見極めていただきたいと
願ってやみません。
 たとえば日本で地下鉄サリン事件が起こったとき、数日のうちに
首相が麻原某らの潜む上九一色村を報復として空爆すると宣言したら、
国の内外は蜂の巣を突ついたような大騒ぎになったことでしょう。
本質的にはそれと同じことを米大統領と世論はやろうとしているのです。
 今いちばん大切なことは、一刻も早く犯人と首謀者をつかまえて
法廷で裁くことではありませんか。どうしていきなり「報復」などという
大きな赤ん坊のような台詞が指導者の口から簡単に飛び出て、
また国民や同盟国の多くがそれを怪訝にも思わないのでしょうか。
被害の大きさと歴史的な屈辱に目を奪われているのでしょうが、
そんなことは長い世界史の中では珍しいことではありません。

 この「日誌」欄ではなるべく「政治」と一線を画しておくつもりでしたが、
あまりにも異常な事態の進みゆきに危機感を抑えられず
しゃしゃり出てきてしまいました。
 











●第二十三回 (2001年9月10日)

 この八月二九日に初めての歌集を自費出版しました。
「夜明けの闇」(アピアランス工房、1500円、200部)
という題で、ここ20年間の作350首を収めています。
口語自由律のリズムを味わっていただければ幸いです。
カバーの写真は自分で撮ったものを使いました。
私の頸髄損傷生活のすべてが叩き込まれています。
一人でも多くの方に手にとってもらいたいと
願ってやみません。


★歌集から
どんぐりをぷちりぷちりとこれだから電動車いすはやめられません
生きていてよかったような野の小道犬は車いすのあとさきになる
粗相してヘルパーさんが来るまでの夜明けの闇がもっとも深い 
その折の恋人も読んでいるはずの新聞ずいそうを書きついでゆく
それはまあ鳩が平和の象徴であるくらいにはいただいている
象さんはとんぼ帰りをしようなぞ思わないから息災である
懲らしめられつづけねばならぬわけでもあるかのように台風がくる
おふくろのうしろ姿に絶句するよりほかの誠実さを知らず
一度っきりの人生だからうんぬんと言う者たちのみだりがわしさ
人はパンのみにてうんぬんしてみると健康だけでは生きてゆけない
くずのようにおとしめられているくせに藤の花とも見まちがうほど
失言も政治日程ああバラバラにしている風呂場その修羅場
どこの子かうんこと叫び散らしながら何に目覚めてゆく木の芽どき
昼寝から覚めてしばらく妻と子がないことに首をひねりつづける
青春とはつねに克服しなければならない何か大楠のこぶ
つくしからすぎなに変わっているあいだ私は何をしていたのだろう
塾生がお稲荷さんで白狐を見かけたという深追いはせず
閉め忘れの窓から小雪ちらほらと唇を濡らしてくる生きたまえ
モーニング娘は踊り脳みそがつるんつるんになってゆきそう
国が先か個人が先かニワトリが先か卵が先かもしらず
公園のすべり台をすべって遊ぶカラスのように変哲もない
どうして人を殺してはいけないのってあなたが殺されたらイヤでしょう
うしろからそうっと肩に手を置かれおとなしくなっている夕焼け 

 すでに朝日新聞(佐賀県版)、佐賀新聞などで紹介されました。
読んでやろうという奇特な方がございましたら、
中島のほうまでご連絡ください。


中島虎彦
nakaji@po.saganet.ne.jp
〒843-0303
佐賀県藤津郡嬉野町吉田万財
電話 0954 43 9959
http://www2.saganet.ne.jp/nakaji/









● 第二十二回 (2001年9月10日)

 ここしばらくちょっと憂鬱でした。
それは八月末、某新聞のひろば欄に
中年女性の次のような投稿が載ったからです。

 「思うところあって、管理職をなげうってヘルパーになったが、
仕事はきついし、会社は競争に勝つため利用者の要望を際限なく
聞こうとするし、排泄物の臭いで食事が喉を通らなくなるし、
感謝もされないし、給料はたったの14万円。とうとう体調をくずしてやめた。
もう二度とヘルパーになろうとは思わない」(要旨)

 というようなものです。以前にも似たような投稿を読んだことがありました。
そういう厳しい現実があることは聞き及んでいましたが、
こうまではっきり言われると、利用者の側としてはさすがに
辛いものがあります。待遇の改善が求められるのはもちろんですが、
女性の意識の側にも問題がありそうに思えました。
何よりもこの投稿によってひそかに傷つけられた
お年寄りや障害者たちがかなりの数に上ったことでしょう。
しかし彼らの側からの反応はとりたててみられませんでした。
苦汁を飲み込んでいるような沈黙がありました。
 ところが9月3日になって、それに反論する
17歳の女性の投稿が載りました。

 「あの投稿を読んでとても悲しい気持ちになりました。
確かにきつい仕事で感謝もされないかもしれませんが、
世の中には感謝されることなどあまり望まないで、
困っている人のために役立ちたいと思って働いている人も
いるのではないでしょうか。ヘルパーの側にそういう意識が
少しでもあれば、関係は自然とよくなるのではないでしょうか。
利用者の要望がどんどん増えてくるのも、
その性質上しかたないのではないでしょうか」(要旨)

 というようなものです。うろ覚えのため発言は正確では
ありませんので、あしからず。
彼女がヘルパー(予備軍)の側なのか
利用者の側なのか、これだけではわかりませんが、
感じとしては健常な女性のようでした。
「そんな青臭い理想主義では長続きするものか」と
件の女性はまた反論するかもしれません。
しかしこのように考えてくれる若者もいるのだということに、
私は少しだけ気持ちが明るくなった次第です。














★ 第二十一回(2001年8月15日)

 
小泉首相がこの13日に靖国神社を参拝したことで、
内外から賛否両論がかまびすしく湧き起こっているが、
私はそれ以前にある疑問をぬぐいきれない。
つまり戦死者たちの御霊は本当にあの神社に集い宿っているのか? 
ということである。
 たとえば南洋のジャングルで無念の野たれ死にをした人の怨念は、
56年たった今もやっぱりそのジャングルに留まっているのではないかしら。
もちろん「靖国で会おう」と誓いあって出征していった人たちは、
その魂の力ではるかな海を越えて舞い戻ってきているかもしれない。
とはいえそれはたぶんに生き残った者たちのセンチメンタリズムであろう。
そう考えて靖国にお参りするほうが、彼らの精神衛生は安らかに保たれるからである。
 しかし、私だったら口惜しくて口惜しくて南洋のジャングルから
離れられないのではないかと思う。おおかたの戦死者が
その場から離れられないでいるのが実情ではないかと思う。
広島で閃光に焼け死んだ人たちはその道端や川筋から離れられずにいるだろうし、
処刑されたA級戦犯はその刑場から離れられないでいるのではないだろうか。
遺骨が納められていたってそれがなんだろう。
 だとすると、首相は何もない空っぽのお社を拝んでいることになる。
こんなに珍妙な図があるだろうか? 本当に殉死者を悼むのなら、
南洋のジャングルまで出かけていって現地に額づかねばならないだろう。
そう考えてみると、隣国からの批判もとんだ的外れということになってしまう。
こんなことを考えるのは私だけだろうか。
 さて、もうひとつ疑問に感ずること。
残り少なくなった戦争体験者たちの中には、なんとかその悲惨な記憶を
戦争を知らない世代に伝えてゆかねばならないと、
老骨に鞭打つようにして語り部の役割を果たしておられる。
それはまぎれもなく気高い行為だが、話を聞いた子どもたちの感想などを聞くと、
どうも優等生的に類型的なのが気になる。彼らは本当にわかっているのだろうか。
わかったふりをしているだけなら問題だ。
 そこでもう少し戦争の後遺症を別のニュアンスでも伝える工夫が必要ではないか。
たとえば卑近な例で恐縮だが、私の父は志願兵として南洋に出征し
傷痍軍人(視覚障害)となって復員してきた。その後田舎で農業を大規模に営んだのだが、
ジャングルで何をしてきたものか、戦争の話はとうとう一言もしなかった。
それどころか私たち子どもとも打ち解けた話をしなかった。
そうして人が変わったように大酒を浴びて借金を残し勝手に早死にしてしまった。
 そのため私には思春期になってから
「排尿困難」「会食不能」「ざこ寝無理」という軽度のノイローゼが現れてきた。
「排尿困難」というのは大勢人のいる(学校のトイレや
公衆便所のような)ところでは排尿できない、
「会食不能」というのは大勢の中ではうまく食事することができない、
「ざこ寝無理」というのは(私の名づけたもので)やはり
(修学旅行や合宿などで)うまく眠れないという障害である。
原因は小さいころ父親と親身に話した経験がないことにあると書かれてあった。
私はそれを二十歳すぎてから新聞記事でたまたま読み、
目からウロコが取れたような気がした。そんなことでひそかに悩んでいたのは
自分だけではなかったのである。
 つまり、あの戦争の後遺症はそういう形で
私にまで受け継がれているわけである。
幸いと言おうかその後頸髄損傷という障害を負ういわば荒療治を受けたおかげで、
そんなノイローゼはどこかへ吹き飛んでしまったが、
もし頸髄損傷がなかったら私は今でもひそかに悩みを引きずり続けていたかもしれない。
そのあいだ私にとっての戦争は決して終わらないのである。
戦争とはむごたらしいものであるが、こういう穏やかなむごたらしさも
あるのだということを子どもたちには知ってもらいたい。

★きょうの短歌
父の義眼左だったか右だったか思い出せずに途方にくれる 
   虎彦













★第二十回(2001年8月12日)

 なんとなく大きな声では言いにくいが(小さな声では聞こえないので)、
私は吉本新喜劇が(テレビで見るだけなのだが)好きである。
週末のちょうど昼寝する時間帯にやっているので、
グフグフと一人笑いで目に涙を溜めながら見ている。
うつらうつらとしたそのひとときは荒れた胃袋にとっても癒しとなっている。
 吉本といえばあの「こてこてギャグ」である。
チャーリー浜の「じゃあーりませんか」や「ごめんくさい」、
その他「ごめんやっしゃ、おくれやっしゃ」「ぱちぱちパンチ」「おまんにゃわ」などなど。
ここらで出るなとわかっていても面白い。不確かで際限のない世相の中で、
予定調和の安心感とでも言おうか。
 そんなことはまあどうでもいいのだが、あれらの笑いの中に
実はかなり露骨な差別が頻出してくる。それは出演者の身体の特徴を
徹底的にいたぶって笑いを取る手法である。
 たとえば、顎がしゃくれている、目が離れている、鼻がポットのように長い、
アンパンマンのように丸い、口笛を吹いているように唇がめくれている、
不細工である、などなど。
 そのいたぶり方はこれでもかこれでもかと情け容赦がない。
もちろん放送禁止にリストアップされているような言葉を使うわけではないが、
あんなことを東京のバラエティ番組でやったら、たちまち抗議が殺到するだろう。
 しかし吉本のしたたかなところは、やられるほうも負けてはいないということである。
池乃めだかが背の小さいことをネタに全員からボコボコに蹴られる場面でも、
やがて何事もなかったようにすっくと立ち上がり
 「よーし、今日はこのくらいにしといたろー!」
 と言い放ち、あらたな笑いをとるのである。
ほかのいじめられ役たちもひるむことなく言い返し、ギャグにすり替えてゆく。
問題の本質はなんにも解決していないのだが、笑えておしまいになる。
 関西弁の果たすクッションの役割も大きい。
あれだといたぶりの言葉も憎めなく聴こえてくる。
もちろん芸人たちの計算しつくした間合いというものもあるだろう。
それどころか身体の特徴のおかげで出番が増え、
お客さんに覚えてもらえるのなら「こんなオイシイ話はない」
とほくそ笑んでいるのかもしれない。なにしろシビアな世界であろうから。
 私はいつもうかうかと笑わされながら「いいのかなあ?」と思う。
しかしどこからも批判らしい声は聞こえてこないから、みんな納得しているのだろう。
私にしても不愉快を感じることはない。むしろ東京のお笑いものまね番組などで、
ある歌手のハゲを強調したものまね芸のほうがよほど下品で不愉快である。
そこには吉本のようなクッションがないからである。
彼らはそのうちある日突然吊るしあげられる羽目になるかもしれない。 
 障害者をめぐる差別的表現がなにかと問題になるご時世だが、
おかげでマスコミなどには「腫れ物にさわる」ような及び腰がみられる。
無理もないが「気の毒に」と思う。
 しかし吉本新喜劇のこてこてギャグにはそんな遠慮はみじんもない。
そこがある意味で痛快である。
 「少々の身体の負い目がなんや」
 「そんなもんギャグにして笑い飛ばしてしまえ」
 「笑いを取ったほうが勝ちや」
 という力強いメッセージがあふれ出してくるようである。  

★ きょうの短歌
笑われているような気がしてみればお山はすでに若葉に青葉   
 虎彦










★第十九回(2001年8月8日)

 去る7月30日に長崎県川棚町の大崎海水浴場へ行ってきました。
実に30年ぶり、頸髄損傷になってからは初めての経験でした。
同じ頸髄損傷で浦賀に住む瀬出井弘美さんの水泳の体験談などに触発されて、
自分にもできるのではないかと、にわかに昨年から計画を立て始めました。
あいにく昨年は台風に二度もじゃまされましたが、今年は念願がかないました。
 佐賀市のNPO「たすけあい佐賀」のノンステップ車に移送してもらい、
嬉野町から一時間ほど、移送費用は10000円ほどでした。
山がつの私は年に一度は無性に海を見たくなるのです。
昨年の五月に韓国の釜山まで高速フェリーで日帰りの旅をして以来でした。
 さて、川棚町のホームページにあらかじめ問い合わせておきましたので、
海では運転手とアルバイトの兄ちゃんたちに三人がかりで抱えてもらいました。
海の家から砂浜までには7,8段のコンクリートの段差があるのですが、
その中央あたりに一箇所スロープがつけられているので、
結局段差は最後の一段だけでした。そこから海まで10メートル足らず。
道路からの入り口も坂で、車いすには思いのほかアクセスがいいところです。
また内海の大村湾ですから波も穏やかでした。
 水着などはわざわざ買わず、ジャージのズボンを膝までめくり
そのまま浸かりました。以前嬉野町の国立病院に入院していたころ、
温泉を利用したリハビリプールで浮き輪をつけて泳いでいたことがあったので、
その調子でぷかぷか浮いているだけでした。しかし足と尻が海中で漂っている
のを見るのは不思議な感じでした。縟瘡や陰部の赤みには良さそうでした。
お盆前だというのに早くもくらげの子が寄ってきましたが、刺されはしませんでした。
砂浜に私の電動車いすがぽつんと主の帰りを待っているのが奇妙な眺めでした。
 一時間足らず浮いていましたが、腕が疲れてきたので、また抱えてもらい
電動車いすに大きなビニールを敷いて座らせてもらいます。Tシャツを着て、
もう一度抱えてもらっているあいだにズボンとビニールを引き抜いて拭いてもらい、
さらにもう一度抱えてもらっているあいだに替えのズボンをはかせてもらいます。
(私は自然排尿のため下着ははいていません)。ケイソン出っ腹のためここが一番
難しいところです。お兄ちゃんたちにはお世話になりました。
 そのあと海の家で定番の焼きそばと缶ビールで腹ごしらえをして帰りました。
日ごろのストレスが解消されて、すっかり病み付きになりそうです。

また来年も行こうと思います。
車いすの皆さんにはぜひともお勧めですよ。
それにしても「泳ぐ」という瀬出井さんがいまだに信じられません。
私も来年は浮き輪をはずして試してみようと思います。
それでは皆さん、夏バテに気をつけて。

★きょうのギャグ

 男のロマンは女の不満    虎彦


 

 

 

 

★第十八回(2001年7月5日)

 インターネットのEメールは、手紙やFAXにくらべて断然簡単でスピーディーだから、
みんなすぐに返信をくれるだろうと思っていたら、あにはからんや、遅い人は遅いし、
くれない人はくれない。返信がこないと「何か怒らせるようなことでも言っただろうか?」
と気に病まなければならない。これでは郵便のころとなんら変わらないなあ、と苦笑する。
それによって人間関係までぎくしゃくすることがあると、ちょっと困りものである。
 実は私もそれで今一人の古い友人と絶交状態になっている。もともと手紙やFAXを送っても
めったに返事をくれない男だったし、忠告めいたことを言っても一向に聞く耳をもたぬ男だった。
まあそんな人間なのだろうとたいして気にも留めずにいたが、一年ほど前に先のような
不愉快な行き違いがたてつづけに五つぐらい重なって、気の長い私もさすがにカチンときた。
 何よりも、相手の求めに応じて大切な写真を送ったのに、いっこうに返事がなく、どうなったのかと
問い合わせると、そのとき初めて思い出したふうで「見当たらない」と言う。私は憮然とする
ばかりだったが、さらに驚くべきことに彼からは一言の詫びの言葉も出なかったのである。
その日を境に、ぷっつり絶交となった次第である。
 しかし、私も子どものようにいつまでもこだわっているつもりはない。
ものごとには「けじめ」というものが大切だから、相手がきちんと謝罪の言葉を述べてくれれば、
いつでも関係を修復する用意はある。これは何やらどこかとどこかの国の国際関係にも
当てはまりそうな話である。まずはそこからであろう。

★今日の短歌

 某首相予言する十年後にはなくなっている国ののうぜんかずら   虎彦












★第十七回 (2001年6月28日 )

 前回の日誌に対して、次のようなメール(健常者)が寄せられました。

 「どんな親しい友だちでも、バタバタとビル群が倒壊する事態では、障害者を置き去り
にして逃走するだろう、そう思うと戦争でも地震でもサバイバル状態になったら怖い。
 わが脳性マヒ者の友とそう語り合ったことがあります。少なくとも自分を犠牲にして
まで赤の他人の障害者などを救うことは滅多にないことだろう。
 経済的にも恋愛においてもなんでも置いてけぼりにされるのが障害者。この二つはた
まにはヒットを飛ばすこともありますが、サバイバル状態の時でははっきりと分かりま
す。友と思っていた人たちよ、さようならです。ぼくもまずはわが家族が優先です。
 後悔しないその時を迎えるためにも、日頃から声を大にしておくことと、割り切って
おくに限るでしょうねえ。(中略)障害者置き去りを予想して反戦運動している人たちって
どれだけいるものなんでしょうか。ぼく自身、戦争はよくない程度の認識で反戦なんて
いうことがありますが」

  なるほどねえ。これが厳しい現実というものでしょうか。私たち障害者もよくよく肝に銘じて
おいたほうがよさそうです。だからといって敵対するというわけではなく、人間というのは
そういうものなのだ、と思い知っておけば失望も少ないということでしょう。
そして自衛できるかぎりは自衛しておくことでしょうか。
ちょっと極端な話に流れましたが、ご参考までに。

 ★今日の短歌 

 いまどきの変なおじさんに住みにくい世の中となり野みちまでくる   虎彦











★第十六回 (2001年6月17日 )

 それはわが目を疑うような光景だった。今から一ヶ月ほど前のことだ。
確か「羽田空港からも国際線発着を」という扇千景国土交通省の発言を機に、
それに同調した石原慎太郎東京都知事が、空港付近の住民をまじえた
意見交換会のようなものを開いたというTVニュースの画面だった。
 国際線の必要性を説く都知事につづいて、参加者との質疑応答がはじまり、
空港のすぐ近くに住むという男性住民が「今まででさえ騒音に悩まされてきたのに、
この上国際線まで発着すると耐えられなくなる」というような発言をした。
すると都知事は『フフン・・・・・』といかにも蔑んだような眼差しで、
「そんな意見が出てくることはわかりきったことでね、次!」と言い放ち、
発言者を一顧だにせず、次の発言を顎と指で促したのである。
(うろ覚えのため発言は一字一句まで正確ではないのであしからず)
 確かにわかりきった意見ではあろう。だからと言って、その態度はなかろうぜ!
と私はしばらく身体の奥深いところで震えが止まらぬような気分だった。
こんな都知事を都民の七、八割が支持しているという。うすら寒いばかりだ。
 私には近い将来、この国に非常時が訪れたとして、そのとき障害者たちが
為政者に福祉の改善を望んでも、「馬鹿者め、この非常時に何を悠長なこと
を言っておるか。役立たずはすっこんどれ!」と恫喝されている場面が、
そこはかとなく目に浮かぶようだった。それはまあ極端なたとえではあろうが、
そうなるまでの径庭は意外なほど短いような気がする。
 国家の利益のためにはささいな個人や住民のエゴは慎まねばならぬ、
というのが都知事の考え方であろう。特に危急存亡のときには有無を言わせぬ。
国家あっての個人なのであるから、という信念がありありと見てとれる。
都知事の考え方のすべてが間違いとはいえないだろう。
ある部分は現代日本の病巣を突いているので、あれほど支持されてもいるのだろう。
 ううむ。それにしても、今が危急存亡のときかどうか私にはわからない。
まして国家あっての個人なのかどうかはなおのことわからない。
そんなときは先達の声に耳を傾けるにかぎる。たとえば作家の澤地久枝(心臓疾患)は
次のように語っている。
 

 「ご冗談を。旧満州(中国東北部)で敗戦を迎えた私は、十四歳で『国家の崩壊』を
目の当たりにしました。国家なんて一夜にしてなくなり、だれも責任を取らない。
関東軍幹部はいち早く南下し、ほとんどの在満日本人は見捨てられた。集団自決が起き、
中国残留孤児や残留婦人が生まれた。国も軍隊も市民を守っていないのです。
『国家あっての国民』という考え方にはあきれる。
人間がいなくなって国家が存在するのですか」

             ( 朝日新聞27面、「聞く・憲法を考える」、2000年12月26日 )

 また津軽三味線の門つけ高橋竹山( 視覚障害)は次のように語っている。

 「まなぐ(目)の見えねえもんに、一番ひどかったのは、戦争だったな。
戦争になると、まなぐの見えねもんは役立たず、言われで、生ぎで行がれねえもんな。
したはんで、戦争だば、絶対まいね(いらない)じゃ」

  ( 「両足をなくして 車椅子記者のたたかい」藪下彰治朗著、晶文社、1996年、1800円 )

★今日の短歌

 国が先か個人が先かニワトリが先か卵が先かもしらず     虎彦









★第十五回 (2001年6月13日 )

 ハンセン病裁判の劇的な解決は、私たち「無年金者問題」をかかえる者たちにも
ひとすじの希望の光を投げかけている。( いや逆に遠のいたという人もいるが)。
 「無年金者問題」とは、「国民年金」制度に大学生や専業主婦で加入していなかったため
無年金となっている( いわば制度の谷間に陥っている)障害者たちの救済問題である。
たとえば同じ大学生でも19歳11ヶ月の者と、20歳1ヶ月の者が同じ事故にあい
障害者となっても、前者には障害基礎年金(月額8万円ほど)が支給されるのに対して、
後者は無年金となる場合が出てくるのである。代わりに「特別障害者手当」
(月額26000円ほど)がわずかに支給されているのが現状である。
それで現代日本でどうやって自立しろと言うのだろう。
まして年金と手当では受け取る者のプライドが違ってくる。
 これは憲法で定めるところの「基本的人権」や「平等主義」や
「健康で文化的な最低限度の生活」に違反するのではないか、
という疑義が差し挟まれているのである。
( 詳しくは「無年金障害者の会」ホームページを参照してください。 )
     http://www6.airnet.ne.jp/munenkin/
 これは全国脊髄損傷者連合会などを通じて過去十数年以上も
訴えられてきたのだが、厚生省の態度はハンセン病に劣らず頑なだった。
そのしらじらしい態度といったら、決して忘れられるものではない。
私も会を通じてくりかえし訴えてきたのだが、正直もう根気が尽きそうだった。
 そこへこの度のハンセン病裁判である。小泉人気で世間がどまぐれているうちに、
どさくさにまぎれて突破口が見出せないものか、などといちるの望みを抱いてしまう。
そして坂口厚生大臣がハンセン病患者たちに頭を下げて回っている図のように、
いつの日にか私たちにも頭を下げてもらえたらどんなに溜飲が下がることだろう。
 とはいえ、ハンセン病の場合、島比呂志さんが「どうしてあなたたちはもっと怒らないんですか?」
と他の被差別者から詰られて、老骨に鞭打ってゆかれた経緯があるように、
私たちも自ら一歩を踏み出さないことには始まらないだろう。
たとえば先の「無年金障害者の会」では全国各地でいっせいに訴訟を起こしているが、
私の場合、やはりこうしてペンの力によって訴えてゆくしかない。

★今日の短歌

 
唐突に叫びたくなり叫ばずにまたもひとりの修羅ゆききする    虎彦






★第十四回 (2001年6月10日 )

 「ペン人」26号を発行しました。前号からまたぞろ二年以上が
隔たってしまいました。まあ、定期にきちんきちんと発行していれば
いい作品が載せられるというわけでもないから、それはかまわないのですが。
 今号の目玉は「佐藤友則小詩集」と「酒谷愛郷川柳句集『暁』書評」です。
二人の才能あふれる作品を、どうか味わってくだされば幸いです。
 ところで、同人雑誌を発行すると各方面からいろいろ批評をいただきます。
私にとってその中で最も辛辣なのは、実をいえば母親の一言であります。
今回も「
自分ではうんこも拭けないくせにって顔に書いちゃあおしまいだよ
という私の尾篭な短歌に対して、「あんなこと書いて、心がない」と怒られました。
別におふくろさんのことを言っているわけではないのですが、まあ、
そう読まれてもしかたがないでしょうね。「ペンペン草」にはイジメられっ子だった回顧も
書いているのですから。弁解の余地はありません。
 しかし私はいつもいっさいの弁解をいたしません。
文学(フィクション)の何たるかがわかってもらえるとは思わないからです。
なにしろ彼女は筋金入りの農婦なのです。
かくして「もの言わぬは腹ふくるるわざ」となり、胃薬を飲む羽目となるわけです。
 ちぇっ、あんな短歌載せてちょっと不用意だったかなあ。
皆さんはどう思われますか。

★今日の短歌

 おふくろの検閲もすみあとは世に問われるばかり同人雑誌    虎彦 





★第十三回 (2001年6月2日 )

 今日は嬉野町の交流センターで岡安芳明のアコースティックギターのジャズライブが
ある。今年になって初めてのコンサートなので楽しみにしていた。夜の7時半開演なので、
午後3時頃から出かけようと思って、いつものように昼寝するため枕もとのラジオをつけた。
(私は寝しなに音楽を聴かないと眠れないのだ)。するとうつらうつらしてきたころ、なつかしい
「サルビアの花」が流れてきた。何年ぶりだろう。学生時代(1974年頃)に流行ったフォークソングである。 
それは「元麻呂」という女性歌手が歌っていたが、私が聴いていた頃は「岩淵リリ」という歌手
ではなかったかと思う。独特の発声をする歌手だった。
  
  
いつもいつも思ってた
  サルビアの花をあなたの部屋の窓に投げ入れたくて
  そうして君のベッドにサルビアの赤い花敷き詰めて
  僕は君を死ぬまで抱きしめていようと
  なのになのにどうして他の人のところへ?
  僕の愛のほうが素敵なのに・・・・・・・・・
  泣きながら君の後を追いかけて
  花ふぶき舞う道を
  教会の鐘の音はなんて嘘っぱちなのさ
  扉を開けて出てきた君は偽りの花嫁
  顔をこわばらせ僕をチラッと見た
  泣きながら君の後を追いかけて
  花ふぶき舞う道を
  ころげながらころげながら走りつづけたのさ

 というような歌詞である。あらためて聴くとなんてみだりがわしい歌い方だろう。
とりわけ「泣きながら」「ころげながら」というあたり、すっかり自分の世界に耽溺している。
ベッドに赤い花を敷き詰めて、仕事もしないで死ぬまで抱きしめている、
ような男の愛が素敵だなどとよくぞ言えたものだ、と今なら思う。
現代詩の世界ではこういうのを「詩に淫している」といい、いずれろくなことにはならない。
最近の歌手でいえばたとえば徳永英明や河村隆一のような歌い方であろうか。
そういえば徳永は昨日「もやもや病」という奇病で休養すると報じられていたなあ・・・・・・・・・・。
 最近のたくましい女性からは、なによりもまず女々しい男だと飽きられるだろう。
今ならさしずめストーカー君の一歩手前である。「泣きながら、転げながら」追いかけるなんて、
中島みゆきの世界ではないか。気持ち悪いよなあ。
 しかし当時はこういう歌が流行っていたのである。そして私もうっとりしながら聴いていたのである。
いったいどういう時代であったのだろうと思う。あえて弁護しておくならば、
ストーカーになる一歩手前でみんな懸命に堪えていた時代であった。
堪えるためにフォークソングを歌っていたのかもしれない。
ダンスミュージック全盛の今の若者たちにはまだるっこしいだろう。
しかし現代は新潟の少女監禁事件にみられるように、それを実行してしまう時代である。
実行してしまうほうが男らしい、なんてもちろん女性たちは考えないだろう。
 それからもうひとつ、これは、女性が男性の気持ちを歌っているという点が新しかった。
男性がこんな歌を歌ったら、さすがに当時の私も聴かなかっただろう。
初めて聴いたときは男まさりの女性がわざと男言葉で自分のことを
歌っているのかと思ったほどである。
 まあ、失恋の腹いせというテーマは、「金色夜叉」の昔から歌われ書かれてきたことだし、
別にことあたらしい話でもないのだが。
 ともあれ、「サルビアの花」とともに元気だった学生時代の日々が鮮やかに蘇ってきた。
その日、電動車いすで嬉野町まで往復する四時間のあいだ、私の口からは
コンサートで演奏された「煙が目にしみる」や「タイムファイブ」のメロディーではなく、
「サルビアの花」の歌詞が際限なくほとばしり出た次第である。

 ★今日の短歌

 そんなやつチョン切ってやりたいけれど自分のものに手を当ててみる    虎彦

 







★第十ニ回 (2001年5月26日)

 今日は嬉野町の(私立)嬉野温泉病院友朋会のアートセラピー美術館を初めて見に行ってきた。
嬉野温泉病院はもともと精神病院だったが、その後、老人ホームや保育園やデイサービスセンター
などを次々と併設し、今では巨大な医療コロニーを形成している。福祉はよほど儲かるらしい。
まるでおとぎの国を思わせるようなメルヘンチックな建物群に度肝を抜かれた。 
その日はたまたまグラウンドで入所者たちの運動会も開かれていた。
 美術館は精神病棟の患者さんたちが芸術療法として描いた過去数十年の絵の中から
鑑賞に耐えるものを50点ほど展示したものである。小品から3m×5mほどの大作まで
さまざまであるが、いずれも病を抱えた人たちのものとは思えない力作ぞろいだった。
絵を描くことで彼らの何かが昇華されていったと思いたかった。
 中には「川中島の合戦」と題して、武士たちが首をはねられている場面ばかり克明に何十体
も描いたものもあり、わずかに偏執的な傾向を感じさせるものもあった。
館内は無人のため、自分で室内の電気をつけねばならないのが好ましかった。
 いずれにしても、嬉野町にこんな別世界の一画があるとは思いもよらなかった。 
27年前すぐ隣りの国立嬉野病院に入院していたころ、精神病あがりのTさんと親しくなり
そのあたりを散歩したことなどなつかしく思い浮かべた。

 ★今日の短歌

 精神の鱶に食われて胃袋に穴があったら入りたいほど     虎彦

 

 


★第十一回 (2001年5月29日 )

  この25日頃から、部屋の前の植えこみあたりにホタルが舞いはじめた。
数はほんのニ、三匹である。だんだん少なくなってきている。それでも
居ながらにしてホタル狩りが楽しめるなんて、なんという贅沢な環境だろう。
都市部でコンクリートに囲まれて生活している障害者仲間たちにはすまない。
昔はもっと遅く、たとえば夏休みぐらいにも舞っていたような気がするが、
このごろはずいぶん早く出る。そしていなくなるのも早い。
何かの影響だろうか。

★今日の俳句

 日のひかり月のひかりを浴びて寝る    虎彦   

 





★第十回 (2001年5月15日 )

 ホームページを本格的に公開してから、一ヶ月あまりで
アクセスカウントが1000回を超えました。この数字が多いのか少ないのか
私にはわかりませんが、ただただ驚き感謝するばかりです。
 いったいどんな人たちが覗いてくださったのだろう? それを
想像するのはなかなか刺激的なひとときです。このような
楽しみが私の人生に待ちうけていようとは、インターネットを
始める前には思ってもみないことでした。
 これからもちょこちょこ更新していきますので、
どうかお楽しみください。

★今日の短歌


 椅子という椅子の背もたれを伸びあがるときポキポキと折れてゆくもの    虎彦

 






★第九回 (2000年5月10日 )

 熊本地裁で「ハンセン病隔離は違憲」として国に18億円の
陪償を命じる歴史的な判決が出ました。これまで息を潜めて暮らして
きた患者さんたちも、この五月晴れのような気分でいらっしゃるでしょう。

 私もさっそく北九州市小倉の県営住宅で一昨年から自立生活を
始められていた小説家の島比呂志さんと、鹿児島県星塚敬愛園で
「火山地帯」という同人雑誌を発行しておられる立石富男さんに
お祝いのハガキをだしました。

 とはいえ、うしなわれた日々を取り戻すためには、どうしたらいいのか?
にわかな名案などありません。そこで私はせめてものインターネットを
始めてほしいと伝えました。必ずや力になってくれる日が来るでしょう。
ハンセン病の後遺症である視覚障害にも、対応できるよう改良が少しずつ
なされ始めていると聞きますからね。

 そんな私の身近な人からは、「今まで国から養ってもらってきたのだから、
あまり陪償金を要求するのはどうか・・・・」というような声も聞かれました。
いまだにそういう声があるのも事実です。厳しいですね。

 いずれにしても、島さんには嬉野温泉に湯治にでも来てほしいものです。
そしていい小説を書いてほしいものです。

★今日の短歌

 抒情はて無意味の新鮮うすれへなへな調でゆくほかはない  虎彦

(追伸)
 その後、下記のようなメールが回ってきました。趣旨に賛同しましたので、
転載いたします。どうかご覧下さい。

  多くの方がご存知のこととは思いますが、5月11日熊本地裁で出された、ハ
ンセン病患者に対する国家賠償請求訴訟の判決は「日本の司法も捨てたもん
じゃない」と思わせるほど、画期的なものでした。

しかし、ハンセン病の元患者さんたちが受けてきた不条理でかつ、すさまじ
い差別を考えると、当然と言えば、当然すぎる判決です。

判決の骨子については以下に引用するHPなどを見てください。
弁護士古賀克重さんのHP
http://homepage1.nifty.com/lawyer-k-koga/

ハンセン病国賠訴訟弁護団
「知ってハンセン病国賠訴訟」
http://www.hansenkokubai.gr.jp/


なんとしても、この判決を確定させなければなりません。国側の控訴期限は
判決の2週間後であり、その間に控訴させないという声をみんなに出して欲
しいと思っています。とりわけ、政府が態度決定に向かうこの1週間が重要
だと言われています。できるところで、この判決を話題にしてください。知
りあいや友人に話してください。

そして、決定にかかわる人に意志を伝えたいと思います。

まずは総理大臣 小泉さんに住所: 千代田区永田町2-3-1 内閣総理大臣官邸
            FAX: 03−3581−3883
  また、首相官邸のHPでも国政に関する意見を募集しているようです。以下
  のアドレスから意見が書き込めます。
http://www.kantei.go.jp/
みんなで書き込みましょう。

その他、厚生労働省や国会議員や政党の連絡先は以下の、テーマのHPにあり
ます。
==緊急掲載!
          「伝えよう!私たちの思い」
     〜国に控訴させないようなメッセージを
             各方面に届けよう!〜
アドレスはhttp://www.geocities.co.jp/HeartLand-Himawari/8952/webmaga/new.html


5月22日の閣議で政府の態度が決定するのではないかと言われています。
それまでに、どんどん声を広げたいと思います。まず、ともだちや知りあい
と、これを話題にしてください。そして、親や兄弟、親戚にも話してみまし
ょう。

そして、行政や国会にメールやFAXを

さらに、マスコミにも思いを伝え、マスコミを通して控訴させないという声
を出して行くという方法もあります。

厚生労働大臣と面会した原告は謝罪しようとする大臣に
「控訴断念なしに、謝罪はあり得ない」と明言したそうです。

まとまりがないのですが、時間がなくなったのでこんな形で送らせてもらいます。

最後に、原告団協議会と弁護団連絡会からの要請です。

2001年5月14日、ハンセン病違憲国賠訴訟全国原告団協議会とハンセン病違
憲国賠訴訟全国弁護団連絡会から次ぎのような要請が出ました。
==
ハンセン病違憲国賠訴訟熊本判決に国が控訴を断念するよう要請してください

1 ハンセン病謝罪・国賠訴訟において、熊本地裁は5月11日、原告全面勝訴
判決を言い渡しました。
  この判決は、我が国のハンセン病政策の犯罪性と人権蹂躙の実態を正し
く把握したうえで、ハンセン病政策と「らい予防法」が明白に違憲であるこ
と、加害行為が法廃止まで継続していることから除斥期間が適用されないこ
とを明言している画期的なものです。
 元患者らの平均年齢は74歳を超えており、一刻も早い全面解決が求められ
ます。
 そのためにも被告国は控訴せず本判決に服するべきです。解決の引き延ば
しは、原告らから司法救済を受ける権利さえ奪う新たな国家犯罪です。
 控訴期限は5月25日です。私たちは、被告国が控訴を断念するよう、全力
で運動をする決意です。
 本判決は、国会の責任も認定しています。控訴をするかどうかは国会の意
見も 聞くべきですが、国会では100名以上の議員の参加した超党派の議員懇
談会が結成され、解決に向け活発に活動しています。
 また本判決はマスコミでも大きく報道され、しかも各新聞社説では被告国
は控訴すべきではない、と論じられています。
 被告国が控訴を断念する現実的な可能性はあります。

2 そこで、控訴をさせないためにみなさんの声を国に集中していただきた
いと思います。 具体的には、内閣総理大臣、厚生労働大臣、法務大臣宛に
手紙、FAX、電報、 メールなどで、「ハンセン病国賠訴訟に国は控訴する 
な」という意思を伝えてく ださい。
 国が実質的な意思決定をするスケジュールを考えますと、5月21日までに
お願い致します。

3 なお、5月21日午後および夜、政府にたいする大規模な行動を予定してい
ますので、どうか皆さん、お集り頂き、ご支援下さい。場所および時間は午
後3時 厚生労働省前、午後6時30分日比谷高校星陵会館(地下鉄有楽町線永
田町駅徒歩 5分です。原告の皆さんを応援しましょう!ご支援、ご協力をお
願いします!
連絡先:ハンセン病・国家賠償請求訴訟を支援する会・0424-93-1382

 




 ★第八回 ( 2001年5月2日)

 
世相が乱れてくると、必ずといっていいほど、「昔はよかった」式の世論が高まってくる。たとえば明治後半から大正時代をへて昭和の敗戦ころまでの日本人は非常に気骨があった、というような話もきく。あるいは江戸時代の日本人は非常にリサイクルでつつましく、そのくせ文化的にはきらびやかな伝統を誇っていたことを再評価するような声もきく。

 ふうむ、それにも一面の真実はあるだろう。しかし私たち障害者の立場からいえば、「ちょっと待ってくれ!」と言わざるをえない。たとえば「デンマークに学ぶ豊かな老後」(岡本祐三著、朝日文庫、1993年、530円)という本には、次のような記述がある。

  「しかし、日本の歴史をふりかえってみても、全国どこへいってもこの 和式便所を、腰掛け式に改良したような工夫の形跡が見当たらない。また車椅子や歩行器のような、足腰不自由な人のための補助器具の類も作られた形跡がまったくない。つまり我が国には、家庭内に年余の長期間にわたって「寝たきり老人」が生活したことは、(中略)歴史的にはほとんどなかったと思われるのである。
  ついでに言及するなら、日本の「旧家族制度」にノスタルジーを感じられる向きもあると思うが、旧「民法」下、法律によって親の扶養を長子に強固に義務づけていた時代、すなわち昭和ヒトケタ時代の戦前のほうが、老人の自殺率は現在よりもはるかに高かった(1.7倍)。(中略)伝統的「敬老精神」なるもの、実は神話ではなかったかとさえ思われてくる」

 つまり、自分の身の回りのことを自分で処理できるくらいの軽度の障害者はともかくとして、そうでない重度の障害者たちはほとんど存在した形跡すらないということである。これはどういうことかと言うと、たとえば脊髄損傷や頸髄損傷や脳性麻痺やポリオやALSや筋ジストロフィーというような四肢マヒの場合、たいてい泌尿器科あたりからの不備で早死にしたということであろう。長生きして介護の問題が表沙汰になるまでもなかったということである。彼らはさぞかし無念であったことだろう。
 そういう犠牲の上に成り立った「昔はよかった」であることを、その手の主張者たちは考えようともしない。どんなによさそうに見える時代でもたいてい一部の人間は虐げられているのが史実というものである。

 まして、2001年4月に鳥取の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡から、結核が原因とみられる脊椎カリエスの人骨が発掘されたことからもわかるように、歴史上どんな時代にもある一定の障害者は存在したらしいのだから、彼らの不遇の歴史から目をそらすわけにはいかない。いくら彼らがうっとおしいからと言って、ヒットラーのような薬殺死政策など取れるわけもない。

 現代の障害者たちはそれよりはるかに自由で活き活きとした生活を送れるようになっている。

 そうしてみると、「昔はよかった」などという論調にはなんの根拠もないことがわかる。うしろを振り返るよりも、いろいろな立場の人たちとこれからともに生きてゆける社会を模索してゆく、それしかないことがどうしてわからないのだろう。不思議でたまらない。

 ★今日の短歌

 年寄りというだけで敬われる時代は去っていそしんでゆく    虎彦








★第7回 ( 2001年4月25日 )

 参加している二つのメーリングリストに、
次のような詩を発表した。

草深い盆地の中学に通っていたころ
私はイジメられっ子だった
相手は番町グループ十数人だった
便所の裏や渡り廊下の隅へ連れてゆかれて
かわるがわる殴られた
圧倒的な多勢に無勢だった
よく殴ったのはKとMとYだった
Kとは小学生のころ三人組を作っていたこともある
番長はあまり殴らなかった
それより情婦のような彼女が寄り添っていた
なぜ殴られるのかよくわからなかったが
まったくわからなかったわけでもない
殴られながら
私は殴り返さなかった
というより殴り返せなかった
殴られていたのは他にもいたし
たいてい殴り返したりはしていなかった
その中には番長にへつらうようになった者もいた
どんなに殴られても決して頭を下げないことだけが
かろうじて私の矜持だった
私はあらそい事がいやでいやでたまらなかった
そのころ読んだガンジーの無抵抗主義などを
胸の中にほのかにくりかえしたりしていた
そんな私を誰も助けてくれなかった
しかし先生や親や友達にはチクらなかった
恥ずかしくてチクれなかった
殴られてくやしくなかったわけではもちろんない
相手にする値打ちもない奴らだと思おうとしていた
今にエラくなって見返してやろうと思ったりもした
そのため一生懸命勉強した
するとますます殴られた
私の坊主頭は若白髪で灰色っぽくなった
けれどもそんな中学を私は一日も休まなかった
なぜなら私の家はゴタゴタしていたからである
毎日毎夜怒号が絶えることはなかった
そんな家にいるより学校へ行くほうがまだましだった
ついでに言えば給食がいただけたからでもある
それは番長グループも似たり寄ったりであったろう
はるかな六十年代半ばの話である
今の子どもたちの参考にはならないだろう
それにしても・・・・・・・・・・・
どうしてあのとき一発でも殴り返さなかったのだろうと
そののち私は夢にまで見るようになった
夢の中で私は逃げたり殴り返したりへつらったり許したり
さまざまなシミュレーションを演じるようになった
夢から覚めるとうす闇の中で呆然とするばかりだった
しかしどうすることもできなかった
殴り返せる者は殴り返せばよい
けれどどうしても殴り返せない者もいる
そんな弱虫でも生きてゆかねばならない
・・・・・・・それから幾星霜かがあって
私は電動車いすに乗るような身体になっていた
それはまあ難儀なことではあったが
飛行機にも新幹線にもフェリーにも乗って
好きなところへ行けるご時勢であった
しかし母校の運動会だけはどうしても行けなかった
そのあたりにはバリアーが張られているようだった
悪戦苦闘のすえ何とか行けるようになったのは
かれこれ十四年もたってからだった
行ってみると別に何ということもなかった
校舎は白々と立て替えられていて
便所裏の暗がりも渡り廊下もなくなっていた
そしてテント張りの見物人の中にKがいた
Kは解体屋の社長になっていた
Kの息子は応援団長をやっていた
私には妻も子もなかった
それどころか詩人と呼ばれていた
向こうからなつかしそうに話しかけてきた
私もなつかしそうに受け答えした
話してみると別に何ということもなかった
数十年のこだわりは氷解したかのようだった
それからしばらくして
Kは近くの山の中で首吊り自殺した
商売がおもわしくなかったという
私には悼むべき言葉も見つからなかった
それ見たことかなどとは思わなかった
あくる日私は葬式に行かなかった
別に付き合いがあったわけでもないし
電動車いすでは座敷に上がれないので
などと誰にともなくぶつぶつ言い訳を呟いていた
代わりにMとYのことがにわかに気になりだした
彼らの消息など聞いたこともなかった
私はそんな自分が少しうっとおしかった
そのためインターネットでのボランティアに精だした
精をだしすぎてお尻に褥瘡をこしらえた     (煙男)

  200人ほどの会員から、表立っての感想は一通しか寄せられなかった。
それも『自分は殴り返したから大丈夫』というような、
私の投稿の真意をまったく汲まないものだった。
 その代わり、私のホームページの掲示板や、
個人宛てのメールには数通の共感を表した返事が届いた。
私のような弱虫でもちゃんと生きてゆけるというところにこそ、
子どもたちへの希望を読み取ってもらえれば幸いである。

★今日の短歌
  
 つくしからすぎなに変っている野みち私は何をしていたのだろう  
 







★第六回( 2001年4月23日)
 
 1997年8月に出版した「障害者の文学」(明石書店)ですが、
98年はじめに印税の半分(24万ほど)が振り込まれてきて以来、
とんと音沙汰がなくなりました。たぶんもう売れていないのだろう、
それなら残りの印税分は本でもらって
(たぶん十冊分くらいにしかならないだろうから)
おいおい寄贈でもしようと思い、その旨申しこんだら、
何とどさっと70冊も届きました。つまりそこそこ売れていたんですねー。
ああーん、こんなことならもうしばらく辛抱して、
現金で受け取ったほうがよかったー、としばし臍を噛みました。
 そんなわけで、この大荷物を少し整理しなければならなくなりました。
実際のところ狭い部屋には置き場もないんです。
そこで皆さん、いかがですか? あるいはお知り合いに
文学好きの方でもおられれば勧めてみてくださいませんか。
3800円+送料200円とちょっと高いので気が引けるのですが、
友人関係には3000円くらいでお分けします。
どうも図々しくてすみませんが、ご一考くだされば幸いです。

 ☆今日の短歌

 うわのそら電動車いすの足先がすぎなの森へ踏みまよいこむ

 





★第五回 ( 2000年4月18日)

 このところ、なぜだかS君とよく出会う。このあいだも公民館で会った。
同じ村に住んでいるのだから、出会って当たり前なのだが、
それはそうなのだが・・・・・・・・・彼は癌なのである。
私より年下だというのに。奥さんも子どももいるというのに。
それなのにどうしてひょこひょこ出歩いているのだろう。
病院と家のあいだをわりかた気楽に行き来している。
その時は高額な医療費の助成を申請するためだと言っていた。
ほかにもやりたいことをやるのだと言っていた
とても癌とは思えなかった。
私はなんと言っていいかわからない。
身近な人の癌は私たちにまである態度の選択を迫る
しかし他人は何の力にもなってあげられない。
彼が一人でしょってゆくばかりだ。
私はいたたまれなくてそそくさと帰ってきた。
せめてEメールで次のような、書きかけの原稿を送った。

  酒谷愛郷川柳句集「暁」書評から

 「ところで、酒谷川柳の特色として、「父の沖ー」「妹の汽車」のように父母や姉
妹を詠んだものが多いのはごらんの通りである。肉親に対する追慕の深さはわかると
して、あるいはコンプレックスのようなものがあったのかどうかについては、よくわ
からない。前句集からつづいて今度も肉親を詠んだ句が多い。それについて作者は
「あとがき」の中で

「私は私の詩の風景の中にしか父母を生かしてやることも語り合うこともできない」

 と述べている。幼くして障害を負うのみならず、頼るべき父母や姉を次々となく
し、都会を放浪し、孤絶のうちに独居している作者の、押し殺した悲鳴が聞こえてき
そうな言葉である。耳を澄まして聞くべきであろう。
 戦争で視覚障害を負った放浪歌人山崎方代の、次のような短歌も思い浮かべさせられ
る。

「わたくしが死んでしまえばわたくしの心の父はどうなるのだろう」

 ご心配には及ばない。方代の歌を胸に刻んだ私の心の中に生きつづけてゆくし、酒
谷の句を胸に刻んだあなたの心の中にさらに生きつづけてゆくのであろうから。そう
いうものの総体を「あの世」や「後生」と呼んでもあながちとっぴな話ではない。」 









★第四回 ( 2000年4月15日 )
 
 この14日、いつもの散歩道に、今年初めてのゼンマイを見つけた。
ゼンマイを見つけると、居ても立ってもいられなくなる。
あの白い渦巻きは、銀河系の渦巻きと交感している。
藪の中まで、電動車いすから手が届くわけではないが、
採らずにはいられない気持ちになる。
子どもの頃からの習い性だろう。
とはいえゼンマイが格別おいしいというわけでもない。
湯がいたり干したりもんだり、何かと手がかかる。
それよりワラビの採りたてを味噌汁に入れたほうがうまい。
にもかかわらずゼンマイに目の色を変えるのは
昔からの習俗のしからしむるところなのだろう。










★第三回( 2000年4月5日)
 
 どうやら工事もほとんど終わったので、メーリングリストなどの仲間たちに
正式に公開したいと思います。リンクフリーですので、お役立てください。
あとは写真と短歌の組み合わせなども計画しています。お楽しみに。

  さて、先日「長崎原爆・論集」(山田かん著、本多企画、2001年、1905円)
という本が寄贈されてきた。

 これは長崎原爆による被爆者で詩人である山田かんの、
1970年以降の論文52篇を編年体にまとめたものである。
山田氏は1930年、長崎市うまれ。父親がクリスチャンであったため、
彼も自然に洗礼を受ける。しかし15歳のときの被爆体験を境に、
父親や永井隆博士のカトリック教のありかたに疑問を抱き、
信仰から距離をおくようになる。広島における峠三吉のように、
いわゆる「原爆詩人」という看板を好むと好まざるとにかかわらず
ぶらさげさせられて、戦後の原爆の記憶が風化する中で
孤軍奮闘してきた詩人である。

 同人雑誌「列島」「現代詩」「九州文学」会員をへて、
以後しばらく無所属だったが、1979年から個人詩誌「草土」を発行する。
1991年から休刊して、同人雑誌「河」「カサブランカ」の会員。
1958年に第一回「現代詩新人賞」、1969年に「長崎県文芸賞」を受ける。
詩集に「いのちの火」「記憶の固執」「ナガサキ・腐食する暦日の底で」
「アスファルトに仔猫の耳」「予感される闇」「山田かん詩集」など、
その他著書多数。
 現在所は、長崎県諌早市真崎町807-18 電話0957-26-0252。

 この本の中で最も比重を掛けられているのが「永井隆批判」であろう。
同じ長崎原爆の被爆者であり、カトリック教徒であった二人だが、
その後の軌跡はまったく異なるものとなる。
とりわけ永井博士のカトリックエゴイズムと欺瞞を暴くことにかける執念は
すさまじいものがある。永井博士について通り一遍の「観光資源的」
「スーベニール的」知識しかもたされなかった私たちの不明を
深く恥じずにはおられなくなる。

 永井博士については「BOOK ENDLESS」においてすでに触れているので、
そちらをご参照ください。中でも最初の著作「長崎の鐘」
(永井隆著、中央出版社、一九七六年、六五〇円)が重要であろう。 
 小中学生のころ、長崎市方面へ旅行にいくと、バスガイド嬢がよく
「このあたりは、故永井隆博士の『長崎の鐘』にも出てまいります〜」
などと紹介するのを聞かされたものだ。おかげで「永井隆」「長崎の鐘」「ロザリオ」
というような言葉にだけは馴染んできた。とはいえそれが実際にどういう本なのか、
また博士がどんな人だったのか、ほとんど誰も(おそらくガイド嬢でさえ)
読んでいるふうではなかった。
 広島の原爆について書かれた詩や小説は、峠三吉の「にんげんをかえせ」
が収められている「原爆詩集」(合同出版、新装・愛蔵版、一九九五年)や、
井伏鱒二の「黒い雨」(新潮文庫、一九六五年)や、
原民喜の「夏の花」(尚学図書「高等学校現代国語三」から、一九七三年)
など比較的多い。それにくらべて、文学的・宗教的風土のちがいから
長崎のそれは少ないので、どうしても永井が特筆されてきたきらいがある。

 ガイド嬢の「祈り」や「献身」や「ロザリオ」に結びつけた
お涙ちょうだいの話しぶりから、私はなんとなく博愛精神に満ちた
線の細い人物を想像していた。ところが(恥ずかしながら)先年ようやく読んでみて、
全くイメージが覆されてしまった。
そしてその欺瞞を山田かん氏もまた痛烈に指摘しているわけである。
そういうつながりから、私は山田氏と同人雑誌のやりとりなどを続けていたのである。

 いずれにしても、一冊の本を紹介することの難しさを、つくづくと教えられた一件であった。







★第二回 (2001年3月21日) 

 案の定、二回目がこんなに間伸びしてしまった。あいかわらずトンカチ、
トンカチ、工事中で、なかなかゆとりが持てない。お許しください。
インターネットを始めてから時間がいくらあっても足りない。
これは多くの先輩からも聞く言葉である。自分だけはそんな
フリークにはならないぞと密かに心に期していたにもかかわらず、
私にとって一番大切な朝夕の(3年前までは愛犬をつれての)散歩の時間さえ、
このごろは短くはしょっていることがある。ううむ、いかんいかん。
 さて、このところは障害者関係のホームページを中心に
関連リンクを張らせてもらうため、了承をいただくメールをあちこち書き送っている。
障害者関係のホームページというのはそれこそ星の数ほどあり、
それら全般にわたってリンクを張ろうとすれはば際限のない話になる。
 そうではなく、ここではあくまで「障害者の文学」に的をしぼり、
文学作品や書評を掲載しておられるところや、雑誌関係、
同人誌グループ関係、出版案内関係、マスコミ関係などを中心に
リンクしていきたいと思っている。そのほうがかえって障害者問題の
核心に迫っていきやすいのではないだろうか。
もちろん私のホームページも「リンクフリー」ですから、
関係の方はご自由にリンクしてご活用くだされば幸いです。

 そのうち、今日は「凡久庵」というホームページをご紹介しておこう。
これは関西学院大学非常勤講師の坂上正司さん(頸髄損傷、宝塚市)が
障害者問題全般にわたって取り組んでおられるホームページである。
文学関係というわけではないが、その中に紹介してある「インターネットの
図書館」とも言うべき「青空文庫」と、辞典類の無料サービス
「便利ツール『国語辞典』」が、重度障害者にとってはとても役に立つのでお奨めである。
私も本棚からいちいち分厚い「広辞苑」や図書目録などを取り出さなくてもよくなり、
おおいに助かっている。
 「便利ツール」には国語辞典(三省堂の大字林)のほか
「英和辞典」「和英辞典」「新語辞典」が入っているので、
たいていの用事は片づく。ただ少し専門的な用語になるとまだ
不備が目立ってくる。しかし無料のサービスだから文句は言えない。
 「青空文庫」のほうは、過去(明治時代ぐらいから)の名作のうち著作権の切れた
作品をボランティアの人たちが再入力して、再び読めるように一般に
提供してくれているサービスである。世の中には奇特な人たちがいるものだ。
ただしベストセラーになったような有名な作品とは別のマイナーな作が多いうえ、
まだ絶対数も少ないから、目当ての本が必ず見つかるというわけにはいかない。
それでも意外な本(たとえば直木賞の元となった直木三十五の「鍵屋の辻」
など)が見つかる楽しみがある。重度障害のため簡単に図書館や本屋に行けない、
無年金のため(実は筆者も)ぜいたくに本を買えないというような人たちにとっては、
まさしく地獄で仏に遭ったような気分であろう。
 坂上正司さんはほかにも何種類ものホームページを開いておられるので、
ぜひ一度覗いてみてください。下記にそのアドレス画面を記しておきます。  
                                            不一

Tadashi 'Umekichi' Saka'ue_
O^_^D Home/Win sakaue@butaman.ne.jp
o(b d Office/Mac sakubeh@anet.ne.jp
土に根を下ろし、風と共に生きよう、種と共に冬を越え、鳥と共に春を謳おう
凡久庵 http://www.butaman.ne.jp/~sakaue/  03/15/2001更新 26000hits
作兵衛 AZUR宝塚 leCIEL宝塚 DORF中筋                                                  http://www.butaman.ne.jp/~sakaue/work/
関西学院大学非常勤講師
SJC 障害者情報クラブ http://www.butaman.ne.jp~sakaue/sjc/
SQ 重度四肢麻痺者ML http://www.butaman.ne.jp/~sakaue/sq/
大阪頚髄損傷者連絡会 http://www2.freeweb.ne.jp/~rsakurai/oaq/


★今日の短歌  
 世の中はテレビに出ている人といない人とに分けられている    虎彦






◆第1回(2001年3月1日)
 
 はじめまして。中島虎彦です。「障害者の文学・虎の巻」の世界へようこそ。よう
やく今日ホームページを開設することができました。これも電器屋の綾部さんはじめ
いろいろな方たちのアドバイスのおかげです。皆さん、どうかこれから可愛がって
やってください。
 さて、評論「障害者の文学」(明石書店、1997年、電話03.5818.1172)を出版して
から4年近くが過ぎました。その間も問題意識は途絶えることなく、資料集めは続け
てまいりました。あの本で書き尽くせなかったことを、なんとか他の形で補おうと、
いろいろな雑誌や新聞にずいそうや書評や評論などの形で散発的に書いてもきまし
た。散逸しやすいそれらはした原稿を、今回このようなホームページにまとめられた
のは望外の喜びです。
 
 そもそも、「障害者の文学」は次のような動機によって書かれました。
 「さまざまな障害を得て、肉体的(精神的)に絶え間のない苦痛に見舞われなが
ら、さてこれからどうやって生きてゆけばよいのか途方にくれるばかりのかれらが、
どのような不思議で『書く』ことへと導かれてゆくのか。その局面に『文学』にとっ
てもかなり重要な問題点が集約されてくるように見える。
  もちろん、文学はひっくるめて文学として扱うのがまっとうであり、『障害者の文
学』『女流の文学』『佐賀の文学』などという呼びわけに意味がないことは百も承知
している。にもかかわらず、障害者たちの創作がおしなべてあるイメージをともなっ
て括られ、語られがちであることも認めざるをえない。それが何らかの「偏狭さ」か
らきているとすれば、障害者たちが単に未熟なためだと決めつけてしまえる問題だろ
うか。何かもっと根深い問題がありそうな気がする。それを探ってみよう、という
ニュアンスは汲みとっていただけると思う」
 この思いは今も変らず、私の中に渦巻いています。したがってホームページのタイ
トルもあえて堅苦しいそれを使うことにしました。でもそれだけでは愛想がないの
で、『虎の巻』というおまけをくっつけた次第です。このホームページを見れば「障
害者の文学」についてたいていのことがわかる、つまり虎の巻のようなものであれば
幸いだという思いを込めています。どうかお気軽にそしてご自由に探索ください。

 メニューとしては、「俳句」「川柳」「短歌」「詩」「ずいそう」「童話」「言葉
あそび」「小説」「評論」「書評」「作品の抜粋」「自作の全索引」「夢魔」「嬉野
温泉だより」「写真」「日誌」などの項目に分けております。このうち俳句・短歌・詩
には一部私の英訳もつけております。国内だけではなく、国外の方にも広く探索して
いただきたいという願いからであります。「夢魔」というのは夢の覚え書きです。
 ほとんどの項目がまだ自作一篇のみしか挙げておりませんが、これから自他ともに
いろいろな実作品を載せて、更新してゆきたいと思っていますので、お楽しみに。私
は他人の作品を読むとき、気に入ったところ(特に短詩型など)をすぐにパソコンに書
き写す習慣がありますので、今現在でもかなりのストックがございます。それを少し
ずつご紹介していきたいと思っています。できれば連載小説も載せてゆきたいと思っ
ていますが、なにぶんインターネットに関しては初心者なのでいつになるかわかりま
せん。

 そうして、文学をめざす(あるいはめざさない)多くの障害者(あるいは障害のない)
方々に、気軽に利用していただくことで、「障害者の文学」についてみんなで自由に
批評しあえるような、風通しのいい雰囲気がかもし出されれば、これにまさる喜びは
ありません。掲示板も設けておりますので、ご意見ご批判がおありの方は、遠慮なく
書きこんでください。私もできうるかぎり回答を心がけたいと思います。

 この日誌もとても毎日とはいかないでしょうが、「障害者の文学」にかぎらず政治
・経済・文化・芸能・スポーツなど黙っていられないことが出てきた都度、気軽なおしゃ
べりとして書きこんでゆきたいと思っております。それでは今日はこのへんで。


★今日の短歌

 すみませんありがとうの日暮らしにすこし疲れて野道までくる    虎彦

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  ◆    「障害者の文学」(明石書店)は、手元にも残部多数あります。       ◆ 
  ◆     3800円+送料200円で発送いたします。お申し込みは下記まで。    ◆ 
  ◆     〒843-0303 佐賀県藤津郡嬉野町大字吉田乙5244 中島虎彦    ◆
  ◆     電話・FAX ( 0954・43・9959 )  Eメール nakaji@po.saganet.ne.jp     ◆ 
  ◆                                                 ◆  
  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


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