アメリカの1年  
One Year of the Life in America

『アメリカにおける自律生活の実験とアテンテダント・サービス・プログラムに関する調査報告』

アメリカ合衆国カリフォルニア州バークレー

1985年11月〜1986年9月

清家 一雄: 重度四肢まひ者の就労問題研究会・代表編集者
Kazuo Seike
「アメリカの一年」[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][12]、
『脊損ニュース』1986年4月号〜1987年7月号、 全国脊髄損傷者連合会、1986-1987、
「アメリカの一年」[5]、 『脊損ニュース』1987年10月号、 pp.20-23、 全国脊髄損傷者連合会、1987


ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業

財団法人 広げよう愛の輪運動基金
財団法人 日本障害者リハビリテーション協会
『脊損ニュース』1986年04月号〜
全国脊損連合会


アメリカの1年
『アメリカにおける自律生活の実験とアテンテダント・サービス・プログラムに関する調査報告』
福岡県脊髄損傷者連合会 頚損部長
  清家一雄

第5回報告

 今回はベイエリア(サンフランシスコ湾周辺地域)で生活しているアメリカの障害を持つ人達(中編)を中心に報告します。  御意見・御感想をお待ちしています。


ベイエリアの人達・ケース報告(中編)


4、とくに印象に残った人の紹介

@タフなしかも普通の障害者像ーバークレー・スペシャル

デイビッド・ガラハー

[写真説明]1.デイビッド・ガラハー。
David Galagher。
CILバークレーのコンピューター・ルームの前で。
カリフォルニア州バークレー。1986年。



[写真説明]2.デイビッド・ガラハー。
デイビッドのアパートで。
彼のアパートの住人。
1986年4月、バークレー


 (続き)

 CIL(自立生活センター)バークレーが開いてくれた8月28日のCILの向かいのタイ料理レストランでの送別会にもデイビッドは来てくれて、

「とても良いパーティだった」

 と言ってくれた。

 翌8月29日の僕のアパートでのさよならパーティにも来てくれた。ジョー(僕達の友人)の運転でデイビッドのバンで。アテンダント(介助者)やその他の人達も一緒に。

 チキン、ビール、ペプシ、その他の簡単なパーティだったがいろいろな人が来てくれて狭いリビングがいっぱいになった。

 デイビッドから札入れを貰い、ジョーから「最初の1ドル」を貰った。

 デイビッドが、

「君がいないのをとても寂しく思う I miss you very much. 」

 と何度も言った。


[写真説明]3.デイビッド・ガラハー。
ジョー。
僕のアパートでのお別れパーティ。
1986年8月、オークランド・カリフォルニア



 頚髄損傷者の人達とはだいたいよく話が通じたが、その中でもデイビッドは、アメリカでできた僕の友達の一人だった。


 デイビッドとは他にもよく会って、いろいろなことについて話をした。デイビッドのアパートでのパーティにもよく呼ばれたし、僕がデイビッドを日本レストランに招待して寿司をご馳走したこともある。

 デイビッドは介助者費用としてはカリフォルニア州のアテンダント・サービス・プログラムである”在宅援助サービス(In-Home Supportive Service)”を利用していた。そして、IHSSから1カ月に220−230時間のアテンダント・サービスを認められていた。生活費についてはSSI(Supplemental Security Income、補完保障所得。社会保障法 [Sociall Security Act] 16章)を受給していた。

 彼は、

「SSIからの金は私の金だが、IHSSからの金はアテンダントに払うものであって私の金ではない」

 と言っていた。

「私とアテンダントとの関係は友好的ではあるが決して友人ではない。あまり友好的になり過ぎることは必ず面倒な事を引き起こす」

 と言っていた。

 また、ちょっとした無償の親切について、

「状況。頼み方次第だ」

 と言い、 個人主義について、

「アメリカの障害者だって朝と晩アテンダントが来てくれるのを待っているだけで、家から出ないで何もしない人がたくさんいる。しかし、家族との関係でも尊厳が問題になる。私の問題点は受傷以前からあまりにも独立心に富すぎていたことだが」

 とも言っていた。

「アパートを借りて、家族・両親と離れて一人で住め。親と一緒ではどうしようもない。人間の尊厳のために。

 私の場合、秘密に全てを準備して、設定してしまってから親に話した。

 女性は障害をもつ個人の内面の強さを好きだ」

 僕のスズキの電動車椅子を見て、

「良いデザインだが遅すぎる」

 と言った。

 その他、様々なことについて話をした。



フィル・シャーベスとジョー・シムズ

 ★アテンダント・サービス・プログラムを利用して有償アテンダントの介助サービスを得、生活しているが、一部分、経済力のあるタイプ 

 デイビッドは、特別な資産や収入はないが、米国のアテンダント・サービス・プログラムを利用して、家族やボランティアから介助を得ているのではなく、有償のアテンダントから、生きて行くために必要な介助を得て自律生活していた頚髄損傷者だ。

 この類型こそが日本と比較して現在の米国において生活している頚髄損傷者の内で最もユニークな存在であり、頚髄損傷者にとっての「もう一つの選択肢」とでもいうべき新しい可能性であるだろうと言うことについては前回既に述べた。

 アテンダント・サービス・プログラムを利用して有償アテンダントの介助サービスを得、生活していた頚髄損傷者の類型に入るが、一部分、経済力のあるタイプとしてシャーベスとジョーをここでついでに紹介する。

 彼らはパートタイムや臨時雇いではなくほぼフルタイムで正式雇傭されているタイプだ。アテンダント費用の公的援助は受けているであろうが、少なくともアテンダント費用を除いた生活費を自分で稼いでいる人だ。日本では高位頚髄損傷者が就業している例は、現在でも極めて少数だが、ベイエリアには仕事をしている高位頚髄損傷者がかなりいた。


フィル・シャーベス


[写真説明]4.シャーベス。CILバークレーで。 :1996年

 シャーベスは32歳の白人男性で、16歳の時、飛び込みでC−5頚髄損傷者となった。電動リクライニング車椅子を使用し、高位頚髄損傷者の中でも重度の方だが、CILの自立生活技能(Independent Living Skill)クラスの教師をしている。

 彼は、リモート・コントロールで収尿袋を空にする装置を使って、昼の間は長時間一人で行動する。アテンダントは朝と晩に来る。シャーベスはガール・フレンドと住んでいた。

 シャーベスとのセクシュアリティに関するミーティングで、彼は、

「相手のして欲しいことを聞く。

 デートに行くと確かに色々困難なこともある。食事のために電動車椅子にテーブルを付けている。ホテルとかでベッドに上がるのはアテンダントに頼む。

 最初は照れくさくて顔が赤くなったりして困惑するが、段々気楽にになる」

 と言った。


 シャーベスを始めとして、仕事に関して、CILが雇用の場を提供して、そこで障害者の能力を鍛え、キャリアを積んでいくという場にもなっていた。最初は、パートタイム・スタッフとして、ピア(仲間)・カウンセラー、IL技能のトレーナー、教師、スペシャリスト、などだ。それから、各部門のフルタイム・スタッフ、各部門の部長、所長とキャリアを積んでいく人もいる。そして、これらをステップにして、政府部門や他の組織に移っていく機会も多い。


ジョー・シムズ

 ジョーもベイエリアで仕事に就いている高位頚髄損傷者の一人だ。

 C−5の白人男性の頚髄損傷者で電動車椅子を使っていて、障害は重度だが、バークレーで高校の教師をしていた。CILバークレーの理事でもあった。

 ジョーと最初に話したのはCILのクリスマス・パーティだった。その後もCILで時々、話をした。

 ジョーは、

「人々の注意を得ることが必要だ」

 と言った。


A失敗例?

 カリフォルニア州にはIHSSというアテンダント費用に関する社会保障制度があるので、他の州からカリフォルニア州にやってきて生活している障害者も多い。

 本当に多くの人がやってきて、様々な生活をしている。すべての障害をもつ個人達が成功しているわけではない。

 こんな例もあった。

 ある若い女性障害者がアリゾナ州から来て、アパートを借り、介助者を雇い生活していたが、クリスマスの休暇で帰った時、未婚のまま男児を早産し、赤ちゃんは死に、彼女自身も重体となり、厳格なカソリック教徒である彼女の父親に、カリフォルニアに戻ることを禁じられた。

 しかし、本当に失敗と言えるだろうか。生きたいように生きたのではないだろうか。人間には危険に挑戦して失敗する自由があるとも言える。


B自立生活運動のリーダー

エドワード V. ロバーツ

 エド・ロバーツは、はアメリカの障害をもつ個人達の運動のリーダーとして日本でも有名だ。

 エドは、カリフォルニア大学バークレー分校卒業した後、バークレーに最初の自立生活センターを設立し、初代所長となった。その後、カリフォルニア州のリハビリテーション局局長となった。現在は、民間のリサーチセンターである世界障害者問題研究所の代表をしている。

 エドの障害はポリオで脊髄損傷ではないが、原因は別でも四肢マヒ障害という視点からは共通の問題を含んでいるし、何より彼はアメリカで最初に設立された自立生活センターの初代所長であり、彼の生活(史)と意識を知ることはアメリカの重度身体障害者の自立生活運動を考える場合の最適の素材の一つになるだろう。




[写真説明]5.エド・ロバーツ。
Edward V. Roberts。
CILのクリスマス・パーティで。
呼吸補助装置を使っている。
中央は所長のマイケル。
1986年4月、バークレー。



 最初にエドと直接に会い、話をしたのは1985年12月9日のCILバークレーでのクリスマス・パーティだった。電動車椅子に乗って呼吸補助装置を使わなければならないほどの四肢麻痺の重度身体障害者だか、快活で力強く、よく話をし、自信に溢れていて、頼りになりそうなタフな障害者だ、という印象だった。エドは既に日本でも有名だったし、僕もエドの書いたものやエドについて書かれていたものを読んでいたが、実際に会ったときの印象は鮮烈だった。

 エドとはよく電話でも話しをしていた。エドの書いた本・文章を貰って読んだりもした。また,エドが代表をしているWID(World Institute on Disability、世界障害問題研究所)に行き、WIDが出版したペーパーの文献研究をすることと、そこのスタッフとミーティングすることは、僕の留学研修活動のひとつだった。

 エドの家にも二回訪ねて行って話をした。

 最初にエドの家に行ったのは1986年4月27日、良く晴れた日曜日だった。マッカーサー駅からコンコルド行きのバート(地下鉄)に乗りロックリッジで降りた。

 前もって地図で調べておいた北の方へ3ブロック行って、シャーボットの通りで6031のエドの家を探していたら、人の良さそうなおじさんが一人やって来て、

「エドの家を探しているんじゃないのか」

 と言って、エドの家まで案内してくれた。

 エドの家は声をかけられたところのすぐそば、二つ隣の家だった。案内してくれたのはエドのアテンダントのアレンだった。

 ロックリッジは環境の良い街でエドの家もとても感じが良かった。エドのアテンダントのアレンも感じが良かった。

 家の出入口にはスロープがあった。エドの部屋は一階の玄関のそばにあった。

 エドは彼の母親と同居していた。彼の従兄弟も一緒に住んでいた。

 エドは鉄の肺に入っていた。

「夜眠るときも入っている」

 と彼は言った。

 他にスピーカホンやリモコン付きのテレビを彼は使っていた。エドの使っているリモート・コントロール・スイッチ・システムについて、僕が、

「いくらですか」

 と聞くと、

「1万ドルだ」

 との答えだった。

 エドがコーヒーや紅茶を進めてくれた。

「あなたの話をメモしていいですか」

 と聞くと、

「OK」

 と言われた。僕は持ってきたエドの書いたペーパーのファイルを見せ、

「これは全部あなたの書いたものです。あなたは日本ではスーパーマンとして知られています」

 と説明した。エドは、

「そんなことはない」

 と言ったが。






[写真説明]6.エド・ロバーツ。
Edward V. Roberts。
彼の部屋で鉄の肺に入っている。 カリフォルニア州バークレー。1996年8月。





エド。彼の家の前で。


 二度目にエドの家を訪れたのは1986年8月16日だった。エドとミーティングの時、エドの息子とも会った。


 2回のミーティングでエドはいろいろなことを話してくれた。


生い立ち

 エドは1939年に生まれた。当時、47歳だった。(男性。)

「14歳のときにポリオになった。左手の指と左足の指が少しだけコントロールできる。

 1962年、家を出て自分自身の生活を始めた。困難なことだった。しかし、自分の生活の世話をしろ」

 と言う。


意識・態度

「14歳でポリオになり、悲しかった。それまではあらゆる種類のスポーツをしていた。非常に落ち込んで、奇跡を望んだ。ハンガーストライキで自殺を試みた。私はポリオにかかった自分自身を好きでなかった。

 医師達は、私が嚼A物状態になる宦Aと言った。私は私のことを、冗談で、”朝鮮アザミ”と呼ぶことがある。日本人は笑わなかったが。礼儀正し過ぎて。

 医師達は、我々に、偏見、無視、恐れを抱き、対等ではない人間として我々を扱う。専門家カウンセラーは我々に向かって、嘯れもできない、これもできない宸ニ言うばかり。ピア(仲間)・カウンセリングでは自分達に何をできるかを教えることができる。日本で性の問題について講演した時、専門家ばかりで障害者がいなかった。

 我々は全くの人間であり半人前ではない。そして我々は他の如何なる人々とも同じニーズを持っている。我々は皆人間である。

 もしあなたがあなた自身を好きになれないのなら、他の人々はあなたを好きにならない。障害を持つ人々が彼らの障害を好きであるかそうでないかは別のことであり、彼らは彼らの障害と一緒にうまく生活する方法を学ばなければならない」

 と言われた。

 また、エドは「隔離」と「統合」や障害を持つ子供にとっての教育の重要性について良く話した。


家族

「結婚し離婚した。前の妻は作業療法士だった。病院からCILに連れてきた。なぜなら私は病院が嫌いだからだ。

 子供も作った。実子だ。男の子がいる。私は感覚は全部あるし、膀胱コントロールも排便コントロールもできる。血のつながった子供も作れる。結婚して子供を持つことは自信につながる。

 妻は田舎が好きだが、私は街が好きだ。その他にも理由はあるが離婚した。しかし現在の生活には満足している。ガールフレンドもたくさんいる。女性には優しくしろ。

 今は母と従兄弟と一緒に住んでいる。息子は私と前の妻と半々に暮らしている。今は前の妻のところにいる。6月から3カ月間一緒に暮らす」

 と言う。


介助者

 エドは14歳で発病してから生存期間ずっと介助が必要だ。現在、介助はアテンダント(有料介助者)から受けている。

 彼は、

「介助者を時給6ドルで雇い、秘書的な仕事には、1時間7ドル、月に2,400ドル支出している」

 と言っていた。介助費用は、本人の収入が多いので、自己負担だ。従って、エドの介助量は、1カ月340ー400時間、1日11ー13時間、くらいだろう。


人間の人間に対する援助の根拠

 僕はアメリカで、よく、介助者費用の公的援助の根拠について、

「人間の人間に対する援助の根拠は何だと思いますか」

 とたずねていた。

 エドは既に、彼のペーパーの中で、「すべての人々は嚮サ在のところ健常宸ニして概念化する」べきで、「障害を持った時にどのように生活するかという問題は、『我々』とか『彼らは』の問題ではなくて、社会の構成員として我々全てのための問題である。」

(ロバーツ;"Indepedendent Living: A Founder's Perspective" p.2)と書いていた。

 そして彼は、彼の家でのミーティングで、

「ポリオ、頚髄損傷、脳性麻痺のような障害を持つ事は偶然だ」

 とも言った。

 また、

「すべての人は、もし彼らが障害者になれば、彼らが良い医療と良いリハビリテーションと地域社会の中に於て自立生活を送る権利を得るべきである、と信ずる権利を有する。社会的なニーズは、ただ政府だけが果たすことができる」

 と言った。

 そしてアテンダント・サービス・プログラムに関して、「ポリオがアテンダント・ケアを後押しした。

 機会の平等ということ。アテンダント・ケアがあれば、我々は仕事に就くことができる。」

 と言った。


 次回はベイエリアで生活しているアメリカの障害を持つ人達(後編)と火事や入院などの緊急事態を中心に報告する予定です。



写真説明



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