この、日常生活動作ができない重度障害者の介助について、誰が負担を引き受けるのか、という問題について、
直接の介助者としては、
@家族、A施設、B病院、Cボランティア、Dホームヘルパー、E有料介助者などが考えられ、
最終的な費用負担者としては、
@障害者本人、A家族、B保険、C贈与者、D納税者、などが考えられますが、アメリカの介助サービス制度は、原型としては、直接の介助者としては有料介助者、費用負担者としては納税者の組合せから構成されているといえるでしょう。
僕はこのアメリカの在宅介助サービス制度ないしはそれを支える考え方が日本の頚髄損傷者の自律生活にも必要だと思い、アメリカに留学に行ったわけです。
3.ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣
この事業は、(財)日本障害者リハビリテーション協会、(財)広げよう愛の輪運動基金、主催、(株)ダスキン、ミスタードーナツ、協賛によるもので、竹内嘉巳実行委員長によると、
「障害者の福祉を共に高める」
ことを理念とするものです。また、愛の輪事務局長だった金山さんの話では、スポンサーの愛の輪基金は、ダスキンの「祈りの経営」に基づいて、
「障害者にチャンスを与える」
事と
「ミスター・ドーナツが10年やってきた事への恩返し」
ということで、この事業を始めたそうです。皆様がこのプログラムでアメリカへ勉強に行かれると良いな、と思っています。連絡先は、リハ協で、電話、03−204−0960です。
三.準備、出発、到着
1.準備段階
アメリカ留学が決まってからも、家族や友人がいないアメリカで、しかも日本語が通じない国で、生活しながら僕の目的意識にそった留学の成果を上げることができるかどうか、そして具体的には、健康、排泄管理、褥瘡対策、介助、英会話など不安はたくさんありました。何より介助者費用が余分にかかるので、ハッキリしたプランが立てられず、留学費用の一部である介助者費用を決定するために、アメリカでの介助時間などにつき、生きて行くために必要最小限の介助と快適な生活のための介助との線引きで悩みました。
また、僕のような重度の者が行くのは初めての事らしく、派遣者のリハ協の方でも
「これだけ重度の人を送り出すの初めてです。駄目だと思ったらそのまま飛行機に乗って帰っておいで」
というように心配していましたし、僕自身も自分でもよくやるなあとあきれていました。
しかし、失敗の危険に挑戦することにこそ人間の尊厳があるのかもしれません。
とにかく、不安が大きい分、できるだけの準備をして行こうと思い、僕も事前研修レポートなどを書きながら勉強もしましたが、たくさんの人達に協力して貰いました。
自立生活センターバークレーなどの受け入れ先との事務手続きは、日本障害者リハビリテーション協会障害者リーダー米国留学研修派遣事業事務局の井窪さん、中島さん、飯村さんに、現地でのアパート探しなどは、自立生活センターバークレー所長夫人のアツコさんに、パスポートやビザ、航空券の取得は日本交通公社の草薙グループにお世話になりました。
英文の健康診断書が必要でしたが、総合せき損センターの岩坪暎二泌尿器科部長に書いていただきました。これはアメリカで非常に役に立ちました。また、センターの赤津隆院長からは助言を、溝口博溝口外科整形外科病院院長からは薬などでお世話になりました。北島俊裕先生にはクレジットカードの必要性を教えてもらい、父の家族会員ということで、アメリカンエクスプレスを用意しました。
英会話のヒアリングについてはリンガフォンを友達に借りて勉強しました。また、アメリカではアメリカ人の介助者ですので、英文の介助マニュアルを準備しましたが、これには、総合せき損センターの松尾清美さん、医用工学のスタッフ、九州リハビリテーション大学のアイリーン山口先生、山口ともね先生、東京神経科学総合研究所の松井和子先生、グリーンライフ研究会の向坊弘道さんに協力していただきました。
電動車椅子、自助具等の準備では、電動車椅子の整備、アメリカ用の充電器では九州スズキの財部さんに、ワープロの機能キーは井手さんに、カメラは、カメラの台にベルトを付け、そこに手の甲を差入れて固定し、シャッターは口でかんで押すというように藤家さんに、電動リクライニング車椅子のテーブルは山根さんに、飯塚の脊損センターの医用工学研究室で、食事道具などは有園制作所で、サックはヘルパーさん達に、その他、たくさんの人達の協力を得ました。
8月には、アメリカ人と顔つなぎを東京のサンシャインプリンスホテルで行い、バークレーやセントルイスの自立生活センターの所長のマイクルやマックスに会い、USA情報を聞きました。9月には、福脊連の壮行会がありました。また、この頃、たくさんの人に、お餞別を頂きました。ありがとうございました。
2.日本出発
これからは日記風に書いてみます。
いよいよ11月14日に福岡を出発した。前の晩、弟の秀幸が夜の介助の後、素朴に祝福してくれた。
この最期の日の朝までヘルパーさんに来てもらった。紺のJプレスのスーツにレジメンタルタイ、ワイシャツは白を着た。ヘルパーさんと握手して別れた。祖母との長い別れ。
父のクラウンで福岡空港へ行った。電動車椅子、手動車椅子、書字道具や食事道具などを入れたスーツケース2個、手提げ鞄二つ、クッション3個という荷物だった。荷物は赤帽で運んだ。
福岡空港には福脊連やミスタードーナツの人達も見送りにきてくれた。
サンフランシスコまで弟の幸治が付いてきてくれることになった。渡航中、褥瘡、トイレ、電話連絡、荷物の管理など様々な困難が予想されたからだ。リハ協の井窪さんの計らいだった。
成田空港のエアポートレストハウスというホテルで1泊した。ホテルへの移動は日産キャラバンを使った。
その夜レストハウスに高校の友達が二人訪ねてくれた。
僕は、
「冗談が冗談の風に乗り、冗談の波の上で、サーフィンをやっている気がする。戦争で負けた国から電動車椅子で来てトイレの世話まで頼むのだから」
と言った。
ドン・キ・ホーテ。しかし見れる夢があるのは幸せなことかも知れない。狂気の夢でも夢から醒めさせられると人は頭にくる。それに重度身体障害者にとって夢と狂気と現実の区別をつけることは難しい。体が麻痺してしまったことだけは確かだが。とにかくアメリカン・ドリームを掴むことができるかどうか。スポンサーがついて大義名分があるからアメリカに長期間行けるが、その分受験勉強ができないしできなかった。これは賭だ。
15日に出国した。成田空港では、井窪さん、飯村さん、金山さん、草薙さんが見送りにきてくれ、リハ協から研修報告用紙と留学研修費用約4,000ドルを貰った。広い空港を二周ぐらいした。物凄い警備だった。
日本航空に、
「長い時間座りっぱなしでは尻が危ないので隣の席を空けて下さい」
と頼んだ。
席はエグゼグティブだった。隣は幸治と空席。幸治の協力で、横になったり、リクライニングを倒したり上半身の体重を背中や横に逃がした。 映画は『目撃者』、食事は洋食だった。シャンパン、ワインを飲んで寝た。
日付変更線を越えた。
3.アメリカ到着
サンフランシスコ空港に着いた。
サンフランシスコ空港で少し待ったりしていて10時間以上飛行機に乗っていた。空港の中は凄く慌ただしい。サンフランシスコ経由でヒューストンに行く人を見て思わず声を掛けたくなった。ヒューストンでは高校の友達が働いている。
入国手続きで弟と間違われた。ポーターに5ドルのチップ。
アツコさん、介助者のハワード、運転手のデニスが迎えにきてくれていた。
サンフランシスコは晴れていた。アパートまで自立生活センターのバンで40分ぐらいかかった。バンにはリフトが付いていて電動車椅子のまま乗れる。
アパートはオークランド市にあった。用意されていたものは、ベッド、オーバーヘッドバー、シーツと毛布、それに電話。やかんもコップもない。
ルームメイトのジャネットに会った。彼女も電動車椅子を使っていた。
ベッドに上がった。尻は破れてない。感謝。
ハワードとは今日は面接のみ。マクドナルドでビッグマックとコーヒーを買ってきて貰い食べた。アメリカのコインの学習。
とにかく寝た。
みんなが僕を暖かく迎え入れてくれた。異国の地で人の暖かさに触れた。
以下次号に続く。