◎植芝道場入門の日            多田 宏
植芝盛平先生 旧植芝道場入口にて
 私が植芝盛平先生のお名前を知ったのは、小学校三、四年生の頃であった。夕食の席で父が、親しかった矢野一郎氏(元第一生命社長)から聞いた話をしたのである。矢野氏は剣道の高段者で、全日本実業団剣道連盟の会長も、されていた方であるが、
 「合気術の植芝先生は、当代一の武道の達人だ。武道家として格が桁違いに違う」 といわれ、植芝先生に稽古を受けた模様を話されたという。
 もともと私の家には、日置流竹林派蕃派という、弓の流儀が伝わっていて、父は幼少の頃から曾祖父について、相当に稽古していた。それで矢野さんとの間でも、武道の話がよく出たらしく、この合気術というものについても、大層興味をもったのだった。
 私も出来たら、そんな名人に会って、習ってみたいものだと、子供心に思いもしたが、然しそれは父の応召、そして戦争、母の死と次々に多くの事が起こり果たされなかった。
 昭和二十五年、終戦から五年経ってはいたが、まだ東京の至る所に戦いの傷跡が、焼け爛れたそのままの姿を残していた。当時の日本人の多くがそうであったように、時代の波に翻弄されながらも、もう多少のことでは驚かないぞ、という捨て鉢の糞度胸とも言える、奇妙な無常感を持ちながら、一方では何か大事な精神の心棒が、一つ足りない様な気持ちが時々出るのを感じて、それを打ち消すように、私は毎日を空手の稽古に打ち込んでいた。そのような時、かって父から聞いた植芝先生と、合気の話を思い出し、是非どのようなものか、詳しく知りたいと探してもいた。
 ある日どういうわけか稽古の後で、植芝先生と合気の事が話題に出て、しかも当時の、早大空手部の主将であった武田氏の、知り合いの方によると、植芝道場は牛込若松町にある、ということだった。そこは早稲田のすぐ近くであった。不世出の達人といわれる植芝盛平先生に、漠然とではあるが、憧れた気持ちを抱いていた私は、勇躍して植芝道場を訪れた。三月四日の事だった。
 幸い戦災を免れた植芝家の石の門を入ると、左手に道場があり、正面に格子ガラスの広い玄関があった。道場には人影がなく、玄関で案内をこうと、若いご婦人が出てこられた。現合気道道主植芝吉祥丸先生のさく子夫人である。私は入門を許可願いたいこと、そして詳しくは覚えていないのだが、色々な質問をしたように思う。
その不躾な私の問いに対する夫人の答えは、今でもはっきり覚えている。
 「合気がどのようなものかは、父をご覧になれば、おわかりになります」
 そして今は旅行中だが、二三日中には、帰京されるということであった。
 「間もなく稽古をする人が来ると思いますから」と、道場に通された。  道場は六十畳の広さに、琉球表を刺し、所々すり切れた畳が、四十枚程敷かれ、残りは黒光りする板の間である。天井は太い格子が組まれ、正面には高さ一尺、巾三間、奥行一間の上座があり、床には竜の顔を画いた、大きな掛け軸がかけてある。上座の横に木刀掛けがあり、杖、木銃も数本混ざって見える。右手の壁には、門人の名札が並び中央に大時計があって、その下が稽古人の出入口となっていた。
 少しの間待つと、紺の剣道着に袴の、丈のある屈強な青年と、黒帯を締めた小柄な年配の人が稽古を始めた。青年は剣道五段で、早大剣道部の主将であった菊池登喜雄さん(現在大竹、釜石在)、もう一人は、前日入門した菊池幡さんであった。
この時行われた、片手取り転換の呼吸をみて、私はそれまでに知る武道とは、非常に異なるものであると思った。それは、相手の力を自分の力の流れに同化する、合理的な動きもさることながら、体を換えて相手と一体になることに、発想の違いを感じたのだった。
 植芝盛平先生が帰京されたのは、それから四日ほど経ってからであった。  当時、若先生(現植芝吉祥丸道主)による正規の稽古時間は、朝夕六時半から一時間だった。まだ人数は少なかったが、皆稽古熱心な人で、時間の許す限り稽古を続けた。
演武会 旧植芝道場にて
 その日の朝も、十時過ぎまで稽古を受け、終わって抜弁天の大通りに出ると、走り去ったばかりの都電から降りたと思われる、和服と学生服の二人連れの人が見える。菊池登喜雄さんが、 「大先生がお帰りになった。多田君来たまえ」と言うなり走り出した。菊池さんはお迎えのご挨拶を済ますと、私を先生に紹介してくれた。「先生、今度入門した多田さんです」
 礼をして頭を上げた私の顔を、先生はじっと見られ、そして帽子をとられると、 「植芝でございます」 と、学生服姿の私に、驚くほど丁寧なお辞儀をされた。その時私は、かねて噂に聞いた大名人といわれる先生を前にして、まだ、はっきりとは何かわからないが、長い間心の奥底で求め、望んでいたと思われることが、目の前に現われたような、不思議な感動をおぼえた。
 先生の背丈は私の胸の上ほどである。彫りの深いお顔で、頬骨が高く鼻が大きい。大きく澄んだ目の玉の色は、少しかわった色のように思える。長く白いあごひげが、胸の衿の前まで垂れている。我々は先生がお供の、早大理工学部の神薗さんを連れて、大通りから小道へ曲がられるまで、お見送りした。
 次の日、朝の植芝盛平先生の稽古は、敬虔な神への祈りに始まった。先生のお教えを受けた者で、あの朗々と道場一杯に響き渡る、祝詞奏上の声を思い出さない者はいないであろう。この時の先生の後ろ姿を目にする時、先生の神技は、神との交流から生まれたものであることが、ありありと実感されるのであった。
   先生は、稽古着の長い袖口をまくりながら中央にこられ、並んでいる門人の一人に、すっと手を差し伸べられた。その人が磁力に引かれるかのように、立ち上がって進み出て、先生の腕を両手で握ると見えた時、もう投げられている。先生は次々と投げて、私にも手を差し伸べられた。立ち上がって進み、皆が行ったのと同じように、両手で力一杯先生の腕を握ったと思った時、もう私は転んでいた。この間、先生はずっと無言であった。先生の稽古は、何時もこのように始まった。入門当初、私が不思議に思ったのは、先輩の門人が、数多くある稽古法のなかで、今何をするのか、先生が黙って居られるのに、分かることだった。然し時がたつにつれて、先生が今何を稽古され様としているのか、口で言われなければ、分からないようでは、弟子のうちには入らない、ということに気が付いたのであった。
 先生の稽古は、一種独特の雰囲気を、道場にかもし出す。それはあたかも道場全体が、先生の呼吸と共に、息を始めるかのようであった。
 はじめてお教えを受けた時、私は”植芝先生は、随分進んだ先生だ”と感じた。おかしく又先生に対し不謹慎な表現かもしれない、だがそれは次のようなことである。  当時、早大の仲間の間で出た植芝先生の噂では、現代の武道とは全く異なる、古流柔術の実戦的な技を使い、而も不思議な能力を持つ武術家で、近代感覚では捉えられない、古い日本の時代の大名人が、今の世に現われた様な人だ、というような話であった。
 ところが実際に会った植芝先生は、今まで会ったどの武道家やスポ〜ツマンよりも、合理的で、ある意味において、ずっと近代的であった。先生の動きの安定した律動が、緻密で勇壮なことも、印象に強かったが、何よりも、実戦に使えば、一瞬にして相手を倒せる動きのなかにも、精神的に道場に居る人全てを包む、暖かい雰囲気があったことである。人間が今にもっと進歩したならば、この先生のようになるのでは、と感じたのかもしれなかった。
 ・・・・・・・・  それから四十年以上経った今日、合気道は世界各国に広まり年々盛んとなっている。  私自身、二十数年前、東京オリンピックの年から、ヨーロッパに数年間滞在し普及と稽古を行い、それ以後毎年渡航し稽古を行っているが、外から日本を眺めると、日本の伝統文化を具体的に、表す力を持つこの合気道の道を示された、植芝盛平先生のお教えが、よりよく分かるのである。
 合気道は、現代広く行われている競技武道では、なかなか研究し難い実践東洋哲学としての、気心体の修行法と、武技としての技術の科学的稽古を、一体不可分として行うことが出来る、貴重な存在である。そしてこの事こそ、二十一世紀に向かって、世界でますます盛んになるであろう、人間研究の一翼を、合気道が担う要因である。我々はこの事によく注意を向け、より一層、稽古に励まなければならないと思っている。
 (本部師範、イタリア財団法人日本伝統文化の会=イタリア合気会創立者・主任教授)
合気道探求第4号(平成4年7月10日発行)掲載

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