◎開祖を語る    本部師範  多田 宏
鋭く、暖かい霊的達人
 私が植芝道場に入門したのは昭和二十五年三月四日である。その日の感激については、「合気道探求第四号」に書いてある。初めて植芝盛平先生にお目に掛かったとき、最も印象に強かったのは、学生である私に、帽子を取られ「植芝でございます」とご挨拶された、あのお姿とお声で、それは今も私の脳裏深くに残っている。
 当時植芝道場の朝夕の稽古は多くても六、七人で、大半は早稲田と一橋の学生か、西会と天風会の会員だった。先生は一人一人を丁寧に投げて、全員に稽古を付けられた。我々門人がその業を互いに稽古を始めてしばらくすると、先生が言われた
「申し上げます」 私は思わず、誰か偉い人が来られたのかと、辺りを見回した。しかし道場にいるのは、私より一日前に入門したパン屋の菊池幡さんと、我々学生だけだ。先生はいつもこのように丁寧な話し方で稽古をされた。
 先生の門下には宮様や陸海軍の大将など、日本を代表する人々が多かった事にもよるのであろう。しかしそれだけではない、言葉は力である。この丁寧さと、隅々まで行き届いた心遣いが気品を生み、それがそのまま武道の技に結びついていたのである。
 先生の稽古は、不思議な雰囲気につつまれていた。鋭く一瞬で相手を制する動きでありながら、道場をおおう暖かい感じは、どの様にして生まれるのか。当時は学生で未熟な私等をも、明らかに同化される、その感化力は大変なものであった。
ある時期、私は不思議なことに気がついた。先生に近寄ったとたん、自分の心と体が何か透明な感じになる。そして先生に触れると、それはよりはっきりして、まるで自分と先生の心と体の境の区別が、無くなったような感じとなるのである。それは先生の修行で得られた、対峙を超えた心から生じる大きな気の力が、我々を包み込んだのであろう。その力は綾部で、先生が心から尊敬された出口王仁三郎聖師から直接、以心伝心で受けられ、更に先生御自身の必死の修行でなられたのだろうと思う。先生がご自分の師匠である、武田惣角先生と出口王仁三郎聖師について語られる時、実に尊敬にあふれたお話振りであった。特に出口聖師については聖師様と二重の敬語で話されて居られた。
 先生には何度もえらく怒られたことがあるが、又身に余るお褒めの言葉を頂いたこともある。よく叱られたことの一つに
「作ってはいけない」ということがある。「作る」とは、まだ本当は崩れていないはずなのに、受けが勝手に体を崩れた形にしたり、手を離したり、動いたりすることである。
なぜ「作るな」と言われるようになるのか?業になれた為、ぼんやり行っているか、意識的に頭で業を追っている為で、白紙のような気持ちで、素直に行っていないからである。つまり「作るな!」と言われることは「スキがある!」と怒られたのと同じである。
 ある日私は一人で道場で稽古をしていた。入ってこられた先生が私のそばで、ぽっりとおっしゃった。
「多田君、君なんか専門家になったらいいのに。体も君ぐらいが一番合気に適して居るんだが」今、先生からこのお言葉を頂いたら、どんなに感激することだろうか。しかし当時、大学を出たら父や伯父達のように、大会社に入って悠々と暮らすのが普通と思っていた私は、何か遠い世界の話のように、ぼんやりと聞いていたのだった。後から思えばそのどれもが、先生の弟子を思う温かい心から発せられた、励ましの言葉であることに、気がつくのだった。
 先生に最後にお目にかかったのは、合気道普及のためヨーロッパに出発する前日の、昭和三十九年十月二十三日であった。
先生は
 「おおそうか、えらい急やな、体に気をつけて、しっかりやってきなさい」と励まして下さった。
 昭和四十四年先生が亡くなられた時、私はまだヨーロッパにいた。知らせを受けたローマの道場は、一瞬言いようのない静けさに包まれた。イタリア人には、人の心を思いやる優しいところがある。道場の先生の写真は、直ぐ喪が付けられ花で埋まった。その前で私と会員達は、何時までも黙って座っていた。
 合気道新聞 平成10年3月号 投稿

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