「武道的身体」
語り手:多田 宏(ただ・ひろし)昭和4年東京に生まれる。昭和27年早稲田大学法学部卒業。合気道九段、(財)合気会本部道場、月窓寺道場師範、イタリア政府公認財団法人日本伝統文化の会=イタリア合気会創立者。早稲田大学合気道会、東京大学合気道気錬会師範、合気道多田塾を主宰。

聞き手:内田樹(神戸女学院合気道会顧問・合気道五段) (1994年3月29日・合気道多田塾月窓寺道場にて)

―お忙しいところをありがとうございます。今日は先生の修行経験について詳しくお聞きしたいと思って伺いました。これまで折りに触れ断片的にはお聞きしていたのですが、この機会に先生のお話をまとまって伺っておけば、合気道関係者だけでなく、武道関係者にとっても貴重な資料になるだろうと思います。  今日、先生に伺っておきたいことは、いくつかあるのですが、一つは先生の武道の修行の歴史ということをお話し頂きたいことと、今一つは、先生の場合、植芝盛平(うえしば・もりへい)、中村天風(なかむら・てんぷう)という希代の超常的な身体・精神の能力を持った方たちに出会うという貴重な経験をされているわけで、その経験についてもぜひお話を伺いたいと思っています。

多田:植芝道場に入門した時のことを書いたはものは、読みましたか?(注:『合気道探求』に掲載、のち改訂して私家版として配布)

―ええ、読みました。

多田:他に、イタリア合気会では、色々な事を書いたものがあるのですが・・。それから大分前に後藤喜一君(元早稲田大学合気道会主将)が書いたのがありますが。(注:「師範の横顔」(38)『合気道新聞』第208号、昭和53年5月)

―ええ、読みました。今日は、そういう資料には書いていないことからお聞きしてゆきたいと思います。先生の武道修行はそもそもどういうところから始まったのかからお聞きしたいのですが。

多田:子供の頃は弓を行っていました。うちには家伝の日置流竹林派蕃派(へきりゅう、ちくりんは、ばんぱ)という弓の流儀があり、曾祖父(多田興善・おきよし)から父(多田登・みのる)に伝わっていました。それを自由が丘の家の庭で、巻き藁相手に習いました。

―先生、お生まれは東京なんですか?

多田:そうです。私は本郷の東京帝大の病院で生まれました。三歳まで本郷西片町に住んでいました。父が学生時代に住み、好きな所だったのです。父は旧制の三高から東大の独法出身でした。

―対馬におられたのはどの代までなのですか?

多田:祖父(多田常太郎・つねたろう)は対馬の厳原の屋敷で生まれました。その後、島を離れ、裁判官となりました。裁判官は3年毎に各地を異動しましたが、私の父は紀伊田辺で生まれたのです。植芝盛平先生がお生まれになった田辺です。その後祖父が京都に転勤になると、武徳会があるし、知り合いが大勢居るため、曾祖父は京都が大層気に入ったようです。その為、親孝行だった祖父は3年毎に昇進する移動を4回断って、曾祖父が亡くなるまで京都にいました。

―曾祖父というのは弓の方なんですか?

多田:もともとは対馬藩の侍です。1245年に藩主宗氏の祖が対馬に討ち入った時、附き従って以来、厳原に住み、五五〇石を頂き家老でした。ところが幕末に、対馬藩で甲子の変という、勤王佐幕が絡んだお家騒動、という大変な事件があった。その事件では大勢亡くなったのですが、曾祖父の父多田外衛(とのえ)と十一歳の弟多田作次郎も死にました。曾祖父は、多田家の血が絶えるのを防ぐ為、気丈な姉マス(満壽)が伝馬船で連れて逃げたのです。真冬の玄界灘を、家の領地の腕利きの漁師に金子を与え、伝馬船で本土へ渡った。そして長州の野村望東尼のもとに身を寄せたのです。マス(満壽)は、そこで高杉晋作やその他の勤王の志士と、親交があったという事です。
 曾祖父は弓と馬と鉄砲と剣術もみんな名人だった。近衛騎兵の将校になったのですが、身体をこわして辞めて、祖父が成人したときには、弓の師範をしており、旧制三高の弓道部の師範もしていました。
 曾祖父は祖父には弓を伝えませんでした。稽古はしたのですが、祖父は、不必要な力を抜く、という事が、余り得意でなかったようです。、その様子を見て、曾祖父は祖父に、弓を稽古さすことを、あっさり止めさせたんです。昔の侍はそういうところがあったのでしょう。私の父は筋がよく、曾祖父も大層期待して、良く仕込んだようです。武徳会にも、何時も連れて行き、小学校の時から、京都一中、三高を卒業するまで、一日も稽古を休んだことは無かったといいます。
私は、弓はそれほどはやりませんでした。また、戦争で父は応召するし、出来ませんでした。
 大学に入ってからは、始めは空手を稽古しました。。

―何流をされてたんですか?

多田:松涛館です。

―え、松涛館だったんですか。じゃあ、江上茂先生なんかは・・・

多田:江上茂さんは早稲田の先輩です。松涛館といっても今の松涛館とは、少し違うのでは無いかと思います。松涛というのは、船越義珍先生の号で、先生はご自分の空手に何流とはつけられなかったが、弟子が松涛館流と呼んでいた。その後、傘下の大学の卒業生が中心となって、日本空手協会をつくりました。

―じゃあ、船越義珍先生にも・・・

多田:何度かお会いし、ご指導を賜っております。また先生が早稲田の稽古においでになると、そのお帰りには、誰かが、大隈講堂の裏の都電の駅まで、お送りするのですが、その役を私が致したこともあります。電車にお乗りになる前に、戦災後で、まだほったて小屋だった小さな太鼓焼き屋で、二つお召し上がりになり、それから電車に乗られると、直ぐに振り向かれて、「どうも有り難う、もういいですよ、お帰りなさい」と帽子を取られて、丁寧にお辞儀をされながら、言われるのでした。
 その後、植芝道場に入門して、植芝盛平先生に師事する事になりました。私は子供の頃から植芝先生のことは、よく父や親類のものから聞き知っていました。入門した時のことは先程言いましたように、この間書いた通りです。 植芝道場は随分探したのですが分からなかった。そうしたら武田さんという当時の早稲田の空手部の主将の知り合いに、国越さんという、植芝先生の本の挿し絵を書かれた方が居られ、植芝先生の家をよく知っていて、その方から若松町102番地というのを教えて頂いたのです。

―どこに道場があるかということさえ分からなかったのですか?

多田:ええ、全く分からない。誰に聞いても分からなかった。東京中焼野原でしたしね。

―植芝盛平先生は岩間にお住まいだったのですか?

多田:岩間にお住まいでしたが 、 東京に出てこられては関西へ、また東京に戻られては岩間、というふうに、活発に旅行されて居られました。

―先生が入門されたのは。

多田:昭和25年の3月4日です。

―その頃には植芝先生については、どのようなことを聞かれていたんですか?

多田:私が小学生の頃、父が第一生命の社長だった矢野一郎さんからお聞きした話のことは、合気道探求に書きました。それと満州に荒井静雄、山崎元幹という二人の伯父が居りまして、昭和17年の夏に新京(長春)の山崎の家に行っていたんです。その時はちょうど満州建国10周年で、大きな演武大会が新京の神武殿でありました。私は、わずかの時間の差で見損なってしまいましたが。

―それは有名な天竜さんとやったときの演武大会ですね。錚々たるメンバーだったんですよね。中山博道とか・・

多田:そうそう。弓の関係では、本多流の宗家が来られてた。父がよく知っており、私も新京でその宗家と一緒に忠霊塔の前で、写真を撮ったりしました。その写真は今でも持って居ります。
 新京の荒井の家に一つ年上の中学2年の従兄がいて、それが演武大会を見に行き、植芝先生の演武がもの凄かったという話を聞かされました。それで、やりたいと思ったのですが、母が亡くなったり、戦争が激しくなり出来ませんでした。その従兄にもらった、演武会のプログラムは後まで持っていましたが・・。
 とにかく、若松町の植芝道場は隣まで焼け、私が入門した頃は、まだ戦災者が道場に住んでいました。道場の中に仕切がしてあって。60畳のうち20畳に一家族が住んでる。残りの40畳も半分くらい板の間、残りに20枚ほど破れた畳が敷いてある。

―その頃の稽古はどういうふうになさっていたんですか?たしか植芝吉祥丸道主はお勤めになっていたんですね。

多田:そう、当時は若先生と呼ばれてましたが朝、勤めに出られる前に稽古され、また夕方6時半から稽古される。私らは朝6時半から1時間の稽古をして、その後いつも10時過ぎまでやっていました。

―どういう方がいらしてたんですか?

多田:全部で五、六人しか居ませんでしたが、だいたい、早稲田の学生か、西会の人たちでした。西医学の会員の人達です。

―ええ、西勝造、西式健康法。

多田:その関係の人達です。西先生の紹介で入った人達です。紹介された者以外はいないんですから。植芝道場は宣伝というものは一切しないから。今でもしませんけれど。  そこに海軍兵学校で終戦を迎えて、一橋大学に行っていた横山有作と、啓三の兄弟が居られ、有作さんの紹介で天風会と一九会(いちくうかい)に行くようになりました。

―中村天風先生は戦後はどういう活動をされていたんですか?天風会は大正のころから始まっているんですよね。

多田:大正八年です。今、『運命を拓く』(講談社、1994年)という本が出ていますが、その序に杉山(彦一)さんが書いて居られます。杉山さんというのは今の天風会の会長で、東大の精神科のお医者さんでした。
 天風先生は植芝先生よりも少し年上で。昭和43年に亡くなられたときが92歳でした。

―大先生も同じ頃に亡くなれていますね。

多田:天風先生が43年の12月1日。翌年の4月26日に大先生が亡くなられたんです。私はヨーロッパに居りました。

―じゃあ、どちらも死に目に会えなかったのですね。

多田:ええ、私の祖父が93で亡くなり、それから天風先生が亡くなって、大先生が亡くなった。その翌年に私は帰ってきました。植芝先生の一周忌に間に合うようにです。 戻ってきたというか、それが縁で戻れるようになりました。もしこの時戻ってこなかったら、まだ行ったっきりだったかも知れません。

―天風会に入られたのは昭和何年ですか?

多田:25年です。

―同じ年ですか。合気会に入られてすぐに?

多田:合気会に入ってすぐに、有作さんが、「こういう立派な先生が居られるけど、是非来ないか」と言うんで、直ぐに行きました。

―で、どんな方だったんですか?中村天風先生という方は。

多田:そりゃ、素晴らしい先生でした。天風先生の一族は華族さんです。先生の父親は、中村祐興(なかむら・すけおき)といわれ、柳川藩主立花家に生まれ、中村家に養子に行き、後に王子の大蔵省造幣局の工場長になられた方です。
 だから先生の子供の頃の友達というので、よく話に出てくるのは、岩崎久弥とか、そういう人達ですね。だけれど先生は九州へ送られる。

―修猶館ですね。 ―それから実業家になる。銀行の頭取なんかやってられるんですね。

多田:大正八年突然感じるところがあり、一切の職を捨て、心身統一法の普及を始められたんです。会の名を統一哲医学会、通称天風会と言いましたがね。財団法人となったのは、昭和三〇年代の後半になってからです。

―僕などは講演録を読むだけなのですけれど、実際はどのような行をされていたんですか?

多田:天風先生の心身統一法の中心になっているのは、カルマ・ヨーガとラージャ・ヨーガです。日常生活の中での心の持ち方を統御して、それから精神の集中、統一。

―ヨーガですか・・・

多田:天風先生はカリアッパ師に導かれて、ヨーガの修行をされたのですから。

―読んでいると人生哲学みたいなことが書かれてあるわけですけれど、天風会では実際にはヨーガをされていたんですか。

多田:ヨーガ哲学はインド哲学の精華と言われ、今欧米の知識階級の間で、世界一の人生哲学であるといわれています。『運命を拓く』という本の内容は、真理瞑想といわれていたものです。夏の特別講習会で、午前中に安定打坐がある。その時に天風先生が説かれた講義録です。

―じゃあ、その前には実際には身体的ないろいろな行をするわけですか。

多田:一般の体操、統一体操といわれる裏筋肉を刺激する体操、呼吸法の基礎をまとめた呼吸操練、それからたとえばテレパシーの基礎練習等があります。

―ブザーを鳴らしてというのがありますけれど。

多田:音を聴いて、というより、音に同化して、音が無くなった時、音のしない音に同化する。「心耳を澄まし空の声を聴く」。安定打座です。勿論ブザーを鳴らして行うのは、初心者が、直接感じ取ることが出来るから行うので、よく会得したらブザーの音は必要では有りません。

―こういう瞑想法もヨガなんですか?

多田:音を使った瞑想の法はヨーガにも多いですね。しかし天風先生がこの方法を始められた事について、お話しになった事があります。先生は何時も、どうしたら、長い修行を行わなければ、なることが出来ない心の状態を、弟子に、より正しく、より早く教えることが出来るか、常に工夫、模索されていた。ある時、どこかの工場に招かれた。なにかの拍子で電気が切れて、その工場内の音が瞬間に消えた。その時、先生は、ヒマラヤで座禅を長い間行っていた時と同じ状態に、すっと吸い込まれるようになられた。それで、「これだっ」、と思われて、この方法を始められたということです。

―では、よい音よりも、低周波みたいな音の方がいいわけですね。

多田:低い、おなかに響くような音がいい。ずーっと低い音がしていて、それがすぅと消える。

―ぼくは鐘のような音が余韻を残しながらだんだん消えてゆくのに集中するのかと思っていました。違うんですね。他にはどんなことを?テレパシーの練習というのは、僕は前に一度、千葉でやりましたけれど。

多田:テレパシーの練習は時間をかけて真剣に研究していかないと。イタリア合気会でもそうとうに行って居ります。その為毎年1週間、呼吸法と、安定打坐とテレパシーの基礎練習を組んだ講習会も行っております。イタリア合気会で、最初にこの種の稽古を行ったのは、私がイタリアへ行って4年目の、ヴェネツィアで行った夏の合気道講習会からです。その時に始めて、「考えるのではなくて、感じる」稽古をした。考えることと、感じとることの違いというのは、分かるようで、なかなか分からない。
イタリア合気会の道場ではでは、その年から、この種の稽古を続けています。テレパシーの練習といっても、いきなり人の考えている事が分かるわけでわありません。むしろ互いの五感覚の延長、拡大、同化と言ってもよく、特殊な呼吸合わせというものです。この稽古が合気道の技に与える影響は、それは想像以上に良いです。動き全体の感じが滑らかになり、調和するように、なるんです。良く仕事等がうまく進行した時のことを「呼吸が合う」、と言いますが、その感じが体にも表れて、第三者にもわかる様になります。この事は、この練習を技と同化するように、常に行っている早稲田の合気道会員の稽古で、よりはっきりと出てきますね。
 東洋的な心の問題は「欧米人には分からない」ということはありません。勿論信じるか否かわ別ですが。頭で考えるように説明すると、分からないんであってね、実行出来る具体的な方法を行えば、よく感じ取れるのです。向こうでも、子供の頃から親と一緒にお祈りして、聖書、祈祷文を暗唱したり、自分たちの歴史の中で、多くの修道僧たちが修道院に籠もって、修行をしている。そういう話しを聞いているから、ちっとも不思議がらない。むずかしく説明をすればするほど、頭で考えてしまうから、なんのことだか分からなくなる。
 最近のある学説では、キリスト教も、インドのヨーガ哲学と修行法が、西へ伝わっていったのだと想定している。
 68年に始めた時、会員に非常に喜ばれ成功でした。それ以来、夏の講習会の度に、必ず行うことにしました。ところが、朝の5時頃から夕方の8時頃まで、合気道の技の稽古6時間の他に、この気の錬磨をたくさん入れるわけですから時間が長くかかるんです。 夏の講習会は、最初のヴェニス以来、ローマ、北イタリアのデセンザーノ・デル・ガルダ、その後フィレンツェの郊外のコヴェルツィアーノにあるイタリアサッカー連盟の中央練習場、そこには大きな体育館とプールとグラウンドが四つ。そしてホテルがあるんですが、そこに替わって20何年になります。会員はこの会場のホテルの他、キャンプ場に泊まるわけです。そうする内に、それぞれの門限等の問題で、だんだん朝早くから稽古をする事が出来なくなり、やむを得ず技の稽古と分けて、別に「気の錬磨」としての講習会を行うことにしました。
 植芝盛平先生の話、実践東洋哲学の行法と天風哲学を、合気道的に稽古しているわけです。参加者は多いです。心と体の関連についての研究心は、今、ヨーロッパでもアメリカでも盛んですから。

―日本で先生があまりやられないのは、実際にやってみても、あまり反応がよくないからですか?

多田:いや、そうじゃない。場所と時間の問題です。
 しかし日本に外国人が大勢武道の稽古に来るのだが、東洋的なものの考え方、心の実際の稽古に興味があって来る人が非常に多い。ところが、なかにはそれが、がっかりして帰る人もいる。「日本の先生が西欧的訓練法だけしか知らず、東洋的訓練法について何も知らない。何も知らないから習うことがない」と驚いてね。

―教える側の問題ですね。

多田:これは本題に関係があることですが、日本が明治維新で「脱亜入欧」と顔を欧米へ向けたでしょう。ちょうどその同じ時期に、ヨーロッパやアメリカにインドの優れたヨーガ行者が渡りだした。それからです人間の潜在意識とかに、向こうの人が非常に興味を持つようになった。それから100年以上たっている。精神と身体の問題、深層心理の問題が真剣に研究されてきた。
 いま日本人の有り難がっている、色々なトレーニング法は、みんな東洋の瞑想法をヨーロッパ的・アメリカ的に変えたものです。自律訓練法、イメージ・トレーニング、ストレッチ体操。みんなもともとはヨーガの瞑想法や訓練法の一部です。
それほど大きな影響をヨギ(ヨーガ行者)達は欧米の知識人に与えたのです。
 ヨギ・ラマチャラカ(YOGI RAMACHARAKA)というヨギがいました。トーマス・エジソンが実験中、電気のショックで神経の病になったことがあった。その為非常に身体の具合が悪くなり、西欧の医学では、なかなか治らない。それを心配した人々が、インドのヨギの話を聞き、当時の英国のインド総督を通じて、一人のヨギを呼び寄せたのです。それがラマチャラカです。エジソンはラマチャラカの導きによって病を治したという。ラマチャラカは、呼吸法や瞑想法の外、日本でいう公案を出したということです。エジソンは心を静め公案の答を出した。ラマチャラカは後に「今まで大勢の人を教えたが、エジソンほど、頭の良い人は無かった」といったそうです。本当の公案の答えは閃きだからです。 1905年に、アメリカで、ラマチャラカの”Science of Breath”という本が出版されていて、今でも出ています。ラマチャラカの講義録は、その他十数冊出ています。
 ラマチャラカの前にも後にもにインドから、立派なヨギが幾人も行っていますから。

―そんなに伝統があるとは知りませんでした。なんとなく、僕らは1960年代にアメリカなんかでヒッピー・ムーヴメントの中で東洋的なものが非常に流行ったというのは覚えているんですが・・・

多田:それよりずっと前ですよ。ヨーロッパでいろんな人間が、心の問題を深く取り上げているけれど、恐らくインド人の出版物が出ていたし、それを知っていたはずです。そういう流れが底の方に今でもずっと続いている。それが表へ出てきた、第二次大戦後に。戦争中にひどい精神障害の症状が戦場で起きたでしょう。それについての研究が進んだ。  本当は武道も、それが分からないと、日本武道の本質は分からないのです。  普通日本の武道というと柔道や剣道のことが頭に浮かぶ。ところが現代の武道は、近代教育の方法です。明治維新以後、体操化して教育の中に持ち込まれた。それで日本の伝統的な教え方とは非常に異なる所がある。

―日本の伝統的な教育法といいますと?

多田:一番の基礎に、心の問題を据え、その心に応じた体を築き上げる。常に心と体を一体と捉える、実践東洋哲学の行法としての武道です。
 日本の文化の特徴に「形の文化」を揚げられますね
 形といってもいろんな形がある。かたちだけのような形もあれば、順番や手順を形だと思っている人もいる。
 形とは何か?
 「形は、ある芸術を生み出す、心と体の法則を身につけ、それを使えるようになる為の、最も効果的な練習の方法をまとめたもの」ですね。
 従って形には基本の心と体を作り、練り上げ、応用する形から、変化自在、神韻縹渺とした形まで限りなくあることになる。
 本当の武道、芸術の稽古法というのは、山から海に川の水が流れて行くように、ずっとつながっているものです。例えば、”乱取り”と言われる稽古法、これも本来は形の一種です。それを形と分離するところに大きな間違いがある。それに、乱取りは、修行が上達し、出来上がった人が、自分を試すための方法だ。何を試すかというと、技が掛かるか? などを試すのではない。心が、とらわれる事がないかを、試すのです。とらわれる事を武道では「止まる、留る、住する、著する、合気となる」と言いますね。
 ところが、この様な稽古法は、じっくりと一生をかけて行うもので、簡単には出来ないものだし、その稽古法についての十分な知識と経験を、先生から受け継がなければならない。 然し一般に、この様な事に熱中する人は少なくて、大半の人は、もっと簡単手軽に出来て、目に見える事を欲するらしい。
 これは、今時に限らず、昔もそうだったらしく、徳川時代にも、この注意を促す書物が多いですね。
 又、一般に伝えられている形は、その真意が、これを作った人しか分からない事が多い。代々伝えられているうちに、意味が分からなくなってしまったり、形も意味も変わってしまったという例もある。
 武術というものは、本来生死の境に用いられる、非常に現実的なものです。ところが日本の武道の伝統的訓練法の特徴は、それを本当に習う時には、勝負、強弱を一切念頭に置かぬ事によって、技を生める心身の法則を得られるように、教え込まれていた事にあります。それを漠然と見てね、「型だから使えない。お互いに自由にやってみなけりゃいけない」というのはね、深いところを理解しないか、あえて見ようとはしないのだと思います。 心の状態が身体に影響を与えることの大きさは、想像以上ですね。例えば今まで心も白、体も白だってものが、心が赤に変わると、瞬間に体も赤になる様なものです。  普通には、見ていてもなかなか分からないかも知れませんけれども、合気道の稽古ではすぐ分かるものです。柔道、剣道、空手では分かりにくいかもしれません。空手は相手が離れているし、柔道はすでに握っているし、剣道は防具をつけていて、竹刀を使う技術がいる。合気道はお互いが素手で相手と体を接する瞬間がある。心のあり方が変わると、すぐに動きが変わってしまうのが分かる。相手や技の駆け引きに、心がとらわれると、自分では気が付かなくとも、相手と対立する雰囲気がはっきりと出てくる。そして何よりもリズムが変わってしまいます。
 でも、大体こういうことは、素直にそれを感じないと、頭で考えても分からない事なんです。天風先生の本を読んでも、私等直弟子が読むのと、他の人が読むのでは違うのではないかと思います。今でも先生の御著書を読むと、先生が目の前に居られるような気がします。そして、ちょうど砂漠に水をたらしたみたいに、全部すーっと吸い込まれるような気がする。批判的には読まない。「ここは分かる、ここは面白い」というようには読まない。学生達も、「ここは本当だ、ここはどうかと思う」というようなことを言う。相対的に読んでいる。読んだら、たくさんの知識はふえる。しかし、直接、魂に影響するのは、難しいなと感じることがあります。

―師というものに対して、決然として全幅の信頼を寄せる、ということがないと・・・

多田:そうすると、植芝盛平先生が言われたように、「合気道は宗教ではない、だが宗教でもある」。信じるというのは、言葉では分からないこと、説明できないことだからですね。天風先生についても同じでしょう。

―僕は良く分かります。大変よいことが書いてありますから。まあ、その通りですよね、という感じで。でも「目から鱗が落ちる」というような感じはしないんです。実際に師の肉声として聴くと全く違うということでしょうか。

多田:まあ、それは人によもよるでしょう。植芝先生は大本教を信じられたというけれど、大本教というよりは、出口王仁三郎聖師への絶対的帰依でしょう。

―以前、断片的に中村天風先生の逸事についてはちょっと伺ったことがあるんですけれど、刀で頬を切ったとか・・・

多田:そういうことは先生じゃなくても、他にやる人はいるでしょう。刀の刃を上にしてその上に乗るとか、沢山の針の上に寝るとか。ものによっては、誰でもが出来るという事ではないけど。

―天風先生にはやはり超能力的な力があったんですか?

多田:先生はその力はずいぶんお有りになる方でしたね。今で言う「テレパシー・ノックアウト」とか。

―気のシンポジウムのときに・・・

多田:ああ、筑波大学で行われた。あのとき青木(宏之)さんがやったので随分話題になりましたが。天風先生も、時々行って見せられた事があります。

―先生もかけられたことがありますか?

多田:あります。

―どんな感じなんですか、やはりお腹が熱くなるんですか?

多田:そう。説明するのは難しいですね・その他、天風先生のなさることの受け身をとることもしました。

―受け身ですか?体術をやられるんですか?

多田:いや、体術というか、心の力の使い方の、色々な実験です。天風先生のお教えは非常に整っていますから。

―個人的にも非常に魅力のある方だったようですね?

多田:こわがる人もいましたがね。

―先生が入られた頃は会員は何人くらいいたんですか?何万人もいたんですか?

多田:創立以来の会員を入れれば、そうかも知れません。その頃毎月護国寺の月光殿であった講習会に集まる人は、4、50人でしたが、夏の特別講習会には、全国から400名程が参加しておりました。

―それは合気道の稽古と並行してされていたんですね。二つの心身運用法の、先生個人の中でのかかわりというのは、どういうものでした?

多田:私は天風先生のお話や稽古で、合気道が分かるようになったのです。植芝先生のお話は、核心になると、神様のお話となるので。

―そうですね、僕もヴィデオなんかで聴いている限りは、何を言っているのか全然分からない。

多田:そうでなく、とっても分かりやすいこともありますけどね。そういうのは記録されていない。稽古が終わったあとで、先生の肩を揉んだり、背中を押したりしながら、先生がいろんなお話をされるのを聞く。これがとっても良く、分かりやすかった。技も、一般の稽古時間の後で、稽古をしている時に、先生が出て来られて「ここは、こうだ」というふうに教えて下さる。それがとてもよかったんです。

―でも、今残っている限り、お話分からないですよね。

多田:難しいお話ではあったけれども、一種独特の雰囲気でしたから、分かっても、分からなくても、とにかく、よかったんです。

―同時にこういう圧倒的な個性の持ち主である二人の先生に就くということは、僕なんかの考えでは、なんとなく修行者としては混乱するんじゃないかな、という気がするんですが・・・

多田:あんまりそういう事は、考えませんでしたね、私は。ここがいいとか、ここが難しいとか、全然違うということがないように思えた。「説明される方法は違うように見えるけれど、多分同じことを言われているんだろう」と思ってた。それは後になって、わかって来たのですが、正しかったと思っています。
 植芝盛平先生と中村天風先生は呼吸法も、静座も日常生活の心得も、同じ事を説かれて居られた。言葉は違いますが。神道の禊とインドのヨーガですから。
 前にも言ったように、天風先生のところに入ったから、私は合気道がよく分かるようになったのです。第一、日本の武道がなぜ発達したか考えればよく分かるんです。日本の文化に一番大きな影響を与えたのは誰ですか。

―個人で、ですか?

多田:その弟子の弟子の弟子・・・という影響を含めて。

―・・・・・・・?

多田:弘法大師ですよ

。 ―あ、言えばよかった。そうじゃないかと思っていたんですよ。(笑)

多田:最澄と弘法大師。比叡山と高野山。
 武道でも、達人といわれる香取神道流の飯篠長威斎にしても、真言宗の僧侶で終えている。その他、一流の流祖は、例外なく神社仏閣或いは洞窟に籠もり修行をしている。日本武道は、密教と鎌倉以後の禅、その後ろにある神道の長い歴史、これによって心技共に深いところに到達する事が出来たのです。

―空海という人は修験道の修行もした人でしたね。

多田:空海は西安に行って何を学んできたかというと、ヨーガの行を習ってきた。今日世界中で、精神集中の科学として尊ばれている、ラージャ・ヨーガの行法が、今から1000年も前に日本に入ってきている。そして武道にも、大きな影響を与えたのです。ですから、心身相関の東洋の理論と実技を近代的に説かれた、天風先生の心身統一法を研究しておけば、武道の伝書を読んでも、よく分かるのです。
 これが分からなと、武道の歴史書、伝書を読んだ時、その説く心を、知識としては分かるが、どうやって現代の武道の稽古に、具体的に活かして、行うことが出来るか、ということが分からない。分からないだけでなく、昔の武道家は神仏に頼る等、迷信を信じやすく、非科学的であった等と、全く見当違いな説明をする事にさえなる。

―ヴィデオで見ると、古武道の中でも、600年前の形をそのまま伝えているという香取神道流の動きが非常に早くて合理的に見えるんですけれど・・・

多田:香取神道流については、大竹利典師範によるところが、おおいですね。家の山田博信君もやっていて、免許教士を頂いていますね。

―古武道、いろいろな流派が伝えられていますけれど、実際にはやってらっしゃる方が次第に少なくなっていますね。

多田:年々少なくなっているようです。

―合気道は古武道という分類には入らないですね?

多田:入らないと思います。大東流は古武道に入るかも知れませんが。合気道は植芝盛平先生によって、導き出された、近代武道です。だから、「合気道は古武道だからスポーツ化したら新しくなる」というのは、私からみると、全くあべこべですね。
 合気道をスポーツ化するということは、合気道を50年から100年も後退させる事になる。 嘉納治五郎先生は、優れた教育者であった。然し嘉納先生が講道館柔道を創始されたのは、今から100年以上も前のことです。後少しで21世紀になろうとしている今日、嘉納先生がなさった事を指標にして、合気道を競技化しようとするのは、賢明なこととは思えません。 競技化だけが近代化する方法ではありません。
それは世界の情勢をつぶさに見る時、我々の先祖が残してくれた、東洋的訓練法が、非常に大事であることが、はっきりしているからです。これについては、先程もお話しましたが・・。
競技化したのでは、どうしても行うことが出来ない、心身の訓練の世界があることを、我々の先祖は教えているのです。 それを実地に示されたのが、植芝盛平先生なのですが、このことを未だ多くの人が知りません。これからは、一般の人にも、分かるように、合気道を説いて行くのが必要です。体育としての合気道もこの点を、十分に理解したうえで進めて行かなければ、ならないでしょう。そうでないと、かえって外国の合気道の識者に侮られることになります。

―でも、合気道の教育的効果というのは、とてもあると思います。中学や高校の体育の正課に、剣道、柔道とならんで合気道を取り入れてもいいように思うんですけれど。

多田:もう、今度出来るようになっています。状況さえ整えば、この4月から。

―え、そうなんですか!知りませんでした。

多田:知らなかった? 文部省から通達が出ているんです。たしか、例えば参段以上程度のものがいることと、時間数とかプログラムとか。すぐ取り入れても構わない。正課にも、クラブにも。たしか去年から中学校、今年から高校。ただ、やる人が少なくていない。

―そうですか、これからはやる人はふえてくるんじゃないですか。合気会の方で基本的なプログラムを作らないといけませんね。

多田:それについても、いろいろわけが分からずに、武道の精神というものに、反対する人もあってね。

―反対する人がいるんですか?

多田:いわゆる「武道の精神性」という言葉についてですね。日本の武道の心の道は二通りある。丁度、縄が二本の縄でよられているように、二つの道でなわれている。この道を学者は、心学の道、心法の道と言ってるようですが。
 一つはいわゆる武士道です。いうなれば倫理性。徳川の安定した時代になって、封建制度が確立し、武士は主君のために何時でも死ぬ覚悟が必要とされ、その教育の手段として武術が奨励された。武術は侍の表芸であり、常に死と向かい合っている術であっただけに、より教育の効果があるからですね。そして明治から後も、昭和に至るまで「忠君愛国」という思想に引き継がれる。それが、終戦で何もかも、粉砕消滅したかに見えたが・・。 然しこの道は、その時代の社会によって、外から武道に求められ、付けられた道です。武道自身が内に持っているものではない。今日この道は、もやもやとしていて、無いと言ってもよい。「人間はこの様に活きよ!」、と言う、社会の誰もが認める、強い理想の人間像を求める、公式な教育思想が無い。勿論、礼儀作法が良く、規則正しくなるとかを、武道の稽古の精神的特徴にあげられるが、それはそれで良いとしても、然しそれは武道の稽古に限るものではない。
 さて、もうひとつの道、それは日本の武道を本当に発達させた内在する道(法)です。 それはさっき言った、密教と禅、神道の修行によって得られた、精神集中の感覚によって鍛えられた、いわば、精神集中の科学としての心の持ち方と使い方から発した道だ。これからの時代は、これが非常に重要だと私は思います。
 「武士道」というのは、社会の表の姿です。だから時代と共に変わる。武家社会がなくなったら、「武士道」も過去の栄光の理想という、非常に素晴らしいものだが、抽象的なものになってしまった。「忠君愛国」だって、昭和20年8月15日を境に、ころりと変わった。私等はその時、中学4年生(今の高1)だったから、教育というものが実際に、あんなにあっさり、ころころ変わるもんかと、驚いたものだ。(笑)つまり時代と共に、ころころ変わる。そういう倫理は。つまり相対的です。
 一方のもう一つの道は、どんなに時代が変わっても、変わらない。「人間とは何か、宇宙とは何か」。世界観、生命観に根ざしていますから。そっちが日本の武道の本当の流れでは非常に重要なんです。
 ところがこの大切な道が、明治維新で大きく失われてしまった。明治新政府は「脱亜入欧」で廃仏毀釈や神社統合等いろんなことをやったが、特に密教的なものは、一番迷信的なものだというので、排斥した。その影響が長く緒をひく事になってしまう。
 合気道は植芝盛平先生が紀伊に生まれ育ち、禊で悟りを開かれた為、心の持ち方と使い方、それと身体の持ち方と使い方、そういう事に対する伝統的研究の心が、大切にされている。そこが非常に重要な点であって、これからの合気道の発展の大きな鍵がある。  その心こそ、日本人だけでなく、世界に通じる心であり、今日の世界の平和に貢献できる心なのです。
 ただそれは漠然と知っていてもだめで、心と身体と技についての考え方と、それに関連する具体的な稽古方法をよく知って居なければならない。  簡単に言えばね、「僕の乗った電車は、何処へ行くのか」をよく知ってることだ。逆に言うと、ほとんど皆、行く先を知らずに、飛び乗っているようなものだ。

―僕らは、師匠についていけばいい、と気楽に考えているんですが・・・

多田:そりゃ構わないさ。一つの会がそういうふうにやっているならば。「こう行くぞ」なんて言っても、出来ない。知らず知らずのうちにその道に進んで行くんです。そういうものです。
 私も最初から今のように思っていたわけではありません。植芝先生、天風先生、一九会、断食、ヨーロッパでの経験・・・段々とです。

―一九会というのはどういうものなのですか?山岡鉄舟の・・

多田:一九会というのは、大正の頃に、東京帝大のボート部の人達が、小倉鉄樹先生を奉じて始めた禅と禊による修行の会です。山岡鉄舟先生の命日である7月19日にちなみ、毎月19日に集まったので一九会と名付けられ、後に社団法人となりました。私が入ったときは、中野の野方町にあった古い、大正の震災よりずっと前に建った建物でした。
 小倉鉄樹先生は、山岡鉄舟の最後の内弟子といわれる方です。剣の修行に入門したが鉄舟先生が、これからは心の世界、禅を探求せよ、と言われて、京都に行き禅宗に入られたのです。
 日本画の大家、小倉遊亀先生は小倉鉄樹先生の夫人です。
 小倉鉄樹先生の『俺の師匠』という本がありますが、これが山岡鉄舟先生の伝記として一番正確だとされている。  その一九会道場も、さっき言った横山兄弟に紹介されました。

―どういう修行法をなさるんですか?

多田:一番は呼吸法です。正座して鈴の音に合わせて、祝詞の一節を全身の声で発声する。そのうちに疲れて出なくなると、後ろからバーンと背中を叩く。するとまた声が出てくる。(笑)ま、それを毎日10時間、木曜に始まって日曜まで続けて、はじめて会員になることが出来ます。私はその当時、空手も合気道もやっていましたから体力はありました。いくら何をやっても、疲れはしないんです、でも、へその上辺りまで痺れて来ましたね。正座しているから。それでもね、終わったとき不思議だったのは、背中があざになるくらい叩かれれていても、身体全体がが生き生きとして、肌が光っているんです。一種の心身の清めの呼吸を、連続して行うのと同じですね。あの頃は全然分からなかったが、声と鈴の音とそれを振る動作が同化するんです。
 内田君、行かなかった?

―僕はそんな恐ろしいところには・・・。(笑)

多田:ここ(月窓寺道場)の主立った人達は皆行ってますよ。自由が丘は小堀秋君と広瀬良三君くらいかな。外国人も行ってるし、青木増盛さんは65歳を過ぎてから行ってます。女の人も。大丈夫ですよ。中に飛び込めば、外で人が言うほどのことではありません。

―僕の知り合いの若い男の子で、大学で合気道やってるのに一九会が好きなのがいて、一度行ったらやみつきになって、よく行ってるらしいです。「楽しいの?」って聞いたら、「楽しいですよお」って言うんですけど・・・(笑)

多田:気合いが入るようになる。若い頃は毎月行きました。昭和39年、私がヨーロッパに行く年に、野方町から東久留米市の前沢に移転しました。騒音妨害だと周りから苦情が出たためです。(笑)

―もうひとつお聞きしたかったことなんですが、僕なんかは外国人に教えていて、身体のつくりや運用の仕方が違うな、と思うことが多いんですが、先生がヨーロッパで合気道を教えてこられて、話しを伺っていると、あまり身体のことで違いを感じられていないようなんですけれど・・・

多田:あんまり違わなかったですね。全然同じだと言っても良い。困ったことという事もありませんし。

―僕が最近書いた論文で書いたことですけど、ヨーロッパ人は僕たちと身体感覚も違うし、身体の運用の仕方も違う。身体の各部の名称もずれていたりしますね。そうすると、例えば、アメリカ人に合気道を教えると、ある種の動きが非常に習得できにくいということがあるんです。先生はそのへんのところをどうやってこられたのかと・・・

多田:全然、違わなかったです。私は本部道場の外、防衛庁、慶応、早稲田、学習院の合気道会の学生と稽古していましたが、それと全く変わらなかったですね。
 64年に行き68年の夏に、はじめて初段を出しましたが、日本の初段に決してひけをとりません。耐久力もあるし強かった。私は昭和39年に行って、45年に戻ってきたのですが、ずっとやっていたものは、それは上手になりました。本当に内容がどれくらい分かっているか、ということはまた別ですが。  教える上でも少しも苦労しませんでした。立ち技は勿論、半身半立も出来るし、座り技も日本と同じように行いました。  一つには合気道は試合を行わないから、気持ちの上で、対立や競い合うということがないのが、非常によいと思います。  最も全く同じというのは、言葉の上で微妙に違うところが、私に分からないからかも知れませんが。

―いえいえ。しかし、これは僕にとっては意外なお話でした。身体のとらえ方が先生の方が本質的なのでしょう。インターナショナルな、というかすべての人間に共通しているような身体操作の基本というのがあるのでしょうか?

多田:最初のうちは言葉がよく分からない。それで大学書林の小さな辞書を離さずに持ち歩きました。稽古はとにかく、その他のことも、私のする事を、皆が無条件に真似するので、日常生活も、まるで油断が出来ませんでしたよ。
 68年にヴェニスで、さっき言ったように、安定打坐、とらわれない心とは何か、という、一番難しいことを稽古しました。具体的な方法で。具体的に分かること以外、分からないことは稽古出来ません。
 イタリアでも、勿論新会員がどんどん来ます、気の錬磨に。少しも抵抗はありません。剣、杖、呼吸法を行っても同じです。

―また、そういうふうに続々とイタリア人が入ってくるというのも不思議な気がするんですけど、何を求めて彼らは来るんでしょうね?

多田:勿論、人によってそれぞれ違う目的で入門して来ます。初めの頃は、「自分は弱すぎて兎みたいだから、なんとか強い狼みたいになって、相手を叩きのめしたい。と思って入会した。ところが、合気は愛だとか、和合だとかいうのでがっかりした」なんていう女の人も居ましたね。(笑)

―で、やめちゃったんですか?

多田:いや、そのまま続けていました。(笑)

―僕もそうですけど。(笑)東洋的な精神文化に対して、ある程度、予備知識があって、それにあこがれて、というのもありますか?

多田:メルジェという先生が居られた。イタリア合気会のパンフレットに「イタリア合気会を創った人々」というのを私が書いてありますが。
 メルジェ先生は戦争中、日本のイタリア大使館に居られた。そして戦後イタリアに戻り、東洋語学校の先生をされていた。そのメルジェ先生は、日本に居られた頃、合気道の話を聞いて、植芝道場に来られたわけです。でも、「入れない」と言われた。当時の植芝道場は、入門するには紹介者が二人いり、また外国人はとらなかった。それでもメルジェさんは、入りたくて、日参しては座り込んで、それで入門出来たのです。大先生を大層尊敬されていました。
 その人がイタリアで、始めて大先生の話をされたのです。その話を聞いていた日本語学校の生徒たちが最初に入会しました。
 その外有名な東洋学の研究家で、『ウパニシャッド』をイタリア語に訳しているフィリッパーニ教授が私の合気道の説明を聞いて、すぐに「合気道はスポーツではない、合気道は日本の文化であり、動く禅だ」」と言った。
 私が『合気道の探求』に書いた「イタリア合気会を創った人々」を、ダニエラ・マラスコ(月窓寺道場会員)がイタリア語に訳したのがこれです。
―立派な本ですねえ。

多田:イタリア合気会は、正式にはAssociazione di Clutura Tradizionale Giapponese(日本伝統文化の会)といい、イタリア共和国大統領の許可番号1978年7月8日 N・526号の Ente Morale(公益法人)の資格を持っています。イタリア政府公認の会だから、本当は、なかなかのものなのですよ。日本人が日本の文化の会を作り、政府公認の法人格を取りたいと思って申請しても、なかなか許可はおりないですね。

―しかし立派な本ですね。

多田:今、約5000人居る、正会員が払う年会費で作ったものです。外国では、この様な会には、よそからの補助金は全くありませんから、これを維持し、発展させていくのに必要な、相当な年会費を会員全員が支払い、自立して居ります。それだけに熱心で、会を思う気持ちが強いですね。

―メルジェ先生関係者以外にはどういう人たちが入ってこられたのですか。

多田:それは、色々な人がいます。勿論、日本に興味をもっている人が多いです。医師、弁護士、学生、体育関係の人。踊りのバレーの人、演武会を見て、あるいは紹介されて来た人。 どちらかといえば、インテリ層が多い。これは、合気道に関するかぎり、どこの国でもそうですね。

―どうしてなんでしょうね。

多田:植芝盛平先生の噂、書物等を一応読み、合気道とは何か、と言うことを知ったうえで来るからではないですか。それに合気道には一種独特のリズムがある。このリズムの基礎は、とらわれない心なんですが、これを良く感じ取っているようです。ある大学の教授が説明演武会を見た後で、「私にとって合気道は音楽と同じ様に思えました」と言ってました。

―弟子たちに、先生の方から修行上の心の構えとして求めたいということは・・・

多田:弟子といいいましても、色んな層があります。一言では言えません。皆が専門家になるわけでわない。ある程度の健康法としてやっている人もいますし。
 ただ、あんまりきょろきょろよそ見をするといけない。昔私の父親が弓を始める時に、曾祖父が注意したことが二つある。
「弓術の本を読んではいけない。絶対に人の技を批判してはいけない。」この二つです。 「弓術の本を読んではいけない」というのは、一つには迷いを生じるからです。 例えば「私の先生はこう言っているが、外の先生はこう言っている。全然、違う。どっちがいいのかな? では両方の良さそうなところを取って・・・」。これが一番上達しない人の見本です。

―あんまり合気道の本というのはないような気がしますけど。

多田:書物は、習った人がなんとなく忘れないためにまとめるとか、一年に一度しか先生につけないとか、そういう人が参考にするもの。それを読んで、うまくなるということはまずない。

―でも、いろんな修行をされた方の芸談というのですか、芸術論というのですか、そういうものはどうですか?

多田:それはそれでいいんです。けれど、読み方を間違えると「極意にかぶれる」ということになって、昔は嫌われたんです。

―先生は前に『猫の妙術』を読まれましたね。僕はあれまで武道書読まなかったんですけれど、先生にあのお話聞いてから、「あ、こういうものを読んでもいいのか」と思って、いろいろ読んでしまったのですけれど、これはまずかったんですか。「極意にかぶれて」しまったのでしょうか。(笑)

多田:合気道も稽古する時に、気をつけないと「飛び越す」ことがある。初心者が、がっちりとした稽古を、行わなければならない時に、名人しか出来ないような、崩した稽古ををやってしまう。結局、基本がめちゃくちゃになる。
 そこに和尚さん(月窓寺住職・村尾照賢師)が書かれているけれど「脚下照顧」、脚もとを見ろ、と。そういうことをも、われているのでしょう。

―今は、『秘伝・古流武術』のような刊行物があって、いろんな技術論とか奥義論とかいうものが定期刊行物で読めるという、一種の「古武道ジャーナリズム」が出来ているですけれど、先生は、初心の者がこういうものを読むのはあんまり・・・・

多田:見たい人は見ればいい。しかし本当に何か道を一筋に追求している人にとっては、寄り道になることが多い。

―僕らみたいのはどうでしょう。

多田:あまり上達はしない。余計なものを沢山背負い込んで行くだけです。

―なかなか面白いことをしているなあ、という気がするんですけど・・・先生よりも一つか二つ若い世代で、青木(宏之)さんとか、甲野善紀とか、黒田鉄山とか、あるは坪井(香譲)さんとか、いうなれば古武道の「ニュー・ウエーヴ」みたいな動きがあって、その人たちのおかげで若い人たちの関心が高まっているということはあるんですが、そういうものに対してはどうお考えですか?

多田:いいんじゃないですか。

―別にいいんじゃない、といわれても・・・

多田:私がさっき言ったのは、父の時の伝統的なやり方ではそうだ、ということです。それと、専門的に稽古をする、心がけです。なかには先生がいない人もいますからね。一番困るのは、やりたいけれど先生がいない。自分の師範が見つからないという人でしょう。

―師匠がいれば、本も読まずにすむし、批判もせずにすむ、ということですか。

多田:まあね。ちょっと違うけれど。(笑)そんなに難しい事じゃない。ただですね、今は非常にむずかしい。昔の教育というのは、小さい子供の時から四書五経の暗唱とその精神の実行でしょう。そういう世界に育っている、けれど今は全然違う。近代ヨーロッパ的、アメリカ的というか、、物事を批判的に、分析してみることが科学的でよいという、世界に育っている。技術的にはある程度いくかもしれないけれど、本当にすぐれた武道家は出るかなあ。むずかしいと思いますね。

―今後の合気道の道統というのは、どうなっていくのでしょう。

多田:合気道は財団法人合気会の植芝守央本部道場長を中心に、若い師範達によって守られて行くでしょう。しかし、これかれの若い師範は、心の研究、特に精神集中の方法と体の技術の関連を、徹底的に研究し稽古する必要があります。

―今の体制のままでは、それほど優秀な武道家は出てこない?

多田:いや、そうは言わない、けれど。でも、一種独特な雰囲気というものがなくなると思う。だいたいね、何かが乗り移った、と思われるくらいでないと・・。簡単に言えばね、トランス(trance)に入れるかということだ。技術に真剣に打ち込み、トランスに入るようでなければならない。それにはね、技術に非常に熟練し、動かない信念を持っ必要がある。

―面白いですね。信念を持っている方がトラスしやすいんですか。

多田:信念と言ったって、頭の中で考えているんじゃない。合気道と自分の生き方と同化していると感じているようでなければ・・・・外から見たら憑き物がついていると思うくらいでなきゃ。

―話は変わりますが、先生、本をお出しになると言っておられながら、なかなかお出しにならないのですが、(笑)あれはどうなっているのですか?

多田:イタリア合気会では30周年を今年やるから、それから・・・。

―先に日本語でお書きになるんですか?

多田:イタリア語にはダニエラが訳したいと言っていますし、その他英独仏と予約はいっぱい来てるんですが・・・。

―その日本語の段階のものを、多田塾門下生に読ませて頂けるとありがたいのですが。

多田:そうですね。

―なんとか出して頂かないと。なかなかじかに先生のお話を伺う機会のない門弟や孫弟子もおりますから・・・

多田:これで、まとめられる?(笑)
 とにかく、私の柱になっているのは子供の時からの父の話に、植芝先生と合気道の稽古、中村天風先生のお教え、一九会道場、断食、イタリアでの経験、更に結婚して、この結婚した相手の久美が、芸大出身のヴァイオリニストで、芸術家としてはこの命の問題を、長く先天的にともいえる程考え、求めている人だったので・・・・、子供の武丸が産まれ何時も三人一緒にヨーロッパを回って・・・、この六、七本立てになっている。

―前から先生はよく断食の経験について話されていましたけれど、それほど重要な柱になっている経験なんですか?

多田:断食をしなければ経験出来なかったことが、沢山有りましたから。

―どんな経験ですか?

多田:さっき心が身体にすぐ影響を与えると言ったでしょう。断食も二週間を過ぎると胃が止まっている。ところが、ふっと食べ物のことを考えると、すぐ胃がどくんどくんと動き出すのが分かる。一つは唾液が入るからとも思うが。それだけじゃない。神経が敏感になっているので、心の状態をすぐに体が表現するのがわかるわけです。

―断食を始められたそもそものものきっかけは、どういうことからですか?

多田:私が初段の頃、:入門してその年の7月に初段になったんですが。

―3月に入って、7月に初段になったんですか?早いですね!(笑)

多田:朝からやってましたから。:当時植芝道場では毎月第一日曜日に、合気座談会というものがありました。道場の先輩には社会的に有名な方が多かったが、その他にも偉い人達が来られて体験談をされたり、実演や国宝級の刀剣の展示があったりしたんです。ある月のその会に、桜沢如一先生、:知ってますか?

―知ってます。

多田::が来られ、無双原理について話されたんです。その後、桜沢先生の会で合気道を稽古する話が出て、先生の合宿所が、東横線の日吉にあった、家の自由が丘から近いので、私に稽古に行ってくれと言われて、何回か行きました。その時中村エイヴさんという人がいた。桜沢先生のところは、なんかみんなヨーロッパの名前を付けるんです。

―ええ、ジョルジュ・オーサワとか、そうでしたね。

多田:その中村さんは立山で、30日間の断食をやったことがある。立山に仙人の様な人が居て、その方についてです。断食20何日か過ぎると、朝、その日に何があるか、分かる様になった。人の考えていることまでが、全部分かったと言うんです。
 それが最初に断食に興味を持った時でした。当時まだ学生だから、上野の国立図書館に行って、そこにある断食の本を、全部引っ張り出して調べました。面白い本がありました。梅田 薫著の心身改造、霊的断食療法と言う本に、明治の末に女性で、110日断食した人がいる事が書いて有りましてね。

―死にませんかね。即身仏になりませんか。

多田:山根 寿々恵という、東京女高師今のお茶の水女子大を出ている学校の先生だったが、何か悩みがあってか25歳の時、成田山の断食堂に入籠し、毎日水行して、お百度回りをしたという。お百度というのは、本堂の周りをぐるぐる走るように回る。約10キロ位になるという。時にはお百度を5回、500回ったと言うんです。50キロ。断食中に。この様な長期の断食の場合は途中で少し食事を取るのかもしれないが、それにしても、110日行ってそれほど疲労したようには見えなかったというのです。

―その人は、そのあとどうなったんですか?解脱しちゃったとか。

多田:その修行で霊感を得て、女仙人として有名で、当時の新聞には、よく報道されていたということです。

―先生はどれくらいされたんですか?

多田:最初は家の離れで一週間やり、その1ヶ月後に小仏峠にある臨済宗の宝珠寺で、三週間行いました。その後は家で二回行いました。

―その間も普通に日常生活を送っているのですか?

多田:一週間程度の断食ですと、日常生活は、普通にしていても、大丈夫です。三週間になると、それでは一寸きつい。

―一週間の断食のときはどうでした?

多田:始めての時は、ほぼ失敗でした。父親が「断食をしてるんだって、大変な事だ。休んでなさい」と言うので、半分寝るみたいにしていました。寝るとね、動けなくなってしまうんです。よくハンガー・ストライキで半分寝てるでしょ。ああすると動けなくなる。いやいや、やったら尚更で、ものすごく危険です。いやいや、やっては、いけない。楽しんでやらなきゃ。私の父は中学生の時、博物学者になりたいと思っていただけ有って、何でも知っている人だったが、さすがに断食のことだけは、知らなかったらしい。
 断食をしようと思った時、成田の新勝寺で行おうと思った。成田不動の断食堂は昔から有名で、松平定信、新井白石等有名な人達が大勢行っている。しかし京成電車で成田に行ったんだが、でも町の様子が分からなくてね。なんだか羊羹屋ばかり目について。(笑)全然お堂とか、そういうのが分からなくて、そのまま帰って来てしまった。それで、家の離れで春休みに1週間やったんです。然し調子が悪いから、もう一度やり直した。
 小仏峠はどうして知ったのか忘れましたが、やはり本に出てたんです。年を取った和尚さんが居られてね。  毎日朝は本堂で和尚さんについて、お経と白隠禅師の座禅和讃を讀唱する。後は自由だから、天風先生の本を読んだり、・・:そう天風先生が「真人生の探求」「研心抄」を出されたのは、昭和25年でした、丁度私が入会した時です、それまで大正時代から一冊も出されなかった、教えは、心と心が直に触れなければ、と言われ、本から入るのは難しいと考えられてだという・・:。後は、呼吸法をして、滝に打たれ、林の中を散歩したりするのが日課でした。始めて三日から四日たつと、何かを食べたいという気持ちは消える。食べないと決めていましたからね。食べたいけれど、食べられないのとでは、根本的に違う。3週間やると決めて行っている間は、食欲も感じません。断食十日目に小仏峠の頂上まで登った。向こう側の、ヨットが浮いている相模湖や、山々が綺麗でした。降りるときは、駆けて降りた。心臓が破裂しそうになったが・・。
 三週間の断食が終わり、重湯から少しずつ食事を取り三日間静養して、家に戻りました。あの頃は、小仏峠から浅川(現在は高尾)の駅までバスがなかったので、リックサックを背負い、走って帰りました。
 断食は、終わってからが大事なんです。断食が終わった時は胃も小さくなっており、食欲はあまりありません。然し、5、6日すると恐ろしいほどの食欲が出てくる、その時食べ過ぎると、命にかかわることになると、和尚さんに注意されていた。家に帰り4、5日たつと、本当にすごい食欲が出て来た。腹が減って、腹が減ってしようがない。体が新生し出すからです。ここで食べ過ぎて身体を壊す人が多いということだ。西瓜一つ食べて、死んだ人もいる、とか。

―西瓜で死んじゃうんですか。

多田:体の細胞が新生する力を欲しがっている、が胃腸は未だ本格的には働けない。そこに大量のものを入れると・・・。だから難民の人たちも、いきなり大量に食べさせては危ないんだ。

―じゃあ、胃が止まっている間は飢餓感ないわけですか?

多田:3週間程度なら無いです。非常に長い断食で死に近づくと、危険信号のように出てくると言うが・・・。  でも、断食始めた動機の一つには、戦争中のように又食物が無くなっても、平気でありたい、そう驚かないようにしようと思ってね。(笑)。

―どうなるんですか。体感の変化というのは?

多田:その頃、私の体重は平均して70キロ程でした。家でやったそのなごりで、63キロくらいでしたが、それからまた10キロ程痩せました。

―先生の場合は、かなり絞り込まれた身体ですから、それからさらに落ちるというと、もう筋肉が落ちるわけですか?

多田:体全体が細くなりました。だけど峠に登った時も平気だった。

―どんな感じの変化があるのですか?

多田:家に戻り、一週間ほどしてから、何時も行っていた朝のマラソンを、始めました。 6時に自由が丘の家から、目黒通りへ出て、上野毛から、多摩川に行く。ずっと下って、昔の温室村の辺りから田園調布を抜けて、家に戻ると丁度15キロ程になります。
 ある朝、全ての物が光り輝いて見えた。大きな木も草も何もかも一切がです。その中を体が自然に進んで行く。足が自動的に動き、宙を飛ぶような感じになった。 体もその頃は、顔が赤ん坊みたいにつるつるな肌になった。肌だけでなく体自体が、透き通った様な感じとなった。ところが、段々時がたつと、元の木阿弥に戻る。(笑)
宝珠寺に行ったのは、昭和26年の5月だったから。学校休んで行ってたんですね。春休みだと思ってたけれど。(笑)

―学校休んで断食なんかしてて、いいんですか?(笑)そのときの冴えてる感じというのは、稽古をしているときなんかはどういうふうになるんですか?

多田:植芝先生のご指導を受けていて、先生に触れると瞬間に頭が空になるというのが、感じられるんです。つまり植芝先生と同じ状態になるらしい、とわかりました。

―あ、同調するわけですか?先生の自我がなくなっちゃう。

多田:先生が無心だからでしょうね。

―それは、すごいですね。

多田:前からそうかもしれない、と思ってはいました。然し、その時は、”確かにそうだ”と感じ取ったんです。先生と私とは別の体、という感じがない。  この事を友人に話しても、当時はなかなか信じないというか、分からなかったのですが、最近は素直に信じるようになってきました。

―青木さんがやったときは、たしか脳波をとって、遠当てのときに同調していたそうですね。

多田:気功師が治療している時、患者の脳波が治療師の脳波と同調していると報じられた事があるでしょう。だから最近の人は信じるけど、ついこの間まで、そんな話しをしても、なかなか信じなかったんですよ。

―その瞬間、記憶がない?

多田:いや記憶がないんじゃない。普通より、むしろ透明な、よりはっきりした状態です。そうでなければ、大先生と同じ様な状態になった、ということを感じ取れて、いないでしょう。以心伝心とは、本来この様な事からではないかと思いますね。

―あ、そうか。自分の身体に伝わってくるんですね。

多田:何も分からなかったら稽古になりません。先生に投げられる瞬間には、独特な雰囲気の呼吸がある。それを直に得ることが出来るから、先生に手を取って教えて頂くのが、本当に大切なのです・・。
 天風先生にもお相手を命じられて、色々なことに使って頂きました。そこでもそう思った。先生が色々と、観念を変えて実験されるのですが、先生の体の条件が瞬間に変わる、実にはっきりと分かるんです。
 断食はその後、二回やりました。ヨーロッパから帰った昭和45年にも、家で三週間しました。何かヨーロッパでついた、心の垢を落とすような気持ちでです。  この断食で得た感じが、私の合気道の稽古の中で大切な部分になっています。それが五感の感覚の統御につながっていくんです
 どのようなものにも、やり方のこつというものがあるでしょう。それは決まっているわけじゃない。大切な時にそれがふーっと湧いてくる。  だいたい武道は、使うときに知恵がなくてはいけないといわれる。だけど通常言われる知恵とは違う。瞬間、こうした方がいい、ということが、自然に湧き出て来て、体が自動的に動くのが理想だ。
 日本の武道は、もともと、:ほらあの「猫の妙術」に出てきたように:「為さずして成る」というのが非常に重要だと説かれていますね。植芝盛平先生は「動けば技が生まれる」と言われた。稽古は、そうなるような、道(法)を身につけられるように組織されていなければならない。例えば合気道の後技の基本の稽古で、「(床に)手をつけて」というでしょう。なんで手をつけるかというと、相手を引っ張って崩すんじゃなくて、自分が低くなって手をつけるから、相手が自然に崩れてくる。そういうふうに、自分の身体を整えることによって、自然に技がかかる感覚を、体に覚え込む為です。相手と対立して技をかけるんじゃない。 この訓練をするのが、形の稽古の目的です。その人の程度に応じた形を百回、千回、万回行い、体が自動的に動くようにならなければならない。するとその時の心が、ダーラナ(集中)、ディアーナ(統一)、西洋流に言えば「瞑想」、日本では禅と言うが(われわれは「安定打坐」というけれど)、五感感覚は最大限に活動しているが、それによって、より感じることには、一切心を惑わされない。そういう状態となり、動作も自然に湧き出てくるようになり、それが技になる。
 そのきっかけを得るのが断食の効果の一番のことだと思いました。  もう一つは、前に言いましたように、食物がなくても、気持ちの上で困らないということ。これは本当にありましたよ。イタリアで合気道を始めた頃は、生徒がいないんだから、一日一食、パン一切れだけ、ということが続くことがあったが何ともなかった。(笑)

―今の弟子たちの中で断食したものはおりますか?

多田:今ドイツに行っている林賢二君が月窓寺で稽古して居る時、一週間のを何回かやっています。合気道の稽古も普通に行っていました。入江嘉信君も時々やってる。だけど、皆に無理には薦められません。私は身体にいいと思いますが。よほど気をつけないと、危険な面もありますから。それと、良い指導者が居られる、静かな道場で行う必要があります。海よりも山の方が良いと思う。家でやると、家族が食事するから。こちらは目の前で人が食事をしても平気なのですが、でも食べてる家族の方が気兼ねして・・。最も大切なことは、断食をする日数を決めたら、決して途中で止めないことです。止めると非常に大きな挫折感を、心に持ち込むことになり良くありません。

―最初は桜沢如一さんのところで会った中村エイブさんという人がきっかけだったんでしたね。立山に30日間こもって、仙人に会って、仙人に自分もなってしまったという。その日一日のことが分かってしまったり、人の考えてることが分かったり・・・、

多田:そうそう、それは本当。「僕もそうなってみたいな」と思って。(笑)

―先生って、わりとそういうの好きなんですね。(笑)

多田:なにしろ親父が言ってましたけど、「宏は人の言うことを、なんでもすぐに信じる」(爆笑)

―横山兄弟に「面白いことがあるよ」と言われると、わりとすぐに・・・

多田:「あそこにこういう先生がおられるから」と言われると、すぐに行く。一九会道場も直ぐに行きました。

―迷わずに。ある意味でそれ、先生はすごく勘がいいんじゃないですか?選ぶ時に。その当時に、植芝盛平先生、中村天風先生のところに迷わず行くわけですね。まっすぐに。その前は、船越義珍先生。とにかく無駄なこと、迂回をしないで・・・それって、先生、すごく勘がよろしいんじゃないですか。

多田:そういう点は有り難かったですね。
 然し勘がいいという訳ではありません。とにかく何時も、その時その時、一所懸命稽古なりをして、こうありたいと、心の底で強い願いを持ちながら(それは、時には後で、心の表面に出てくるまで、自分では気が付かないこともあるんですが)求め続けていると、当然その事について、感覚が敏感になる。そうすると、目の前に、そのことに関係有る大切な人や事が、糸で結ばれていた様に、現れて来る。言い換えれば、人事の限りを尽くした時、かすかな光の道が見える。その先に新しい世界がある・・・。そういう事なのです。そういうことを神様の思し召しとか、仏教では因縁と言うんでしょうね。

―多田先生は今でも肉食はされないんですよね。

多田:肉は食べません。骨ごと食べられる魚か、鶏を少し食べますが、ご飯は玄米です。

―でも、先生は弟子に向かってはあまりおっしゃりませんね。食養というか、食餌制限みたいなことは。

多田:野菜を多く食べるといい・・・。90歳位になったら、少し健康法も説けるかな。それまで生きてられないと、健康法は教えられない。(笑)
 天風先生も、そうだった。たしか80歳を過ぎてから健康法ということを説かれたんで、それまでは言われなかった。心身統一法は、生命の力の使い方であって、健康法だとはね、特には言われなかった。

―そういえば、先生も「合気道は健康にいい」とおっしゃいませんものね。じゃあ、90を過ぎたら健康法ですか。(笑)だいぶまだ先ですけど、楽しみにしております。  もう2時間になってしまいましたので、このへんでインタビューを終わらせて頂きます。先生、今日は長い時間おつきあい下さいまして、本当にありがとうございました。

[インタビュウーを終えて]
総合研究で『東洋の身体・西洋の身体』と題した論集を出すと決めたときに、まっさきに思いついたのが多田宏先生に「武道的身体」という主題でロング・インタビューすることだった。
 インタビュー中にもあるように、多田先生は多くの関係者に望まれながら、まだまとまった合気道の本を刊行されていない。植芝盛平、中村天風両先生から伝えられた思想と技法の継承者である「現代の古武士」多田宏先生の談話は、門弟にとってだけでなく、武道に学術的関心を寄せるものすべてにとって貴重な資料となると思う。
 インタビューは武蔵野市吉祥寺の月窓寺道場で行われ、内田がテープから起こした原稿のフロッピーに多田先生が直接ワープロで「朱」を入れられた。また、インタビューのときには少し触れただけの人名や事実についても、先生ご自身が詳細な補注を書き込まれている。 だからインタビューとはいえ、資料的な正確さについては、先生ご自身がお書きになったものと質的には変わらない。
 先生はときどきかなり早口で話されるので、テープ起こしの段階で聞き取れなかった箇所がいくつかあった他、「何のことを話しているのかふつうの人は読んでも分からないんじゃない」とおっしゃって、先生が削除された箇所も二、三ある。むろん、それによって資料的な価値が減ずることはないはずである。それから門弟を相手のインタビューにしては先生の口調がずいぶん丁寧だという印象を受ける方がおられるかも知れないが、実際には先生が自分の言葉遣いをちょっとだけ改められているのである。
 長時間にわたるインタビューにおつきあい頂いた上、緻密な校正までして頂き、多田先生には感謝の言葉もない。拝して御礼申し上げるとともに、このご恩には今後の私自身の合気道普及の努力を以て報いたいと思っている。

「このインタビューは『東洋の身体・西洋の身体』(1994年度神戸女学院大学総合 研究助成共同報告書・村上直之・渡部充・内田樹共編、1995年4月刊)に収録され たものである。」


神戸女学院合気道部 へ戻る
トップページ へ戻る