神様と仏様の違い


神様仏様一生のお願いです とよく聞きます。

神様は神社にいますが、仏様は一体どこにいるんですか?

また神様と仏様の違いを教えてください。(R.O)


そうですよね、「神様仏様、一生のお願いです」とお願いはしてみても、どこにいるのか、はたまた、いるかいないのかも分からないような神様仏様じゃ、大してあてにはなりませんものね。

神様は神社や教会にいて、仏様は寺院にいるのかなぁ〜?それとも、お米の中におわすのが仏様で、大自然の中にいらっしゃるのが神様なのか・・ともかく出会ってみないことには、どこにおわすのか分かりはしなし、その違いも分からないよね。

で、そんな神様仏様に「一生のお願い」をするのでは、なんとも頼りないので、私なんかは一生懸命「あてになる神様仏様」を探し続けたわけです。けれども、結局、自分の願いを叶えて下さる神様仏様には出会うことが出来ませんでした。

ですから、ご質問のお応えにはならないかもしれませんが、ただ、願いを叶えて下さる神様仏様には出会えなかったけれども、どこまでも自分の願いを叶えたい「わたし」、自分の願いばかりを追いかけどおしの「わたし」というものに出会わされたその時、そんな「わたし」というものを照らし出して下さるはたらきをいうか、光というのか、そんなものを実感しました。

自分の願いを追いかけどおしの私を指し示し、そんな私に懸けられた願いのあることを指し示して下さる光に出会わされるとき私たちは初めて神様と仏様の違いを知らせていただけるのだと、その時、私が探さなくとも私を照らして下さる仏は仏自ら姿をあらわして下さったんだと私は思っています。

たとえば、『人間を超えた力をもち人間を支配する力をもつのが神、それに対して仏というのは、絶対者ではなく「覚者(めざめたるもの)」といわれるもの、つまり 真実の智慧というものを悟ったものをいう』と、神仏の違いを頭で分かってみても、自分を離れたところに神仏をおいて、その神仏に自分の願いを懸けているのでは、神仏の違いもなにもない、妄想でしかないんじゃないか、神様仏様一生のお願いです」 と、お願いをするとき、私が拝んでいるのは神様仏様ではなく自分の欲望を拝んでいたんだ・・除災招福を願いながら、「災いや福とは何か」すら知らない私なんだ・・・と教えるのが仏教じゃないのかな〜。

お聖教のどこにそんなことが書かれているのだと言われたら、自分勝手に南無阿弥陀仏を心の重心としてると思い込んでる私にはかえす言葉もないし、阿弥陀さまだけでなく、いろいろな神様仏様がおられ、それぞれの神様仏様を信仰される方からみれば、私などそれら神様仏様を何一つ知らずに何を独りよがりなことを言ってるのだとお叱りを受けるに違いありません。

だから・・と逃げるわけではないけれど、どうか、あなたにはこのご自分の問いを大切に、いろんな方からお話をお聞かせいただいて欲しいと心から念じます。

なぜなら自分自身に生きてはたらいて下さっているはたらきこそが神仏だと私は思うからです。何が神で何が仏だと概念を掴んでみても私の頭で掴んだものなどすぐに崩れてしまいます。神仏は頭で掴まなくとも確かな事実として自分にはたらいて下さっている、その事実に出会って欲しい、そしてそのために自分の問いを大切にして欲しい、自分の問いが自分を問うて下さる。 

探していた私は仏に探されていた私です。


回答いろいろ

浄土真宗本願寺派研修部編集「人生の問い」回答
      


ゴシンのQ&Aもどき

「神様といったって神社だけじゃないよね、キリスト教の神様だっているし、仏様だっていろんな仏様がいるし、その違いを浅学goshinなんかに聞くのが無理な話だよ、
”探していた私は仏に探されていた私”なんて訳の分からないことを言って誤魔化すに決まってるんだから」
  

    おうおう、そうくるか〜(^^ゞ

    だけどgoshinにとって神仏の違いといったら「私が探す」のか「私を探してくれる」のか、その違いだけ。「私が」探している限り仏には出会うことが出来ないんじゃないかな・・って。

    「私が」探す、「私が」信じる、「私が」信じなければならない・・と私は思っていたんだけど、結局私の場合は神仏の存在を信じることが出来なかった。その私の「信」というものを問いかけてくれたのが仏だと思う。だから「探す」のではなく「探されていた」。

      

「神仏がいると信じるのが宗教でしょ、私はちょっと疑ってるけど、それでも、いるかもしれないから、一応両方にお願いしておけばいいかな〜って。だって人間の力ではどうにもならないことがあるじゃない、そういうことはやっぱり神様仏様にお願いしておこうかなって。」
 
    神仏は思いどおりにならない人生を思い通りになるようにお願いする対象だと思ってるんだよね、だけど、どこにいるかも、いるかいないかすらも分からない神様仏様なんかホントは大してあてにしてないんでしょ?

    あなたってどこまでもアバウトなのよね。普通は、どこにいるのか、どんなお方なのかも分からずにお願いしたところでホントに願いを叶えて下さるかどうか不安なので、素性のはっきりした?信じられる神様仏様を探そうとするけどね。

     
「”いい加減 goshin"に言われたくないよ。
そんなことわかっているけどなかなか見つからないし、私も信じ切ることも出来ないけど、いちおう藁をもつかむというのが人間の気持ちじゃないの?
  
それにお願いばかりしてるわけじゃないよ、神様仏様に向かうと少しは謙虚な気持ちになるし、ちょっとは神様仏様を見習って良い心にならなきゃとか、反省もさせられる」
  
    ああ、欲深いあなたを謙虚に反省させて、悪い人間を良い人間にしくれるのが神様仏様だと思ってるんだ。
      
「そうでしょ、goshinだっていつも言うじゃないの”願いを懸けてばかりいる私に懸けられた願いを指し示してくれるのが阿弥陀さま”だって。」
  
    願いを懸け通し、自分の思いを追いかけどおしと気づかされても、それを改めることはおろか真に謙虚になることも出来ない。そんな人間を煩悩熾烈の凡夫、極重悪人と呼び覚ますのが阿弥陀さまだとは言ったことあると思うけど、悪い人間を善い人間してくれるとか、弱い人間を強い人間にしてくれるなんて言ってはないよ。悪い人間だと、弱い人間だと照らしてくれる光が阿弥陀さま。
     
    どこかにいる仏様が悪い人間を良い人間にしてくれたり不幸な人間を幸せにしてくれる。。って考えるのは仏教じゃない、罪福信っていうんだよ。どっかにいるかもしれないと私が探さなきゃならないような神仏なら神も仏も違いはないと思う。
     
    罪福信から離れられずに神仏さえも利用しようとしてる私なんだって教えてくれるのが仏教だと思うよ。だから、言葉を変えると「私を探してくれているのが仏」私が探さなきゃならないようなのは仏じゃない。
        
「探すの、探してくれるの、って全然質問の答えになってないと思うけど。
”自分の願いを追いかけどおしの私に懸けられた願いを指し示して下さるはたらきに出会わされるとき初めて神様と仏様の違いを知らせていただける”とか、”私が探さなくとも私を照らして下さる仏は仏自ら姿をあらわしす。”とか、そんなそんなことばっかり言ってるから、この仏教Q&Aは”Q&Aもどき”なんて名前を替えなきゃならなくなったのよ。願いを叶えてくれる神様仏様なんていないって言いたいわけ?」
  
    神様という絶対者が存在するかどうか私には分からないけど、私はそういう存在を「信じる」ことが出来ない、いつも言うことだけど「信じる」という自分の心が信じられなかった。

    自分のそとに人間を超えた力をもつ神がおわしてその神の存在をわたしが「信じる」・・私はそういう神を「信じる」ということができなかった。

    除災招福の神、人間を超えた力をもち、人間を支配する力をもつ神・つまり神の意志に添わない者を罰するのが神様を信じることも、神をまつり、祈りによって、加護を得ようとしたり利益を得たり出来ると信じることも私には出来なかった。

    それに対して仏教でいう仏は、絶対者ではなく「覚者(めざめたるもの)」、つまり 真実の智慧というものを悟ったものをいう・・外から人間を支配するのが 神なら、仏は人間のうちにあって人間を目ざめさせるものっていうのかな・・ だけど、こんな違いを頭で掴んだってなんにもならないんじゃないかと思うのよね。頭で掴んだ概念なんかが信じられるはずないもん。そう思わない?

    そんなあるかないか分からないような神仏でなく、それ以外に信じられるものはないほどに確かな確かな事実として自分を照らして下さるのが仏。仏を問うとき自分が仏から問われてる・・とまあ・・ いつも言うことはワンパターンだけど、願いを懸けてばかりの自分が問われる・・

     

「何か一生懸命言おうとしてるってことは感じるんだけど・・やっぱり分かんない。
なんだか、”向き”が全然違うのかな・・探すのじゃなくて、探されている?信じるのでなく信じられている・・そう、生きているのではなく生かされている・・ああ、またレイの赤字で誤魔化されるんだよね」
 
    人生は自分を見つける旅。このページは自分さがしのページ。
    「問い」から見つけるのは「答え」ではなく「自分」
    自分の問いの中に自分こそが問われる。自分の問いの中で本当の自分に出会わされる。
      
    問いに問われているのはいつも「自分」なのだ。
     
         
          
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