奇跡の人


東京芸術劇場「奇跡の人」1992/12/13 ☆☆☆

言わずと知れた、ヘレン・ケラーの物語である。この物語については、小学生の頃、教科書か何かで読んだ記憶もあるし、アン・バンクロフトの映画もテレビで見た記憶があるし、リメイク版は劇場で見た記憶もある。また「ガラスの仮面」の、北島マヤと姫川亜弓の熱演も忘れ難い(^^;)。  この物語の見所は、やはり、最後のシーンをいかに盛り上げるか、にかかっているような気がする。「物には名前がある」その事実をヘレンが初めて知る瞬間をどうもり上げるか、その一点に集約して行くような展開を期待して見ていた。

しかし、実際はどうであったか。セット(かなり巨大な物で、一軒家の半分くらい。2階にサリバン先生を乗せたままゴロゴロ動く)が移動する音や、過去の回想シーンで、スピーカーから流れて来る声に興ざめしてしまった。大竹さんがいかに盛り上げても、スピーカーから声が流れてくると、生の現実に引き戻されてしまう。

熱演をしていても、劇中劇を見ているようで、目の前にいるのは、大竹しのぶであり、中島朋子に過ぎなくなってしまう。そのせいか、映画「Wの悲劇」と重ね合わせて見てしまった。中島さんは、可愛すぎたような気がする。ヘレンはもっと動物的でいいと思った。それから最後の「瞬間」。北島マヤと姫川亜弓があれほど悩んだ(^^;) 「瞬間」があまりにもあっさりしすぎていた。現実とはそういう物だ、劇的なんてことはない、ということなのかもしれないが‥‥。舞台をみているんだから、夢を見せてほしかった‥‥。身勝手な感想とは十分承知しているけれど‥‥。

頭の中にこうあるべき姿が焼き付いている芝居を見ることのむつかしさを痛感しました。この題名を見ていつも考えるのは、誰が、奇跡の人なのか、ということ。単純に考えると、ヘレンであるが、深読みすれば、サリバン先生ということになろう。しかし、もっと深読みすれば、人類全体のことを言っているのではないか、という気もする。人が生きていること、それ自体が奇跡、なのだと。

そして、何が奇跡か、それは、人類が言葉を持った事だと思う。そして、その言葉を使って、コミュニケーションが可能になった事。しかし、コミュニケーションとは、言葉があれば伝わるという類いの物では無い。>「フーリガン」 大声で叫んでも伝わらない、ということはある。なんとなれば、コミュニケーションとは、心を伝えるものだから。

その事を如実に教えてくれたのは、ヘレンの父親とお兄さんとの確執であった。言葉が自由に話せる二人の間にコミュニケーションが成立していなかった、という事実にである。

時かけ


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