思考と言語


 

言葉はいつも思いに足りない......
 by鴻上尚史(ジュリエットゲームより)


言語が思考を規定する?(言語相対仮説)
言語無き思考
表現のための言語と思考のための言語
身体と言語
二つの言語、身体と言葉



言語が思考を規定する?(言語相対仮説)
   心理学の理論の一つに次のようなものがあります。文化の違う人々は違う言葉を持つので、同じ世界を見ても違った感じ方をする。言葉が違うと世界が異なって見える。例えば同じ「雪」ついて、アメリカ人はせいぜい4〜5個の単語しか持たないのにイヌイット(エスキモー)は30もの単語を持っている。これは雪に対する考え方が違うからだ、というものである。これは発案者の名前を取ってサピア・ウォーフ仮説とも呼ばれます。
    この考え、なんとなく正しいような気がしません? 我々が「ワビ・サビ」を理解できるのはこれが日本人特有の文化であり、 このような感覚を持っているからである。ゆえにこのような単語が存在する。一方でいくら外国人にワビサビの感覚を教えても彼らはこれに対応する単語を持っていない、もっと言えば感覚を持っていないので理解できない。これは異国の文化・言語を理解できないときによく用いられる常套句でもあります。
   しかしこの考え方は本当に正しいのでしょうか? 人間は言語が違うと 同じ物でも違って見えてしまうのでしょうか? この考え方、言語相対仮説に対して反論を出した学者が居ます。カテゴリー研究家として有名な心理学者のエレノア・ロッシュです。彼女は色に付いて2種類の言葉しか持たない、ニューギニア高地の原住民・ダニ族を調査し、彼らの色の感覚がそれよりも多くの色についての言葉を持つ人々と変わらないことを証明しました。詳しい手続きは省きますが、要するに、色に付いて2種類の言葉しか持たない人々でも我々と同じ様に赤や青といった基本となる色(= 焦点色)についてはわれ我と同じように記憶、再生できることを実験により示したのです。言葉が違っても、単語が無くても我々と同じように色を認識できる。この事はサピア・ウォーフ仮説の見事な反証となりました。
 

言語無き思考
   「言語は思考のための道具である」と、かの有名な心理学者、ヴィゴツキーは説きました。思考のための道具であるが、道具が思考を規定することはない、と上記の実験結果は物語っています。 ヴィゴツキーによれば、子どもは大人が使っている言語を自分の中に取り込む(内化する)ことで、その文化で使われている語の用法を獲得していき、言葉を話せるようになるといいます。
  つまり、自分が考えていること・表現したいことを、大人が使う様に言葉を操ることで、外に出していくことが言語を獲得する様相であるというのです。
   もう少し要約するば、言葉には表現のための言葉と思考のための言葉が有り、表現のための言葉を獲得していくことが言語獲得になる。 また、表現のための言葉のほかに思考のための言語、言語で表現 できない思考というのが存在する、ということになります。
 

表現のための言語と思考のための言語
   子どもを例に取るまでもなく、われわれは確実に言語で表現できない思考を持っています。表現しにくい感情、イメージ、運動についての 感覚等、言語化しにくい・できない思考というのが存在します。考えてみれば、人類は言語を獲得する以前から思考をしているわけだし、いわゆる人が使っている記号としての言語を持っていないと思われる動物も思考をしているでしょう。一見すると言語が思考を規定しているように見える現象も存在すすが、発生学的に考えればそれはありえないことでしょう。言語はあくまで思考を補助する道具であり、言語だけで全てを表現するすることは無理だと考えられます。
 

身体と言語
   コンピュータに言語を教える、ということはコンピュータサイエンスに携わる人々の夢の一つです。しかし現在の方法、つまり記号の集合として コンピュータに対象を認識させるという方法では、人と同じ認識は得られず、 したがってコンピュータは言語を獲得できないでしょう。人はある物を認識するとき、その対象の特徴(属性)を一つ一つ調べていってその対象に対する印象(イメージ)を形成するわけではなく、まず物ありきであり、その対象との活動を通し、どのような面が我々にとって意味が有り、他の物と識別するときの指標となるかを記憶していきます。つまり、言語(記号)だけでなく、身体を使った活動を通すこと、対象と関係を持つことでその対象を記憶していくのです。また他の人々とその対象について語るとき、同じ面に目を向けている(注意をしている)から話しが通じるのであり、もし違う側面に注意を向けているもの同士が話しをしても、その対象についてのコンセンサスはとれないでしょう。我々がある対象、とくに目に見えるものに対して同じ認識を持てるのは、我々が基本的には同じ身体構造を持ち、その対象に対して同じ活動・関わり合いが出来きるからであると考えられます。つまり、同じ認識を持つには共通の土台、この場合は「身体」を持つことが必要となってくるのです。
   昔のコンピュータ学者はこの身体といった側面には眼を向けず、言語は記号であるとばかり考えていました。記号の処理であるならば、現在のコンピュータのシステムで処理可能である、今は無理でも将来処理速度が上がれば人と同じ言語活動は可能である、と考えていました。しかし今述べた理由により、それは不可能であると考えられます。
   最近ホンダが二足歩行可能なロボットを完成させました。あれはコンピュータ、またはロボットが言語を獲得できる可能性をみせた第一歩であると考えられます。 少なくともあのロボットには、「歩く」という感覚や「倒れる」「前」「後ろ」といった人と同じ空間的な感覚(情報)は学習可能だと思われます。このような活動を通した学習は、言語獲得の基礎であるならば。
 

二つの言語、身体と言葉
  友人の似内氏はこのような言葉を述べています。

”僕たちは毎日コトバを使って生活していますが、生活で使われるコトバと、精神のより深いところで使われるコトバは別のものでなければなりません。僕たちは詩のコトバを使って生活することはできませんが、生活のコトバだけで生きていると心に潤いがなくなってしまいます。そして、僕たちはその2種類のコトバがあるという事実を忘れ去ろうとしているのです。「そんなクサいコトバは恥ずかしい」、「難しいコトバは分からない」
・・・こんな風に。 ”

  心理学者や哲学者が一生懸命考えた答えは、案外身近なところの普通の人々のほうが簡単に得ていたりするのかも しれません。

 ”重要なのはその言語を話せるかどうかよりも、内容である”

 と別の友人も言っています。言葉と人、普段何気なく使っている言葉も考え直してみると奥が深いですね。だから考え過ぎると何も話せなくなってしまうんですけど(笑)
 

'99/10/28  文責  泉 貴之