【見沼自然の家】
(みぬましぜんのいえ)
 
見沼ふれあい農園のちょっと先、こんもりとした林(防風林)の中に見沼自然の家があります。
あまり目立たないので、うっかりすると普通の民家だと思って通りすぎてしまいます。
日曜、祭日にはボランティアの方がいて、自由に休息できますよ。見沼散策の拠点になっています。夏の時期では、午前9時位から午後4時位まであいています。

 
写真写真

 
【解説】

見沼自然の家は江戸時代末期の建築物で、入母屋造りの立派な農家だ。(財)埼玉県生態系保護協会(TEL:048-645-0570)が川口市から委嘱を受け管理している。
日曜、祭日は協会のボランティアが常駐しており、訪れる人に周辺の動植物や見沼の歴史について解説してくれる。野鳥のための池や、協会の会員が作成した昆虫の生息場となる「虫げんき」や蜂の巣となる「見沼蜂マンション」などもある。また、春にはよもぎ餅作り、暮れにはしめ縄づくりなども催される。
毎月第2日曜日には、この地域のゴミ清掃が、ボランティアによって定期的に行われている。

(新見沼見て歩き[見沼田んぼ散策ガイド]から)
 

【歴史】
「見沼溜井と見沼代用水」

見沼溜井は、寛永六年(1629)に伊奈半十郎忠治によって、足立郡木曽呂村(現・川口市)と附嶋村(現・浦和市)の間に八丁(864メートル)にわたる堤を築き造成された。下流域の谷古田領外七ヵ領221ヵ村の用水源とするためで、堤の東西2ヵ所に用水取入樋が設けられ、5,000ヘクタールの水田を灌漑した。この溜井は、周井十里余(約40キロメートル)に及ぶ広大なものであったが、水深が浅く、用水量も少なかったために、下流の農民たちはたえず水不足に悩まされた。
約百年後の享保十二年(1727)に、江戸幕府は勘定吟味役格の井沢弥惣兵衛為永に命じ、この下流域の水不足を解消し、あわせて見沼を干拓し、用水源を利根川に求める「見沼代用水路」の開削に着手させ、翌十三年の春に完成をみた。その規模は、埼玉郡下中条村(現・行田市)の利根川取入口より延々60キロメートルにわたる大用水路で、途中、元荒川を埼玉郡柴山村(現・白岡町)地内で伏越で潜り(当初は掛渡井)、綾瀬川を足立郡上瓦葦村(現・上尾市)地内で掛渡井で渡り、それより東西の用水路に分岐して、見沼の水田地帯に達するものであった。
この用水路の開削にともない、元の見沼溜井は約1,200ヘクタールの肥沃な耕地となり、用水路沿いの他の地域でも約600ヘクタールの新田が造成された。総灌漑面積15,000ヘクタールにも及ぶ見沼代用水路は、昭和の今日に至るまで、県南部の穀倉地帯を潤す大動脈として重要な役割を果たしてきた。
ところが、昭和の初期になり、当時の東京市が、この見沼溜井地域に着目し、市民の水道用の貯水池にしようと計画したことから、この広大肥沃の耕地が水没の危機にさらされることになった。昭和九年九月、この計画が明らかにされると、先祖伝来の耕地が失われると反対する農民や、水没予定地をかかえる市町村がこぞって反対に立ち上り、地域の死活問題として幾度か協議が重ねられた末、埼玉県知事への陳情、東京市への計画白紙撤回、測量の中止が申し入れられた。
こうした一連の阻止運動は、昭和九年十月貯水池設置反対期成同盟会(会長・神根村助役・石井至)の本部が神根村(現・川口市)役場内に置かれ、近隣十三市町村(浦和市、大宮町、原市町、尾間木村、三室村、大門村、野田村、七里村、春岡村、片柳村、大砂土村、芝村、神根村)の農民がこぞって参加したのをみても、その規模の大きさや強力さをうかがうことができる。地元民の死力を尽した反対運動もあり、昭和十四年九月、東京市はこの計画を遂に断念した。
以後、見沼代用水は肥沃な水田地帯の灌漑用水として、地域の人たちに親しまれ、今日の姿をとどめているところである。

(見沼自然の家の掲示板から)

 
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