見沼の歴史その3
−代用水路の開削と新田開発−

 見沼溜井を水源とする溜井周辺や下流域の村々は、開発が進むにつれ水不足に悩まされました。また、上流域では排水不良に苦しむ村も出現し、溜井の功罪は相半ばといえます。
 さらに、溜井の一部を干拓して造成した入江新田については、水不足に悩む村々と訴詔となり、取り潰しとなりました。こうした状況の中で、これらの村々は、幕府にたびたび嘆願をして溜井廃止を迫ったのですが、取り上げられませんでした。
 たまたま、享保年間、日光門跡輪王寺宮4代公寛が膝子村(大宮市)光徳寺に立ち寄った折に、農民が溜井の取り潰しを門跡に嘆願し、これが将軍吉宗の耳に入ったと伝えています。いずれにせよ早くから将軍吉宗は見沼干拓の必要性を認識していたものと考えます。

将軍吉宗の紀州流の採用
 将軍吉宗は、就任以来、特に財政建て直しに努力し、新田開発を奨励し、年貢増徴による収入拡大を図ってきました。しかし、これまでの伊奈氏が手がけた、いわゆる関東流の手法は、ほとんど行き詰まっており、当時残された県内の開発可能地は、小規模な未開発地か、大規模な沼沢地ぐらいであったのです。そこで、溜井方式に変わる方法として、用排水分離方式を採用することとしたのです。これは、従来灌漑用として造成された溜井の池沼の水を放流して干拓し、その代わりの用水を大河川から取水して、用水路を新削して導入しようとするものです。
 そこで、吉宗は、かつて紀伊藩主時代に優れた土木技術の才能を示していた井沢弥惣兵衛為永を、享保7年(1722)9月に召し出し、「在方御普請御用」に任じ、勘定所出仕を命じたのです。為永は、以来、幕臣として普請工事に携わることになりました。その工法は、伊奈氏の関東流に対応して紀州流と呼ばれています。

開発計画の発表
 享保10年(1725)9月、幕府は紀州藩士から幕臣に取り立てられた勘定吟味役井沢為永に見沼干拓の検分を命じました。為永は、早速下見に現地を視察したのです。これに驚いた下流の村々では、直ちに開発反対の陳情をしました。これには、「利根川の用水受益の末端村々までの距離が20里(約80km)もあり、用水が行き渡らないのではないか。また、降水量の少ない時には、用水が不足するのではないか。そして、溜井の水は養分が豊富であるが、利根川の水は山水であり、荒水であるから稲の生育には芳しくなく、干拓は反対である。」と不安を述べ反対したのです。 しかし、勘定奉行筧播磨守正鋪は、幕府は既に見沼の開発計画を決定しているとして、激しく叱責したのです。一方、為永は、農民の不安を解消するために、溜井に代わる用水路を開削する計画を明らかにして、農民たちの説納につとめました。

流域調査と測量開始
 享保11年(1726)8月、御普請役保田太左衛門らが派遣され、続いて為永以下8名が現地入りして、沼内の測量や水路候補地選定を開始しました。沼内は勿論だが、大小の水脈、多くの沼沢地の未墾地の分布状態なども詳しく調査しました。そして、利根川・荒川の治水も考慮しながら、埼玉郡、足立郡にわたって、延々20里に及ぶ用水幹線を築き、これを分流することにより、両郡内の諸沼も干拓し、新田を開発するという大計画が立案されたのです。
 水源となる利根川は、集水域が広大で、常に豊かな水が保たれ、用水確保の不可能になる恐れはなかったのです。用水の取り入れ口には行田下中条の地が選ばれました。ここは従来から洪水の破堤はなく、常に、水深が一定し、一時的に川瀬に変化が現れても、旧に復するという好条件を備えていたのです。このことは、240年後に建設された利根大堰が同じ場所であることからも証明されています。

見沼代用水路の開削
 水路工事の測量は、享保11年に着手され、翌12年から水路の開設が開始されたのです。利根川沿岸の行田市下中条から延々60kmに及ぶ水路は、13年春に完成しました。取入口には、巨大な木造樋管が築造され、星川筋を利用して用水を導びき、元荒川と交差する白岡町柴山では、その川底を通す伏越をつくり、さらに綾瀬川との交差点である上尾市瓦葺には、その上を掛渡井で通し、その下流で、東縁、西縁の両用水路に分流し、見沼に導水したのです。これらの工事にはほとんど狂いが見られず、しかも、わずか6か月という短期間で完成させたことは、技術水準の高さにはおどろかされます。
 これと同時に見沼溜井の中央に芝川排水路が開削され、溜井の放流が行われました。

見沼新田の開発
 見沼干拓による新田開発は、見沼周辺の17か村の村請と江戸町人越後屋、野上屋、猿島屋の請負のほか入江新田を造成した加田屋坂東家も加わって進められました。新田開発は、享保13年春までに完了させ、3年の鍬下年季後の同16年に検地が実施されました。
 見沼干拓の総面積は、1,228町余歩で、このうち道路、水路敷などを差し引かれた1,172町歩余が水田と化したのです。なお、越後屋、野上屋、猿島屋の町人請の分は間もなく従前見沼で鯉漁していた山口屋藤左衛門に売り渡されたので、藤左衛門の開発した土地は、その屋号から山口新田と呼ばれたのです。

見沼代用水の灌漑面積は1万5000町歩
 見沼代用水路は、享保13年2月に完成し、同3月元圦(もといり)が開けられ用水が導入されたのです。新設用水路は、約5万間(約90km)、築堤土揚用地178町歩(1.77平方km)余。うち3分の2は不毛地や崖腹で、旧来の田畑の潰地は65町歩でした。建設の総労働力は、延べ90万人、工作物等の費用は2万両という巨額でありました。しかし、見沼新田だけでも1,172町歩余が良田と化し、年々4,960石余が年貢米として上納され、水田が乏しかった溜井沿岸の村は、30町歩から200町歩の新田を請地することができました。
 その後、見沼代用水路周辺の埼玉沼(行田市)、屈巣沼(川里村)、小林沼と栢間沼(菖蒲町)、柴山沼と皿沼(白岡町)、河原井沼(久喜市・菖蒲町)、笠原沼(宮代町)、鴻沼(浦和市・与野市)、鶴巻沼と丸ヶ崎沼(大宮市)等の諸沼も同時に干拓され、分水路も新削されて、新たに600町余の新田が出現し、灌漑面積は、1万5000町歩を超える大灌漑用水が完成したのです。

見沼通船堀と見沼舟運
 幕府は、見沼代用水路開削後、水路の有効活用を考え、代用水路縁辺の村々から芝川、荒川を通って、江戸の河岸まで年貢米、その他の物資を運ぶ通船計画を立て、井沢為永に芝川(見沼中悪路)と代用水路との間に通船堀を構築させたのです。通船堀は、用水路と芝川が最も近い八丁堤(浦和市大間木)に設置されました。両河川の水面の高低差は3mもあるので、2ヶ所の閘門を設けて、上下3段の水面調節によって、船の上下や通行を考案設計されたのです。
 この閘門式運河は、日本最古のもので、スエズ運河に先立つこと138年、パナマ運河より183年も早い建造であったのです。

著者プロフィール  秋葉 一男(あきば・かずお)
1927年埼玉県白岡町に生まれる。國學院大學文学部史学科卒業。埼玉県立博物館学芸部長、同民俗文化センター所長を経て同文書館長で退職。現在、幸手市史編集委員長、埼玉県警察学校講師、著書「埼玉ふるさと散歩・大宮市」(さきたま出版会)、「埼玉県の地名」(編著、平凡社)、「吉宗の時代と埼玉」(さきたま出版社) 他。


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