見沼の歴史その1
−見沼溜井以前の時代(2)−

 見沼の古代から中世にかけては、口碑伝説に語られたものも少なくありません。古記録や諸書によて見沼にまつわる事柄をとりあげてみましょう。

見沼わきの黒塚の鬼女伝説
 大宮市堀の内の大黒院のあたり高台は、全くの住宅街になってしまいましたが、昔は見沼を挟んで寿能城蹟と対峙して、鬱蒼とした森林の奥山でありました。ここは黒塚と呼ばれ、謡曲や歌舞伎に取り入れられている鬼女伝説の地なのです。『諸国俚人談』には、「黒塚は武蔵国足立郡大宮駅の森の中にあり、又奥州安達郡にもあり。しかれども東光坊悪鬼退散の地は、武蔵国足立郡を本所と言へり。即ち東光坊の開基の東光寺を言うあり。紀州那智の記録にも武蔵国足立郡の悪鬼退散とありて、奥州のことは見えず」と記して、この黒塚を鬼婆伝説の本所としています。
 黒塚は堀の内村の古名で、大宮市堀の内町3丁目目の黒塚山大黒院(真言宗智山派)にその名残りをとどめています。同寺では毎年2月の節分会には不動明王尊の土壇を設け、紫燈護摩を修して追儺招福の豆撒きを盛大に行います。その際「福は内」を三祷しても「鬼は外」とは唱えないことでも知られています。
 この伝説は、現在大宮市宮町にある大宮山東光寺(曹洞宗)の創建にまつわる阿闍梨宥慶の話として伝えられています。もっとも東光寺はかつて堀の内にあったとも伝えています。『新編武蔵風土記稿』に東光寺の記事として次のように記してあります。
 「東光寺 大宮山と号す。曹洞宗新染谷村常泉寺末なり、寺記及鐘銘に拠るに、当時は昔紀伊国熊野那智山光明房の住侶、宥慶阿闍梨関東下向の時、当国足立原に宿りて黒塚の悪鬼を呪伏し、その側に坊舎を立て東光坊と号す。是れ熊野の光明東国に輝く、と云ふ意を表せしとなり。今按に此説いと浮きたる事なり。想ふに此所に黒塚と云う塚ある故に、彼の平兼盛が陸奥の安達原の鬼を詠せし歌に附会せしならん。さて当時は天台宗の由記録に見ゆ、真言宗なりとも云ふ。誰か是なりや、其の後、曹洞宗の僧、梁室和尚中興して一寺とし、東光寺と号す。この僧長享元年(1487)正月28日に化す。本尊薬師客殿に安置せり」とあります。このように福島県の安達太郎山の鬼女伝説と酷似しています。「此説いと浮たる事なり」と書いて伝説の黒塚の付会の説としています。

見沼と吉野原合戦
 大宮市吉野町にかって行人塚があって、吉野原合戦で戦死した上杉方の将兵の首を葬ったところといわれていました。吉野原合戦について「岩槻巷談」には、管領上杉憲房が江戸城に居城していたところ、岩槻城主太田資家が、北条氏康に内通して、品川表で北条軍とともに憲房を破ったとしていますが、記述内容の年代・人物・事件について誤記があって歴史的真憑性(しんぴょうせい)については甚だ疑問であります。しかしながら、吉野原で両軍の合戦が行われたというのは、地形的にみて極めて妥当性のあるものと思われます。「岩槻巷談」にあるように河越と岩槻の間に見沼があり、船橋は見無間の幅が最も狭い地点でありますから、吉野原で上杉・太田両軍が合戦をした事は十分考えられます。
 そこで、煩を厭わず「岩槻巷談」の「吉野原合戦之事」の記事を掲載いたします。
     吉野原合戦之事

 「岩槻巷談」は、江戸時代の宝暦年中(18世紀中頃)書かれたもので前述したように疑問が多いのです。まず吉野原合戦の時期ですが、「岩槻巷談」では享禄2年(1529)となっていますが、少くとも大永5年(1525)以後には上杉と岩槻太田は同盟関係にあるので、以前のことと考えられます。また岩槻城主は太田資高ではなく太田資頼です。しかし、先述したように吉野原で合戦が行われたというのは妥当性を有するといえましょう。

著者プロフィール  秋葉 一男(あきば・かずお)
1927年埼玉県白岡町に生まれる。國學院大學文学部史学科卒業。埼玉県立博物館学芸部長、同民俗文化センター所長を経て同文書館長で退職。現在、幸手市史編集委員長、埼玉県警察学校講師、著書「埼玉ふるさと散歩・大宮市」(さきたま出版会)、「埼玉県の地名」(編著、平凡社)、「吉宗の時代と埼玉」(さきたま出版社) 他。


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