フリーマンの随想

その68. 5回目のイタリア


* 失敗と成功の個人旅行 *

( June 18, 2005 )



 今年もまた、イタリアに2週間の個人旅行をしてきました。 これでこの国も5回目となります。  今回は意識的に地方の小さな古い歴史のある町ばかりを、ローマから北に向って一つ一つ拾うように訪れました。  拠点都市のホテルに3〜4泊し、昼間はホテルに荷物を預けて粗末なリュック一つでバスやローカル電車を乗り継ぎ、 主に日帰りの旅行をし、毎日平均10kmは歩きました。 そのためか、右足のくるぶしが内出血し紫色に膨れ上がりましたが、 痛くないので湿布をして歩き続けました。 73歳とは言っても、まだまだ元気です。

 肥満防止のため日本では節食+原則禁酒していた私も、美食と美酒の国イタリアに行ったら、思い切り飲み、 かつ食うことにしました。 朝は8時頃ホテルでゆっくり朝食、昼は軽い一皿物+ビール0.5リットル、 夜はイタリア人並みにアンティパスト+パスタ+魚か肉料理+ドルチェに、更に白ワイン1本を連日平らげました。  ワインは予め調べておいたその土地ごとの銘醸品を選んで毎日変えましたが、残念ながら、どれも美味しく、 微妙な差は全く理解できませんでした。 おかげで、16日間でちょうど2.5kg肥りましたが、この程度でしたら、 1カ月で元に戻せるでしょう。 帰国したとたんにまたキッチリ禁酒節食して、1週間で1kg減りました。

 今年は徹頭徹尾イタリア語で通そうと考えていた私の野望は無残にも打ち砕かれました。 私がイタリア語で話しかけると、 ほとんどのイタリア人たちは、英語で答えてくるのです。 たどたどしいイタリア語で更に迫ると、 またもや流暢な ( あるいはつたない ) 英語が返ってきます。 イタリア社会への英語の普及は、急速に進んでいると感じました。  それと、日本人は多少は英語が分かる人たちだという理解が、彼らの間に広まっていることも作用しているようです。  結局、私はいつも話の途中から英語を使わざるを得ませんでした。  要するに私の独学のイタリア語があまりにも 「 つたなかった 」 ということです。

 5年前と比べると、イタリアも少しづつ変わってきているという気がします。幾つか例を挙げてみましょう。

1.ホテルやレストランでのコーヒーが、エスプレッソかカップチーノに限られていたのが、この頃は、 どこでもウェイターの方から 「 アメリカーノ? 」 と聞いてきます。 これは私には有り難いことでした。  もっとも本場?のアメリカンコーヒーに比べたら、まだまだ濃くて苦いのですが。

2.急増?気味の米人観光客たちのあまりにカジュアルな服装に押されたためか、 キチンとしたホテルやレストランのドレスコードが緩くなってきています ( ジャケット+タイがジャケットのみとかに )。  彼らは男は半ズボン、半袖シャツにサンダルシューズ、女はショートパンツにタンクトップという格好で、街中は勿論、 厳粛な寺院にまで入ってきます*。 そこで主に米人用に、肌を隠すための不織布のショールが用意されていて、 これで体を海苔巻みたいにグルグル巻きにして寺院に入ってもらうことになります ( 日本人は、その点、 予め旅行社に教えられているらしく、こういうもののお世話にならない程度の服装を皆が着ています )。

3.世界中からの観光客の誘致を狙ってか、イタリア中の著名な観光施設はどこもかしこも補修や 「 すす払い 」 の真っ盛りです。  写真を撮ろうとすると必ず仮設の足場やクレーンが画面に入ってしまうので、面白くありません。  いつ頃終るの?と聞くと、7年とか10年とか言う答が返ってきます。  それはそうでしょう。 何百年もかけて造ったものだから、1年や2年では直せないのでしょう。  有名なフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレのドゥオーモも、補修とお化粧の真っ最中で、これまでの煤けた姿から、 さっぱりした美しい外観へと変身しつつあります ( 写真1 )

4.悪名高い国鉄列車への落書きは相変わらずですが、それを防ぐために、 最初から車体全部に絵を描いてしまってある車体が走り出しました。   ( これは、最近のNHKの番組で紹介された日本での落書き対策と同じ趣向である点、興味深い )

5.やはり世界中が好景気なんでしょうかね。 シエナも相当だったけれど、サン・ジミニャーノなどは、週日だというのに、 世界各国からの無数の観光客で文字通り 「 ごった返して 」 いました。 これじゃあ週末の渋谷か新宿です。  ムードも何もありません。 写真を撮る気にもなりません。 だって建物を撮ろうとすると群集を撮ることになるのですから。  だから後半は努めて無名の美しい町を探して訪れました ( このページの最後に出てくるヴァレンナなど )。

6.五年前、イタリアの大都市を歩いている東洋人と言えば、ほとんどが日本人だったと思います。  しかし今、たとえば有名なローマのスペイン階段に群がる東洋人団体客の4分の3以上は、 私の観察によれば日本人ではありません。 アジア諸国の経済発展と観光ブームのためでしょう。

7.今年の1月からでしたか、厳格な禁煙法が施行されました。 列車も全車両禁煙です。 レストランにも喫煙席などありません。  そこで、商店やレストランでは、従業員が時々店の前 ( 屋外 ) に出てきて慌しく一服しています。  というわけで、通りではどの店の前にも棄てられた吸殻が散乱しています。 とんだ副産物です。

*:私なんかが寒くて薄手のセーターを着てしまう朝夕でも、米人たちはこういう格好で平気です。  ちょうど、脂肪の多い相撲取りが冬でも浴衣1枚で暮らせるように、 肥満の人が多い彼らは薄着にならざるを得ないのでしょう。

 
さて、旅行体験全体の10分の1にもなりませんが、 幾つかの体験を以下に書いてみます。


 6月3日(金) フィレンツェからルッカへの日帰りバス旅行

 バスの会社名 ( Lazzi ) と時刻表は日本にいるうちからインターネットで調べてある。 10時15分発だ。   前日確かめておいた発着場に行き、出札口で切符を買う。 往復で4.7×2=9.4ユーロということも、日本で調べてある。  インターネットとは実に便利なものだ。 Per Lucca, andata e ritorno. と言うと、 実直そうなひげの中年男は金額を言い往復の切符を差し出す。 あいにく50ユーロ紙幣しかないので、 それを出すと、まず50セントと10セントのコインをくれる。  次に、20ユーロ紙幣と10ユーロ紙幣を右手で差し出し、なぜか英語でOKという。 無事切符を買え、 お釣ももらえたことでホッとした日本人が、ここでこの紙幣を受け取って一歩歩き出したら、それでもうおしまいである。

 私はこの手で、ミラノの地下鉄で2001年に1万リラ ( 約¥700 )、2003年にローマの空港駅で5ユーロ ( 約¥650 ) 誤魔化されている。  3度目の正直、今度こそ、そうはさせませんぞ! 「 ノ 」 と言い、手を出すと、 なんと彼は反対の左手に隠し持っていた10ユーロ紙幣を 「 ハイヨ 」 とばかり投げてよこした。  文句を言われたら 「 自分は間違えたのでも誤魔化そうとしたのでもない。 右手で30ユーロ出し、一瞬おいて、 左手で更に10ユーロ加えようとしていただけだよ 」 と言おうとする仕掛けである。

 もし気づかずに立ち去り、あとで気がついて文句を言いに行っても 「 私は40ユーロ渡したよ 」 と言うことであろう 。  こういう、相手の不慣れ、緊張、錯覚を利用する手品みたいな手法で、 彼らは日本人たちから毎日のように小遣いを巻き上げているのだ。  5回目のイタリア旅行で、漸く私も彼らと互角に太刀打ちできるようになったのだ。  もう一度彼の顔をシゲシゲと見据えてやった。 どう見ても実直そうな男に見えるんだがなあ・・・。

 というわけで、無事切符は買えたので、次はたくさん並んでいるうちのどのバスが10時15分のルッカ行きかを調べる番だ。  日本のように行先を書いた標識が立っているわけでもなく、車体の前面に行先が明示されているわけでもない。

 いろいろ尋ね回って分かったことは、2番線から出る10時15分のバスは、あちこちの町に立ち寄りながら行く鈍行で12時着。  11時発の次のバスは高速道ばかりを通る直行便でこれも12時頃着ということであった。  私のつたないイタリア語だけでここまで聞き出せたわけではない。  一人の高校生くらいの女の子がいて、片言の英語を話して助けてくれたのだ。  彼女は習いたての英語を使いたくて仕方ないらしい。 彼女と5分間格闘して漸く上記のことが分かった次第。  彼女の英語も私のイタリア語なみのレベルで、彼女が”after”というのが、後発のバスのことだと理解できる迄に時間がかかった。  さて、そうということなら、勿論先発の鈍行に乗ろう。 途中の町や村の景色がゆっくり見られるではないか。

 ルッカには定刻正午に着いた。 バスの駅の傍の 「 i 」 に入って貸し自転車を借りる ( 4時間で10ユーロ )。  これは事前にガイドブックで知った、効率的に楽に観光するための知恵だ。  自転車に乗る前にトイレに行くと、ここも60セントの有料トイレだ。 「 何でおれのショボショボ垂れる小便が¥100近くもするんだ!」 と 怒ってみてもしょうがない。 地下への階段を降りて行くと、二人の男が入口に立っている。 私が男便所に入ろうとするのを見て、 一人が 「 ここは女用だよ 」 みたいな事を言う。 「 いや男用じゃないの 」 と言いながら私がドアのほうを見回していると、 もう一人の男の手が、私が肩にかけたリュックのジッパーに触れている。 そんなことじゃないかと思っていたので、 直ぐに気がつき手で払いのけると、なんと英語でソーリーと言って立ち去っていった。 全く、油断もスキもありゃしない。  緊張している実直な日本人旅行者は、見知らぬ人に話しかけられると、相手の言うことを理解しようと必死になって、 注意力が全部そっちに行ってしまう。 そこを彼らは衝いてくるのだ。 この辺の手管も、年季の入った私にはもう通じない。

 大体、このリュックには飲みかけの飲料水のボトルとか、ハンカチとか、ティッシュとか、100円ショップで買った老眼鏡とか、 デジカメのスペア電池とか、日本語のガイドブックとかくらいしか入ってないんだ。 そんな物持ってったってしょうがないよ。  クレジットカードや高額紙幣は、私を素っ裸にしても見つからないかも知れないくらいの特殊なところにしまってあるのよ。  おあいにく様。

 ルッカの町は素晴らしかった。 日本人は勿論、欧米人の観光客もまばらだ ( これに比べたら、 サン・ジミニャーノなんて世界中からの旅行者で溢れ、週末の新宿並みだ。 行かない方が良いですぞ )。  雲ひとつない晴天のもと、珍しく完全に残っている1周5kmの中世の城壁 ( 写真2 ) の上の広い道をサイクリングし、 次に城壁内の古い寺院( 写真3A )や塔 ( 写真3B )を一つ一つ巡り訪ねた。 なんとも素敵な町だった。

 日本の雑誌に紹介されていたお菓子屋に入ると、主人が 「 お前は日本人か? そうならこれを見ろ 」 と、その雑誌を持ち出してきた。  そこで私も持参したその雑誌のそのページのカラーコピーを見せ、これを見てここまで来たんだと言ったら、彼は大喜びしていた。  10月まで日保ちするというので、評判のお菓子を3個買ってきた。 この 「 日保ち 」 というのを、イタリア語でなんと言うか 分からず、悪戦苦闘した。 仕方なく、イタリア語で日、週、月、年・・・と叫んだら、察し良く分かってくれた。 何の事はない、 コンセルヴァツィオーネ ( conservazione ) だった。 英語とほとんど同じだ。  英語でコンサヴェイションと言えば分かってくれたかもしれない。  しかも包装の裏側に05年10月と書いた小さな紙が張ってあった。

 6月4日(土)生まれて初めて外国で列車を乗り間違えた

 フィレンツェ14時14分発のユーロスターでボローニャに向う私は、フィレンツェSMN駅に13時半には着き、 慎重に発車ホーム ( binario ) を調べ、10番線と確認した。 乗車券に印字も済ませ、10番線で待っていると、 14時頃、白と緑のユーロスターが入ってきた。 急いで乗ると、私の指定された席は偶然空いていたので、 何の疑いもなく腰掛けた。 すると、なんと14時4分ころ、列車は発車したのだ。 「 エッ 」 と驚いた。  イタリアの列車が、遅れることは日常茶飯事でも、10分も早く発車するなんて考えられない。

 慌てて隣のイタリア人夫婦に聞くと、これはなんと逆向きのローマ行きだという。 しかも1時間半、ノンストップだとも。  困り果てた私を哀れんで、親切な夫は、私を車掌室に連れて行ってわけを話してくれた。彼が帰った後、 もうイタリア語どころではない私が車掌に英語で I made a big mistake. というと、英語の分かる彼は、 No, little mistake. とニコニコしているではないか。

 おかげで落ち着いた私に、わりと上手な英語で彼が説明してくれたところでは 「 ローマのテルミニ駅に着いたら、 5番線の突き当たりにある assistanza clienti ( 英語ではcustomer care ) というオフィスに行きなさい。 そしてこれを見せなさい。  そうすれば最も早く目的地に着ける列車を手配してくれます 」 といって、私の大型の切符にイタリア語でいろいろ事情を書き込んでくれた   ( この手続きが大事だ。 これをしておかないと、到着駅で事情を理解してもらえないだろう )。

 ローマに到着後、直ちにそのオフィスに行くと、そこの係の女性がテキパキと、 30分後に出るボローニャ行きの急行の1等の指定席まで用意して切符に書き込んでくれた。  これに乗り、無事ボローニャに着いたのは18時53分。 当初予定の15時11分に比べると4時間近い遅れであった。

 何より驚いたのは、これらの手続きの際、全く金を取られなかったことである。 損したのは時間だけであった。  イタリアの駅は、ご承知のように下車して外に出るときに改札はない。 だから、assistanza clienti というオフィスに行く際にも、 乗り越し料金を払わずに行けた。 そして、鉄道側の考え方が 「 ミスをした人は気の毒だ。 悪気がないのだから料金を取る必要はない 」 というものだと実感した。 日本ではこういう場合どうなるのだろうか。  私は知らないが、もしかすると、余分に乗った区間の往復の運賃を徴収されてしまうのではないだろうか。

 それにしても、慎重に行動したつもりの私がなぜ間違えたのだろうか。 まずこの駅は終着駅タイプの行き止まり構造で、 北に行く列車も南に行く列車も、同じ向きに入ってきて、同じ逆向きに戻ってゆく。  第2に、この日、フィレンツェ駅の10番線では、 南行きのミラノ発ローマ行き特急ユーロスターが13:55に入り13:59に発車する。  その直後、14:08に北行きのローマ発ミラノ行きの全く同じ型の特急ユーロスターが同じホームに入ってきて、 14:12に出て行く。 私は自分の乗る後者の列車の情報しか頭に入れていていなかった。  しかも前者のローマ行きの列車が少し遅れて14時頃入ってきたので、 てっきりこれは自分が乗るミラノ行きだと勘違いしたのだ。

 日本ではたとえ単線のローカル電車でも、 上りと下りが同じホーム ( 番線 ) に同じ向きに入線してきて同じ向きに発車して行く駅なんてないと思う ( 探せばあるかな? )。  それと、このフィレンツェ駅のホームにも、列車の側面にも、 「 どこ行き 」 という掲示が全くなかったのだ ( ローマテルミニ駅のホームにはある )。

 教訓は、自分の列車がどのホームに何時に到着して来るかを駅の表示板で調べるとき、その同じホームに、 その直前に入って出てゆく列車があるかどうかについても調べるべきだということである。 そして、どんなに自信があっても、 乗車前には必ず駅員か乗務員に 「 この列車でいいですね? 」 と、切符を見せて確認することだ。

 6月6日(月)ボローニャからラヴェンナへ日帰りの観光

 ボローニャからラヴェンナまでのローカル列車の時刻表は、既に日本でインターネットで調べてある。 念のため、 ホテルのフロントで前の晩確認したが、もちろん間違いなかった。 9時05分発10時25分着だ。  切符も前日、夕食に出かけたついでに駅に立ち寄り、andata e ritorno ( 往復 ) を買ってある。  列車でもバスでも往復を買うのが安全だ。 私の行く目的地はたいてい田舎町だから、 バスの切符を売っている店が見つからなかったり、駅の自動発券機が壊れていたりしているからだ。

 Un biglietto per Ravenna, andata e ritorno. という私の片言のイタリア語はちゃんと出札係に通じた。  若い女性の出札係は、私が予め暗算してあった額のつり銭をくれ、誤魔化されることはなかった。  切符の有効期限は発売後30日間であり、この期間内に、使用時に自分でホームにある黄色の機械に差し込んで乗車直前に 日付けを印字する ( これを怠ると車内検札にひどい罰金を取られる )。

 先日の乗り間違えに懲りているので、当日朝、駅には8時半に着いて、まず駅の正面の出発列車一覧の掲示板を確認すると、 binario ( 番線 ) の所に8とある。 地下道をくぐって8番線に上がると、当駅始発の列車はまだ入線していない。  イタリア語の練習にと考え、ベンチに坐っている二人連れの女性にラヴェンナ行きの列車はここでよいかと 尋ねる。 するとホームはここでよいが・・・その先が早口でほとんど分からない。 何度も聞き返すが、 私の切符に書いてある経由駅を指してここで乗り換えるのだと言っているらしい。

 そんなバカなことあるわけがない。 適当に礼を言ってまた駅の正面に戻り掲示板を見に行くと今度は7番線出発と変わっている。  そこで7番線に上がると、そこには何もなく、さっきまで空だった隣の8番線にはそれらしい列車が入ってきている。  大急ぎでまた8番線に上がりなおし、列車の運転席に坐っている運転手に切符を見せて 「 Per Ravenna ( ラヴェンナ行きか )?」 と聞くとニコニコしながら 「 Qui(これに乗れ ) 」 と後ろの車両を指差す。 「 Diretto ( 直行か )? 」と聞くと 「 Si ( そうだ ) 」 と答える。

 これでやっとほっとしてガラガラの、しかしわりときれいな2等車に乗り込む。 全く、この国は出発ホームの掲示板さえ 当てにならないと腹を立てながらハッと気づくと、今までの出発ホーム確認騒ぎで乗車券に日付を印字をしていないことに気づく。  慌ててホームに出て印字を済ませて乗り込むと、列車は放送もベルもなくいきなり出発した。 ほぼ定刻だ。  あとは窓の外ののどかで美しい農村風景を1時間20分、ボーッと眺めていると、無事列車はラヴェンナに着いた。  途中ポツポツ降っていた雨も上がり、晴れ間も見えてきた。

 アドリア海に近い田舎町のラヴェンナまで私が何をしに行ったかという事は、話しだすとキリがないのでやめるが、 要するにこの町は、ヨーロッパにおけるビザンチン文化の宝庫であり、特に、5〜6世紀頃に造られた、 ユネスコの世界文化遺産にも指定されている多くのキリスト教寺院の華麗で精緻なモザイクを、たくさん目にすることが 出来るのである ( 写真4 )。  出発前に100ページ近くもいろいろな資料で勉強してきたが、素人の私がそれをここで解説してみても仕方がない。

 というわけで、駅を降りてまず 「 i 」 のマークの観光案内所に立ち寄り、地図を貰い、なんとも下手クソな英語のお姉さんから 概略の説明を受けた。 最初の寺院で代表的な7寺院すべての共通入場券を買い、後は、市内をひたすら歩き回るだけである。  奇妙なのは、退色の懸念がある油絵やフレスコ画でもないのに、堂内ではフラッシュ撮影が禁止な事である。 仕方なくカメラを柱にしっかりと押し付け、2分の1秒くらいの露出で撮りまくる。

 ところが、禁止の掲示もなんのその、パッパッとフラッシュ撮影している人がいる。 「 ずるい! 」  それは日本人の若い女性の二人連れだった。  フラッシュ禁止という掲示は、伊、英、独の3カ国語で絵入りであちこちに張ってあるのだが、 彼女らは簡単な英語も読めないのか、ノーテンキで注意書きなど読もうともしないのか、あるいはもしかすると、 カメラに自動フラッシュ制止機構があることを知らないのかもしれない。 いずれにせよ 「 バカ 」 なのである。  注意を与える係員も不在らしく、彼女らは周囲の外人たちの 「 ひんしゅく 」 顔をよそに、 全くおおらかにフラッシュを続けている。 とにかく 「 バカがトクをする 」 結果になっていて、なまじ外国語が読め、 自制心のある私は損をした。

 最後の一つの寺院は、市外にあり、バスで15分かかるというサンタポリナーレ・イン・クラッセ教会である。 解説書によると この町では最も美しいモザイクだというので、行かないわけにはゆかない。 駅前の 「 i 」 に戻り、行き方を聞くと丁寧に、 4番のバスが毎時11分、44番が毎時41分発だと教えてくれた。 切符はバス停の前の販売機で買えといわれたが、 行って見ると、たった1台の機械は動かない。 近くにいるイタリア人が、両手でバツ印をしてくれたから、壊れているようだ。

 30分に1本のバスが来てしまったので、ママヨと飛び乗り、若い運転手に手まねで機械が壊れていたというと、自分のポケットから 切符を出して売ってくれた。 15分というが、どこで降りたらよいのか、さっぱり分からない。 バスはドンドン郊外に走ってゆく。 Basilica? と前に座っている黒人の青年に聞くと、親切に運転手のところに行って、あの日本人を寺院の前で下ろして やってくれと頼んでくれているらしい。 戻ってきた彼に礼を言うとニッコリ笑って頷いたので、多分大丈夫。  彼は次のバス停で降りていった。

 ちょうど15分くらいでやがて左前方にそれらしき巨大な寺院が見えてきた。 近くで停まってくれるかと思ったら、 バスは猛スピードで通過してしまった。 慌てて運転手のところに飛んでゆくと 「 大丈夫 大丈夫 」 というしぐさ。  仕方なく観念して最前部の座席に坐りなおす。 するとバスは数分後に大きくUターンして元の道を戻り、 途中で分かれて寺院の方に進んでゆく。 そして、寺院の直ぐ傍でバスは止まり、運転手はここで降りろという。  更に、道路の反対側の小屋を指して何か言う。 Ritorno? と聞くと Si と言う。 帰りはあそこから乗れと教えてくれたのだ。   降りてみて分かったことは、最初に寺院の近くを通ったとき、もしそこで降りていたら1km近く歩かねばならなかったのが、 行きすぎて戻ってきた停留所からだと200mくらいしか歩かないで済むということだ。 なるほどそうか!

 「 苦労してここまで来てよかった! 」  誰一人いない昼下がりの広い礼拝堂の椅子に坐り、 1450年前に造られたとは信じられないほど精緻で荘厳で美しいモザイク ( 写真5 )に私は30分以上も圧倒され続けていた。

 炎天下、帰りのバスを、教えられた小屋の前で待っていると、やってきたバスの運転手はなんと、 行きのバスと同じ愛想の良い若者だった。  Ciao ! と私が言うと、満面の笑顔で Ciao ! Ciao ! と2回答えた。 ( この停留場の近所には切符を売っている店はなかったので ) またも切符を持たない私が切符を買おうと1.5ユーロのコインを差し出すと、彼は 「 お前は友達だからいらないよ。 乗ってきな 」 というような事を言う。 少なくとも、私には、そう聞こえた。 そこで笑顔で Grazie ! と言って座席に座り、 無事、タダで列車の駅まで戻れた。

 イタリアという国は、実に危険でいい加減な国であると同時に、まことに愛想の良い親切な国でもある。  ちょっと油断するとつり銭を誤魔化すくせに、ボローニャの有名なチョコレート屋などでは、いろいろタダで試食させてくれた上に、 ( 翌日気がついたのだが ) 計算間違いまでしてくれて、 結果的に大幅な割引をしてくれた。 私は2回目と3回目の旅行では釣り銭を誤魔化されて損をしたが、今回の旅行では得をして、 結局ほとんどプラスマイナスゼロとなり、イタリアとの国際収支は均衡した。

 6月10日(金) 天国のような村ヴァレンナと出会う

 北のスイスとの国境に近いコモ湖と、その周辺の風光明媚な町・・・コモ、メナッジオ、ベラッジオ、トレメッゾなどは、 どのガイドブックにも紹介されているし、有名なヴィラとその庭園が多くの観光客を集めている。  テルメッゾのヴィラ・カルロッタもその一つである ( 写真6 )。  付近には豪華で高価なホテルも沢山ある。 もちろん、日本人も数多く観光に来ている。

 しかし、最後に幾つかの写真でご紹介するコモ湖岸の Varenna は、上述の有名な Ravenna と良く似た紛らわしい名前だが、 まずどのガイドブックにも出ていないし、ここを訪れたことのある日本人は、そう多くはいないはずである。

 この町はコモ湖の東岸沿いに鰻の寝床のように細長く、ひっそりと隠れている。 日本人にはもちろん一人も会わなかった。  欧米人の観光客もほとんどいない。  中世そのままのような細い ( 勿論車は通れない ) 無人の道を岸沿いにどこまでも歩いてゆくと、 目を見張るほど美しい二つの庭園が忽然と現れる。  なんとも不思議としか言いようのない世界である ( 写真7〜10を全部ご覧下さい )

 旅行中、ある人の勧めによってほとんど偶然にここを知ったことは、私の今回の旅にとって最大の収穫であった。  スイス国境も近いここまでわざわざ来て、本当に良かった!  私はここでほとんど半日、100枚近くも写真を撮りまくり、小さなバールに坐って赤ビールを何杯も飲みながら、 ボーッとして過ごしていた。 「 至福の時 」 だった。  こんな天国のような村にも、なぜか立派なホテルがあった。 もう一度、いつかここに来てゆっくり滞在できたらなあと思う。

ご感想、ご意見、ご質問などがあれば まで。