フリーマンの随想

その47. 「お上の言うことはあまり信用しない」


* 「お上にあまり期待するなよ」という意味でしょうか*

( 2. 5. 2002 )


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あるNGO (  非政府組織  ) の大西健丞という人が 「 お上の言うことはあまり信用しない 」 と発言し、 それに対して外務省 「 族議員 」 の鈴木宗男代議士が激怒して、このNGOを会議から排除しようと考え、 外務省の役人に干渉したことから、田中外相更迭騒動が始まったと言われています。

国会でもマスコミ上でも、あの 「 言った・言わない 」 の問題や、首相による田中外相更迭の決定が正しかったかどうか、 などばかりがしきりに議論されています。 しかし、発端となった 「 お上の言うことはあまり信用しない 」  という発言の真意や、その当否については、どこでもほとんど論じられていないように、 私には思えます。 大西氏が 「 お上の言うことはあまり信用しない 」 と言ったことについて、 人々はいったいどう考えているのでしょうか。

どこのお役所でも、誠実に適確に仕事をしていらっしゃる方も少なくないとは思いますが、 最近は、外務省にしても農水省にしても警察にしても、お上の言うこと、することが一般に信用できなくなって来ています。  そういう中で、私が 「 あなたはお上の言うことを信用しますか? 」 と尋ねたら、皆様はどうお答えになるでしょうか。

歴史的に考えて見ると 「 人々がお上をおおいに信頼している 」 という状況は、どこの国でも、いつの時代でも、 むしろ珍しいことだったのではないでしょうか。  たまにそういう立派な 「 お上 」 が居たりすると、美談として今も伝えられているくらいですから。

 所が、私の見るところ、多くの日本人の心の中には 「 出来ることなら、私が信頼できるほど立派なお上であってくれたらなぁ 」  という、潜在的な願望があって 「 お上の言うことはあまり信用しない 」 というような突き放した言い方は、 一般的には何となく不穏に思えるのではないでしょうか。 彼の発言に対して 「 お上の言うことはあまり信用しないなんて、 そんなこと、当たり前じゃないか 」 と醒めた考え方をする人は、だいぶ少ないのではないでしょうか。

私は 「 お上 」 を信用している人、「 お上 」 が信用に値するようであって欲しいと思っている人、 「 お上を頼り、お上を当てにしている 」 人などが、この日本では、結構多いのではないかと推察していますが、どうでしょう。  そういう人たちの割合は、世界中でこの日本が一番多いのではないか と、 私は考えています。 それは比較的安定し穏やかだった過去の歴史の反映なのかも知れないし、日本人の 「 甘さ 」  の表れなのかも知れません。

米国で私が住んでいたあたりでは、自分の子供を、学校に通わせない人たちが結構いました。 おもに宗教上の理由で、 公教育の場に子供を預けると 「 変なことを教えられてしまう 」 と考えるからです。 たとえばキリスト教原理主義の親たちは、 子供たちが公立学校で 「 地動説 」 や 「 進化論 」 などの 「 聖書の教えに反する 」 教育をされるのを嫌います。  家庭教師や親が、家庭や寺子屋のような場所で、ある程度の基準を満たす教育が出来ると見なされれば、 子供を学校に通わせない権利が認められるようです。

しかし、こういう特殊な信念を持つ親たちだけでなく、多くの一般の親たちも 「 お上  ( 連邦政府、州政府などの ”Government” ) に大事な我が子の教育を任せたら、何を教えられるか分かったものじゃない  」 と考えており、実際そう発言するのを何度か聞きました。  ですから、各自治体ごとに教育委員を公選し、学校教育の内容は地方分権的に決めます。  つまり地域住民が考え、議論して我が子たちの教育方針、教育内容を決めるのです。 もちろん、国定教科書などありません。  文部省にあたる教育庁の権限も極めて弱く、教科書の検定もありません。 「 お上 」 による教職の資格認定もゆるやかで、 地域の教育委員会が承認・採用すれば容易に教師になれます ( そのためか 「 学力 」 の低い教師も少なくありませんが )。  教育の年限 ( 学制 ) すらも、地方自治に任されていました。 私の住んでいた市でも、6/3/3が4/5/3に変わったりしました。 ( 末尾の資料もご参照ください )

日本でも、占領米軍の方針でしょうが、1947年、教育委員会法が制定され、 米国式の地方自治体ごとの教育委員の公選が制度化されました。 その後、 文部省の権限拡大の意図に押され、1956年の新法制定と共に教育委員会法は廃止となり、 自治体首長が議会の承認を得て教育委員を選び、任命するように変わってしまいました。 教育方針を 「 お上 」 にお任せする事が、当時、一般の日本人にはあまり気にならなかったように思われます。

私たちの世代は、小学生時代、軍国主義と天皇制崇拝で凝り固まった教科書と教師により教育されました。  私などは純真にもそれを100%信じて育ちましたが、あのまま日本が負けなかったら、 皆がどういう思想のおとなになっていただろうと考えると、恐ろしくなります。  だから、これに懲りて、米人同様 「 お上などに大事な我が子の教育を任せたら、 何を教えられるか分かったものじゃない 」 と、警戒しそうなものですが、そういう人はあまり多くありません。  多くの人は 「 やはりお上が正しく検定した教科書を使い、 お上が正しく認定した人だけが教師になって、 お上が建てた校舎で教育を行うのが妥当であると考えているようです。 「 右 」 と 「 左 」 の差と言えば  「 お上 」 が持っていて欲しい 「 正しさ 」 の中身の違いだけで、「 お上 」  は正しくあって欲しいとか、正しい 「 お上 」  なら居る方が良いとか考えている点では同じなのです。

例の歴史教科書検定問題のときも、文部省の 「 検定の仕方、判断が悪い 」 「 検定内容をこう改めろ 」 と抗議する人の方が、 「 文部省が教科書の検定基準を決めたり、教科書を検定したりすること自体おかしい 」  と検定全面廃止を主張する人よりも多かったように思います。  日本では教科書は大事な基本だから 「 野放しでなく誰かのチェックが必要 」 と考え  「 専門家の居る公的機関なら厳正にやってくれるだろう 」 という幻想を抱き 「 お上 」  を信用するから検定権を持たれてしまい、その結果 「 お上のやり方は怪しからん! 」 と憤慨する事になるのです。 昨年度から日本でも教科書採択が市区町村の権限となったのは良い事ですが、採否はその教育委員会が決めるのですから、 教育委員会を公選に戻すことこそが肝要でしょう。 また 「 お上 」  が検定し承認した教科書の中から選ぶという現状も、大いに問題だと思います。  教科書はいろいろなものが自由に作られ、検定なしに提供されるのが良いと私は思います。 

いくら規制緩和だとか、自由化だとか叫ばれても、日本人はなかなか自分たちの責任で自分たちでやろうとしません。  「 正しくしっかりやってくれさえすれば、お上がやるのが一番安心だ 」 という考えから容易には抜け出せないのです。  国鉄も電電公社も民営化して以来随分良くなったと実感しているくせに 「 郵政を民営化しよう 」 「 住宅金融公庫はやめよう 」   などというと、不安になるのです。 「 政府は小さいほど良い 」 と考える人は少なく、 お金をかけて手厚くサービスしてくれる重厚な政府が良いと考える人が多いようです。  「 銀行が破綻しないようにお上は手厚く面倒を見ろ。 もし破綻しても、お上は私の預金を全額保障してくれ 」 と頼るのです。

教育の地方自治の問題などに脱線してしまいましたが 「 お上の言うことはあまり信用しない 」 と発言した大西氏は、 こういう 「 お上に頼りたがる 」 日本人的メンタリティから一歩踏み出すことが出来た 人かも知れないと、私は考えています。 彼の発言の真意は  「 お上を始めからそんなに信用せず頼らず行動した方が間違いが少ないよ 」 という事ではないでしょうか。

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[ 参考資料 ]

各州に教育庁があるが、特に初・中等教育レベルでは学校区にほとんどの権限が委ねられている。 公立校においては州の認める教員免許が必要となる。私立校においては必要ない。

政府内で教育行政を担当するのは教育庁で、その下に州教育庁と教育委員会があります。 しかし、連邦政府の教育庁は、 日本の文部省のように全国規模の統制力を持つものではなく、具体的管理は各州に委ねられています。 たとえば義務教育年限が州によって異なり、1987年の調査では、7〜16歳を義務教育年齢とするところが22州ともっとも多くなっていますが、 6〜16歳が10州、6〜18歳と7〜17歳が各5州、7〜18歳と5〜17歳が各2州となっています。 また学校制度それ自体も各州によって異なり、したがって学校制度も、5−3−4/4−5−3/6−3−3/8−4などに分かれています。

教員資格の取得条件は州法によって定められ、教員免許は州教育庁が発行します。 資格内容や採用条件は各州によって異なりますが、 連邦政府が設定する教員資格の基準から大幅にそれることはまれです。

( この部分は 「 日本語国際センター 」 と 「 国際教育交流促進協会 」 のホームページより抜粋 )

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