フリーマンの随想
過去の武将、将軍などを日本人が話題にする時、必ず信長、秀吉、家康の3人の名があがります。 彼らは既に無数のドラマ、映画、小説にとり上げられており、知らぬ人はいないほどですが、 他の人々はずっと知名度が下がります。 作家の塩野七生さんが、15年ほど前に著した本 ( 「 男の肖像 」 :( 株 ) 文藝春秋 昭和61年 )の中で、面白いことを書いています。 その要点を紹介しますと、
先日他にも関連したNHKのTV番組があり、やはりこのモンゴル襲来の話が出てきて、 日本の海軍は規模では劣勢だったが海戦では彼らに勝てたこと、 北九州沿岸に今も残っている防衛の石塁は時宗が作らせた物であり、それが有効に働いたこと、 モンゴル軍の船上では疫病も流行り始め、一旦引き揚げようかと議論が長引いた所に、台風 ( 神風 ) が襲い、壊滅的打撃を受けたこと、など、興味ある話がいくつも紹介されていました ( この一部始終をモンゴルに居て観察していたのが、あのマルコ・ポーロだそうです )。 私が戦時中、小学校で習った歴史では、もう60年も前のことで記憶も薄れていますが、 モンゴル ( 元 ) 軍を撃退できたのは、朝廷以下全国民の祈りが通じて、 「 神国日本 」 のために、タイミングよく2度も神風が吹いたからだとされていました。 北条時宗の名はほとんど出てこなかったと思います。 そこで本屋に出掛けて行きました。このNHKのドラマの本以外にも、 便乗的に?出てきた北条時宗について書かれた近刊書が、3、4種類もありました。 これらと、その他に、最近の高校生向けの日本史の参考書を10冊くらい立ち読みして見た所、 大体以下のようなことが判明しました。 私が全く習わなかった ( と思う ) 様な事を、 今の生徒はキチンと教えられているのですね。 すなわち、文永の役、弘安の役について、
さて、いままで日本人は 「 神風のお陰 」 ばかり強調して、 北条時宗の知恵と勇気と実行力をなぜ賞賛しなかったのでしょう。 もし彼が居なかったら、 九州のみでなく西日本一帯くらいまでは、欧州同様、モンゴル人に蹂躪され、 おそらくは奈良も京都も、殆ど今の姿をとどめてはいなかったことだろうと、私は思うのです。 現在の日本の姿は果たしてどんなものになっていたことでしょうか。 当時、朝廷はモンゴルの強大な武力を怖れていました。 表面上は国交を求めながら、 裏では威圧的に武力攻撃を匂わせる国書を読んだ朝廷は動転し、 これに屈服する返書を出そうと考えました。 国書を断固はねつけようとする時宗とは、当然の事ながら対立し、 彼の執権の職を奪おうとして、朝廷は幕府と争いました。 その後モンゴルが攻めてくるに及んでは、 朝廷はひたすら異国降伏祈祷を行うのみだったようです。 さて、ここから先は、私の個人的な意見です。 戦前、戦中の体制派の歴史家たちは、 朝廷の意向と対立してモンゴルと戦ったという理由だけで、 時宗を怪しからん男と考え、評価を拒んだのでしょう。 この戦いに勝ったのは朝廷による祈祷と、 その結果としての 「 神風 」 であり、これこそ神国日本の証しであると言いたかったのでしょう。 それが尾を引いて、戦後半世紀以上も無視され続けた末に、、 ようやく日本国民の最大の恩人の一人 とも言える北条時宗が、名誉を回復し 「 解禁 」 されたのが、 NHKの今回の大河ドラマなのではないでしょうか。 確かに、このドラマの中では、天皇、 公家など朝廷側の愚劣さや陰謀がはっきりと描かれており、これは、終戦前はもちろん、 戦後だってなかなか表現しにくかった部分だったのではないでしょうか。 いや、終戦前とかに限らなくても、日本では大昔から 「 忠臣 」 は実像以上に評価され、 その反面、一度でも朝廷と争った人は、個人的にどんなに立派な人でも、正当に評価されず、 歴史の表通りを歩かせてはもらえなかったのではないでしょうか。 塩野七生女史が 「 時宗は大河ドラマからも相手にされない。 なぜだろう 」 と感じた疑問について、妻といろいろ議論をした末に到達した結論は、上のようなことでした。 それにしても、15年も前に北条時宗の偉大さを理解し、 彼の大河ドラマ制作を提言した彼女は、やはりただ者ではないと思います。 |