フリーマンの随想

その38. 成人式


* いったい、どういう意味があるのだろうか・・・ *

(1. 25. 2001 ; 1. 27 一部修正)


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先だっての成人式では、各地で色々の騒動があり、高知市、高松市、そして群馬県の太田市など、 幾つかの都市で起った事件が日本中に報道された。 報道されたのは氷山のほんの一角で、おそらくほとんどすべての市町村で、 顕在的に、あるいは潜在的に、大なり小なり同様の問題が起きているものと思われる。

私の住む地方小都市でも、成人たちは毎年騒然としてお喋りばかりしていると言う。 昨年末の自治会長会で、私が発言を求め、市当局に 「 毎年起きている問題をそのままにして、 今年も同じような成人式をやるのか。そんな式典ならいっそのこと、止めたらどうか 」 と質問した所 「 今年は一つだけ改めてみようと思う。式の開始前に全員に静粛を求め、 静かになるまで式典を始めない。 成功するかどうか分からないが、 このやり方に挑戦してみる 」 という回答だった。

そんな方法で本当に静かになるのかなとは思ったが、 何か一つでも改革に挑戦するという姿勢は結構だと思ったので、 後日別席で 「 是非、中途半端に妥協せず、 失敗に終ってもよいから成人たちと根競べをやってください 」 と激励のお願いをした。

今日市役所に行き 「 結果はどうでしたか 」 と聞いてみたら、 結局そこまで突っ張るのは止めたらしく、代わりに別の工夫を加え 「 昨年よりはいくらか静かに、まずまず無事に済みました。出席率も75%と増えて・・・」 と喜んでいた。まずは慶賀の至りだが、 お役所には 「 成人式はとにかく実施する 」 という大前提が有って 「 止める 」 とか 「 全く違う方式に変える 」 とかいう発想は絶対に出てこないらしいということも、今回よく分かった。

さて、最近、以前と変わったことといえば、EメールやFAXの普及によって、自治体、企業、 マスコミなどに何か問題が起きると、 賛否の意見が日本中から殺到するようになったことがあげられる。 私自身も、高松と太田の市役所には、即刻批判的な意見のメールを送った。 このうち、高松市からは 「 膨大な数のご批判を頂いたので、 市のホームページ に [ 市長のひとりごと ] と題して考えを載せた。 回答だと思ってそれを読んで欲しい 」 という趣旨のメールが1週間後に届いた。 市長の回答はまずまず納得できる内容だった。

ここまでが前置きで、これからが本論である。半世紀近くも前、自分たちはどうだったか。 最近大学の同窓の友人と飲んだ時、数人に尋ねたら、皆は 「 俺の時は成人式など無かったよ 」 と言っていた。 だが、昭和28年 ( 1953年 )、私が20歳で大学2年生のとき、 東京都中野区に住んでいた私のもとには、区役所から、 成人式 ( らしきもの ) への招待状が届いたという記憶が有る(*)。 一方、小学校の同窓生に聞くと、そんな記憶はないという。 ただ、血気盛んな ( いや、生意気なと言うべきだろう ) 私は、 当時友人たちと次のような話をした記憶は、明確に残っている。

「 何? 役所が祝ってくれる? 激励のお話を聞かせるだと? 笑わせるな。 社会人としての自覚、未来への夢、人生の哲学なんかについては、 俺たちの方がずっとしっかりした高級なものを持ってるんだ。 こっちが講義して教えてやりたいくらいだ 」 ・・・ 同年の親友たちは皆同じ考えだった。

私より3年あとに成人式を迎えた妻に聞いたら、 彼女も 「 つまらない催しだと思ったから行かなかった 」 と答えた。 当時の私はもちろん共産党員でも全学連でもなく、ごく平均的な思想の普通の大学生だった。 妻も平凡な駆け出しの会社員だった。

その後いつの頃からか、大多数の成人たちは晴れ着に着飾って、 従順な羊のように、いそいそと自治体主催の成人式に出かけるようになっていった。 さらに時が流れると、羊の群には野猿が次第に混じってきて、無視できない数になってきた。

そこでは、市長、市会議長、教育委員長・・・と次々にオジイサンたちやオジサンたちが登場して、 訓話を 「 たれる 」 のだ。 でも、彼らに 「 おめでとう 」 と言われて若者が嬉しがるとか、 彼らの話を真剣に聴いて若者たちが感銘を受けるなんて、失礼だが、私には到底考えられない ( でも、私は現役時代、工場長の時、工場が新成人たちを集めて祝う会で、 何か祝辞を述べた記憶もある。 私は当時随分と厚顔な男だったということだ。 私自身、 何を話したのか思い出せないのだから、聞いた若者が覚えているはずもない )。

まそれはともかくとして、成人の皆さん、わずかな記念品を貰いたいわけでもなかろうに、 あんな祝辞をじっと静かにしながら聞かされるために成人式などに行かなければ良いのです。 級友たちと久しぶりに交歓したければ、自分たちでクラス会でもやって自費で騒げばよいのです。

市の対応も情けないと思った。新聞報道が正確とは限らないが、太田市は当初 「 主催者の責任 」 だから晴れ着の買い換え!の費用を市が支払うと言い出した。 ひんしゅくや嘲笑を買ったに違いない。 市の職員が必死に制止したのに彼らが暴れた挙げ句の損害だから、市に責任はないのに、 税金を使って穏便に済まそうと言う安易な発想は許せない。 幸い、その後、狼藉者たちが弁済することになったらしいが、 どうせ甘い親たちが代わりに払ってやるのだろう。

評価できるのは、高知市の橋本知事が 「 黙れ、出て行け! 」 と怒鳴ったことくらいで、 責任あるオトナはせめてこれくらいの厳しさと強さを示さなくてはならない。 それが、仲間たちが狼藉を働いても、ニヤニヤ、 あるいはビクビク傍観している若者たちへのせめてものメッセージだ。

一方、クラッカーを市長に撃ち込んだ高松市の成人たちも、だらしがない。 もし 「 くだらない成人式などは、この際全国に先駆けて粉砕してしまおう! 」 と考えたのなら、 もっと沢山の同志を集め、戦術も磨いて臨み、完全に中途で流会に陥れるまで闘うべきであった。

だが彼らにはそんな固い信念も強い意志も無く、ただ思い付きで面白半分に騒いだだけだったらしい。 警察や親や世間様に叱られると、シュンとなって 「 済みません。 もう致しません 」 などと謝るから、かえって情けなくなる。 もっと確信犯的な 「 お偉方の式辞粉砕闘争 」 であったなら、私は一種の共感を覚えるのに。

というわけで、色々な意見を色々な人がお持ちでしょうが、私の考えを要約すると次の通りです。

  1. 自治体が主催して成人式をしてやる必要などない。大きなお節介だ。 青年よ、若いうちから自治体の 「 介護 」 などあてにするな。 お祝いの品や酒肴などをありがたがっているわけでもないだろう。 若者らしい成人式を、自治体から一切の物的支援を受けずに、 自分たちだけで企画し実施したら、たとえばか騒ぎであろうときっと思い出に残ることだろう。

  2. 成人といえるかどうかは、個人の精神の成熟と自立の問題である。 他人に認めてもらい祝ってもらう筋合いのものではない。 自分が自分という人間ににどうにか自信を持てた時、 何歳であろうと誰がなんと言おうと立派な成人だ。

  3. 市長以下の 「 お偉方 」 が若者に人生訓を垂れるのは止めた方が良い。 義理で聞かされる訓話なんて 「 寝床 」 の義太夫より始末が悪い。 「 お偉方 」 に血税 ( そうか。 彼らはまだ納めたことないんだ ) を使ってまで祝ってもらうのは止めよう。

  4. 著名人を呼んで来て話をさせるのも無駄だ。 話というものは集めて 「 聞かせる 」 ものではない。 知的関心がない 「 未成人 」 には珠玉の講話も豚に真珠だ。 そのうちに聞きたくなれば、 彼らは金を払ってでも自から進んで聴きに来てくれる。

  5. 成人式に使う金があったら、成人の名に価しないような、 無責任で無思慮な一部の若者をこれ以上作らない施策 ( があればの話だが ) のために使おう。

  6. 長い歴史の流れにもまれて数々の試練を乗り越えて残ってきた伝統行事と違い、 戦後生まれの成人式は、時代の変化に伴い、半世紀後の今、 はじめてその存在意義を厳しく問われていると思う。 主催が民間企業なら、激論や鶴の一声で、たちまちリストラに遭っている事だろうが、 不幸にしてこれはお役所の担当行事である。 一旦始めてしまったら、 めったなことでは廃止されない。 抜本的改革すら難しい。 そこに問題があるように思う。

    でも、お役所も、たまにはこういう厳しい 「 時代の挑戦 」 を正面から受け止め、 見事な解決を示してみせて頂きたい。 「 隣りの町はこうやっているそうだが、 うちはこういう理由でこう変えるんだ 」 というような自主性、独自性が望ましい。 日本全体が、いつまでも同じ事を続けながら 「 困った、困った 」 と言っている現状はおかしい。

(*):成人式が日本のどこかで生まれたのは昭和23年だと、新聞に書いてあった。 昭和28年頃には、あちこちで行われるようになっていた。

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