フリーマンの随想

その35. 両陛下とお話したという話


* 天皇の英語のスピーチは立派だった *

(11. 3. 2000)


***
前の ( その34 ) に続いての、私にとっての取って置きの話 ( その2 ) です。 読む人によっては、面白くも何ともないかも知れませんが・・・。

天皇・皇后両陛下が1994年に訪米された際、皇后がお若い頃読んだ本に出てきた憧れの町、 サウスカロライナ州 チャールストン を是非一度見たいということで、この町に立ち寄られた(* 1)。 東京からの最初の到着地であるジョージャ州のアトランタで一日を過された後(* 2)、 6月11日の朝発って、飛行機で1時間足らずのこの町に飛び、州知事主催の歓迎昼食会に出て、 市内観光のあと、また飛行機に乗って夕方までにはワシントンに入るという、 大変多忙な日程の中の数時間であった。

州政府は、州内で活躍する日本人夫妻も10組ほど、この昼食会に招待することになり、 私ども夫婦もその中に選ばれた。 しかも、驚いたことに、 ある由緒ある建物に招かれた100名ほどの被招待者の中で、 私たち夫婦は会場の最前列中央の、一番メインの円卓に坐る8人のうちの2人となる光栄に浴した(* 3)。

すぐ前の正面の席には両陛下と知事夫妻、宮沢外相などが坐り、私たちの円卓には、 向かい側に既に面識もあった白髪の連邦上院議員 ( 民主党 ) 夫妻、左は初対面だったが、 貰った名刺を見たら、米国有数の保険会社プルデンシャルの会長夫妻だった。

両陛下は、空港に着くなり州内在住邦人の熱烈な歓迎に対し、 予定外に一人一人握手し挨拶されたため、私たちは予定の時刻がきても、 じっと30分以上も待つ破目になったが、日本だったら、こんな握手攻めが許される筈はないだろう。 外国だと欧州の王室あたりでは普通に見られる様な、こういうくだけた和やかな状況が実現し、 日本国内だと厳重な警護の壁に遮られざるを得ないというのは、 考えてみると逆のようで、実に奇妙な話だ。

それはともかく、私が一番驚いたのは、州知事の歓迎の挨拶に次いで行われた、 天皇の英語でのご挨拶であった。 非常にゆっくりとであったが、 メモも全く持たずに、つまることもなく、にこやかに、しかし堂々と3分ほどのスピーチをされた。 考えてみると、この過密な日程の中では、1日に2回も3回も、公式のスピーチをされるはずだが、 それを飛行機の中やホテルの部屋で暗記し直すのであろう。 当時60歳だったわけだから、 もう若い頃のような記憶力はないはずで、大変なご苦労と能力だと思う。

母音や子音の発音が、極めて正確で綺麗だったことにも驚いた。 中学生時代にヴァイニング夫人に習って以来、 おそらく立派な教師についてずっと習い続けておられるのであろうが、それにしても、 私の聞いた何十という日本人の英語スピーチの中でも最上級の発音であった。 皇后のことを my wife と言われたのも、英語なら当り前と言えばそれまでだが、印象に残った。 日本での国賓を迎えての晩餐会などでは、日本語で挨拶されるのだろうから、 この立派な天皇の英語のスピーチを聞けただけでも、 稀有の体験と言えるだろう。

壇上の皇后が知事夫人と談笑しているのを見て ( 下の写真の上部 )、あの 「 失語 」 事件のすぐ後だったので 「 ああもう治られたのか 」 と気づいた事も印象に残っている。

一方、この地域を管轄する外務省アトランタ総領事は、この州で活躍する3人の日本人に、 昼食会の後、特別に両陛下に拝謁する栄誉を与えようと考え、 私をその一人に選んだ(* 3)。 他の二人は州内の大学で永年教鞭を執ってきた二人の教授であった。

近くの別の、これも南北戦争時代の由緒ある建物に招かれた私たちが、 最敬礼の仕方その他の簡単な説明を受け、ロビーに整列して待つうちに、 お二人が2階の部屋から降りて来て、お付きの人が一人一人を紹介した後、順に話し掛けられた。 私には 「 いろいろご苦労が多いでしょう 」 「 ハイ。でも一生懸命やっております 」 「 そうですか。 どうぞ頑張ってください 」 「 有難うございます 」 という程度のことだったが、後で考えると、どうも終わりの最敬礼を忘れたらしい。 妻は皇后からは 「 何が一番大変ですか 」 と聞かれていた ( 上の写真 )。

空港での握手攻めによる遅れと昼食会の延長のため、 皇后はせっかく楽しみにされていた市内の観光がろくに出来ないまま空港に戻られたのが、 何ともお気の毒であった。 予定されていた 「 憧れの町 」 の観光は、 失語症のショックを慰めようという天皇の思いやりだったのではと、私たちは想像している。

昭和天皇と違い、今の天皇は常に笑顔を絶やさず、周囲に気を遣い続け、 しかも頭もフル回転させている。 ものすごいストレスの連続だということがこの時始めてよく分かった。 あれでよく胃潰瘍になったりしないものだと、つくづく感心した。 私は若い頃から 「 天皇制 」 には否定的な考えを持ち続けてきて、その事は今も変らないが、 平成天皇が立派な頭脳をお持ちで、「 仕事 」 熱心で、サービス精神も旺盛な、極め付けの 「 善人 」 であることを、この機会によく理解でき 「 良かったな 」 という思いだった。

********************

(* 1):チャールストンには、歴史的な旧い建物や町並みが残っているので、 米人にとってのチャールストンへの旅行は日本人にとっての奈良・京都への旅行に似ていると思う。 私たち夫婦は、車で3時間余りのこの町に何度も泊りがけで行ったし、 日本から訪ねて来た母や妹も案内した。 大西洋岸のこの町では、港で、漁を終えたばかりの漁船から新鮮な魚を買うことも出来た。

(* 2):この時、アトランタでの初日、天皇は、ある会談で、 相手から面と向って突然強い抗議を受けるという難しい状況に ( あるいは生まれて始めて ) 遭遇した。 この事実は何故か、 日本の新聞にはまったく報道されなかったので、私は経団連の広報誌 「 経済広報 」 の181号の巻頭言に 「 黒人蔑視解消が先決 」 と題して次のような短い文を寄せた。

***

お恥ずかしい事だが、この私は米国に駐在後にいろいろと本を読んだり見聞したりするまでは、 キング牧師も公民権運動の何たるかも知らなかった。

今回のご訪米で両陛下が真っ先に訪問され、献花、黙祷されたのがアトランタのキング牧師記念館だが、 この由来と彼の業績を知っている日本人が現在でもどれほどいるだろうか。

彼が活動に飛び込まざる得なくなった当時 ( と言ってもわずか40年前のことに過ぎない ) の南部各州での凄まじい黒人差別と彼の苦難に満ちた活動の実態を知る日本人は更に少ないだろう。

何人もの日本人政治家が黒人を侮辱する発言をしたのは数年前の事だ。 これに関連し、 何も責任のない天皇陛下が当日、 故キング牧師の旧友から強い抗議を受けてしまわれたのは誠にお気の毒な事だった。 しかし元はと言えば、 日本の社会全体に瀰漫している黒人への無知と偏見と差別意識への不満が堰を切って溢れたのだ。

抗議をした黒人代表は絶好の広報の機会と考え、当然の不満を言って見ただけの事で、 日本の天皇が政治家を叱ったり経済界に要望したりは出来ない事くらいは百も承知の上と思う。 彼の唯一の誤算は、理由は分からぬが、 結果として日本のマスコミが彼の抗議を取り上げて報道しなかった事だ。 日本における黒人差別の改善のためには残念な事だった。

われわれが対米広報を成功させるためには、同時に対日本人広報も行ない、 日本人の心の根底にある人種差別意識を除く事が緊要と思う。

一方地元紙の記事はこの抗議や真珠湾攻撃などを伝えつつも友好と歓迎の意に溢れていたし、 天皇はお上手に抗議に対処され、それが地元紙面では巧まざる微笑を誘っていた。

***

(* 3):申すまでもない事だが、やはりこういう場合、申しておくべき事がある。 私ども夫婦がこのように特別な光栄に浴せたのは、私が社長をしていた現地工場が、 その州に対し巨額の投資を行ない、また更に行なおうとしていた事、 日本の本社が規模が大きく有名であった事、 日米従業員の献身的努力により州内での工場の評判が非常に良かった事、などのお陰である。

ご感想、ご意見、ご質問などがあれば まで。