フリーマンの随想
1997年7月 |
パソコンの趣味を十年ぶりに再開したのが会社を辞めてから半年経った97年1月、
それから早くも1年が経ち、ようやく自分のホームページを作ろうという気になりました。
60歳台半ばの手習い、それも殆ど独学でしたが、写真の趣味とも組み合わせた画像処理など、 多くの 「 わざ 」 を楽しめた1年でした。 このホームページも、本1冊を頼りにHTMLを勉強して 7日かかって作ったものです。( 最後の難関は専門家に教わって突破出来ました ) 今後の改善、 改訂はマメに実行して行くつもりですので、どうぞ宜しく。 「 フリーマン 」 とは、 ウェブスターの辞書にある 「 個人としても、市民としても、政治的にも、 自由である状態を享受している人 」 という意味のほかに 「 奴隷制度のあるころ、 奴隷が自分の蓄えた金で主人から自分を買い取り、開放されて自由と人権を得た場合そう呼ばれた 」 と、 かつて在米中に本で読んだように記憶しています。 私は幸いに在職中、 自分の仕事にやり甲斐と誇りを持ってずっと打ち込んで来られましたが、それでも、 やはり何かにつけ 「 束縛され強制されている 」、「 正しいと思った事でも言いづらい 」 と感じ続けて来ました。 そして今、私は真の 「 フリーマン 」 の境遇をようやく購いとった気がしているのです。(1.9. 1998)
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会社をスッパリ辞めてから、もう1年半が経ちました。 その間色々のことがあり、
いろいろな事を考えましたが、あの時の自分の判断とその結果には今も満足しています。
小学校 ( 2校 )、中学、高校、大学と同窓会流行り? ともいえるこの1年でしたが、
同じ年齢の旧友たちが今何を生き甲斐にどう暮らしているかを知るにつけ、
人生の複雑さ奥深さと人の業を知らされました。
要するに、当り前のことですが 「 人それぞれ 」 ということなんですね。 人の 「 生きザマ 」 に理想や模範や定跡なんてある訳がなく ( いや実はホンの一点だけある。 後述 )、ほとんどの方の人生が私にはそれぞれ立派な 「 一幅の絵画 」 と見えました。その絵画が私の趣味に合うか合わないかという違いは有りましたが・・・。 無職になって困ったことが、当初少し有りました。 一つは名刺がないことで、 月に何度か講演を頼まれたりした時など、初めてお会いした方に自己紹介するには、 やはり名刺は必需品だと感じました。 そこで、氏名と住所だけのシンプルなものと、 今の自分を他人に一番良く紹介すると思うもの ( 下にその要点を示す ) とを2種、作りました。
名刺の内容:
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以前、年賀状にも書いたことが有りますが、私が1年半前にまだ米国に居るころ
「 自分は会社の仕事をすっかり辞め、日本に帰る 」 と公表したとき、米人は100%が
「 おめでとう。 ハッピー・リタイアメント! 」 と祝ったのに対し、日本人は殆ど全員が
「 なぜですか? 」 「 次の仕事は? 」 と聞いたのです。
この時改めて両国の文化の違いを痛感しました。 それ以前にも、一部の親しい米人は私に 「 お前は幾つだ? 」 「 何? 62だ? 」 「 一体いつまでそう忙しそうに働くの? 」 「 65過ぎて働くようじゃ駄目だよ 」 などと遠慮無い忠告をしていました。 私は別にこれに感化されたわけでもないのですが、文化的バイリンガルとでも言うのでしょうか、 上記の二つの反応を両方とも非常に素直に良く理解できました。
60歳台の過ごし方は 「 人それぞれ 」 で良いも悪いも無いと書きました。
大体 「 こう生きたい 」 と思ったってこの世の中、そう出来ない事が殆どです。 ただ、
やれば出来るはずなのに自分の思いが通らず、不本意な生活を強いられるのは嫌ですね。 |
妻に上記の 「 その2 」 の内容を話したら 「 貴方だって日本に居た頃はほとんど夕食に帰ってこなかった
じゃない 」 と言われてしまいました。 米国に居た頃は、忙しかったけれど自分の意志でコントロール
が利きました。 例えば 「 今日はXXをする予定があるから6時に帰宅する 」 と自分が決めれば、
業務上の支障無くそれが可能でした。 つまり自分の公生活と家族や近隣との私生活との時間配分を、
よほどの事がない限り、自分でコントロール出来たと思います。 私以外の日本人もそうだったと思います。
こんなささやかで当り前の事が、日本に帰ると突然不可能になります。 最近米国時代に一緒に働いた 若い課長さんたちや、その奥さんたちと話す機会が4回ほどありましたが、異口同音に 「 日本に戻ったら毎日帰宅は深夜 」 「 部門長が残っているので自分だけ帰るわけには行かない 」 「 仕事はいくらでも後から後から来る 」 と言います。 でも彼らはへこたれず明るく頑張っています。 実に感心しました。 とは言え、あんなに自分のため、家族のために日本に戻りたいと言っていた彼らが、 やっと願いが叶って帰ってきたら、また別の深い悩みが待っていたわけです。 私の息子もある一流会社勤務の技術者ですが、同様の生活を送っています。 この状況を打開する責任者は一にも二にも部門長だと思います。私が日本の工場長時代は、 自宅でもやれる仕事 ( 書類調べなど ) はすべて大きな袋に入れて持ち帰り、6時半以降は会社に 居ないように努めました ( 米国子会社社長時代もそうしました )。 「 貴方だって日本に居た頃はほとんど夕食に帰ってこなかったじゃない 」 と言われたのは、退社後家に帰れず、毎晩のように社内外の会合に出ていたからです。 そのあと自宅に帰ってから、運転手が自宅に届けておいてくれた書類と ( 時には酔った頭で ) 毎晩数時間取り組んだわけです ( 子供たちに 「 父親は勉強もするのだ 」 と思ってもらえたと思う)。 会合が無い場合も6時半には退社して真っ直ぐ家に帰り、家族と夕食を共にした後、 ゆっくり書類に目を通して明日に備えました。 同じ11時まで仕事をするなら、 この方が家庭にも自分の健康にも良いと思います。 「 自宅には会社の仕事を持ち帰らない 」 と粋がって 毎晩遅くまで家に帰らないのとどちらが良いと思われますか? だから私の秘書やスタッフは7時前には必ず退社 ( しようと思えば ) 出来たはずですし、 部下の部長達も100%とまでは言えないまでも自分で自分の時間コントロールが出来たと思います。 悲しいかなやはり日本では上長が会社で頑張っていたら先に帰りづらいのですから、 日本の部門長さんたち、どうか英断と勇気をもって部下のため家族のために仕事のスタイルを変え、 早く退社してください。 どんな仕事にでも徹夜徹夜で頑張らなければいけない期間が有りますが、 限定された期間なら誰だって張り切ってやってくれます。 家庭第一の米国人だってそうでした。 こんなに献身的だとはと最初驚きましたが・・・ 一方、何年間も毎日深夜まで働き続けるなんて事を部下にさせてはならないと思います。 部下とその家族にそこまで犠牲を強いて、彼らにどれだけ報いてあげられるのでしょうか? 貴方はほとんど何もして上げられないし、会社も殆どの場合何も報いてはくれません。 それとも貴方の部下達は会社の ( または貴方の ) 業績向上のための丈夫で性能の良い部品に過ぎないのでしょうか? 部下の人たち、あなた方は性能が良すぎる。深夜まで頑張れば何でもやり遂げてしまう。 むごい失礼な言い方だが、それだから上層部が十分な人も与えずに無理ばかり言う事になるのです。 どんなに性能の良い機械でも手入れせずに酷使し続けたら、早晩老朽化し壊れます。 そうすれば新しい機械に替えられ除却されるだけです。 時間を作り手入れを行って将来に備えたいものです。 とは言いながら、私にもどうしてよいか分からない部分があるのです。 私も昔新製品開発に従事して ましたから、一日を争う会社間競争がある限り 「 負けられない 」 とフル回転せずには居られない要請 と言うものも十分理解できます。 文献を読んだり報告書を書いたりは自宅でもやれるし、 実際私もしょっ中やっていましたが、実験や討論は会社でなくては出来ませんから、本当に早く 帰宅できるのかと聞かれたら答えに窮するのですが・・・。 名案はあるのでしょうか?
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