夏のサハリン・稚内  2004.8.8〜8.13 

 6月に今年の夏は妻と二人でサハリンに行こうと決めて、今回は初めてのところだしツア−に参加することにした。インタ−ネットで探してファルコンジャパンのサハリン紀行4日間に申し込むことにした。8月9日に稚内を出発して12日に帰ってくるという日程で、ユジノサハリンスクとコルサコフ観光がついている。食事も全行程ついている。ツア−の代金は一人116,000円。他にビザの申請代行手数料5,250円を取られる。

 稚内からのツア−なので名古屋から稚内までの足を確保しなければならない。幸い今年の6月1日から夏の間だけ名古屋−稚内線が運航されるので、格安航空券を扱っている店にインタ−ネットで頼んだが、行きの8月8日はすでに満席でキャンセル待ちの状態だという。もし取れなかったら困ってしまうので、千歳まで行き、札幌から夜行列車で稚内に行くことにした。この夜行列車も寝台を取るのは大変だというので、発売日に休暇を取って10時の発売と同時に名古屋駅で購入した。帰りの稚内から名古屋の飛行機は取れていたので一応稚内往復の足は確保できた。稚内−名古屋は1日1便しかなく、フェリ−は10時出航、13時30分到着だが、飛行機は13時15分稚内着、13時55分稚内発なのでどうしても稚内で行きと帰りに1泊しなければならない。行きは札幌から夜行列車にしたので前泊はしなくてもよいが、帰りは1泊しなければならない。安い宿をインタ−ネットで探すが、なかなか見つからず結局ツインで1泊朝食付き14,700円のプチホテルJOYを予約した。航空券も今回は格安航空券を買ったので大分安く買えた。名古屋−千歳は正規料金33,800円が26,750円、稚内−名古屋は正規料金41,300円が29,750円で買えた。
 
 8月8日(日)
 午後3時過ぎに家を出てタクシ−で名古屋空港へ。国内線タ−ミナルは、帰省客で混雑していた。16時50分発の千歳行きのANA713はがらがらの状態で予定より10分程遅れて名古屋空港を飛び立った。1時間半後に千歳空港に着陸。着陸してタ−ミナルビルまでの距離がかなりありまるでロシアの空港に来たような感じだ。千歳の気温は25度。名古屋より涼しいがやはり暑い。19時04分発の快速エアポ−トライナ−で札幌へ。エアポ−トライナ−は1つの車両に扉が3つ有り、車室が前後二つに分かれているという珍しい列車だった。地下の新千歳空港駅から列車が外へ出るともう外は暗くなっていた。19時40分札幌着。インタ−ネットであらかじめ調べておいた駅の近くのアスティ41の1階にある「ととと」という店に行って、飲みながら夕食を食べる。日曜の夜ということで、店内は空いていた。できるだけ地元のものを選んで注文し、空腹だったのでたくさん注文し、少し食べ過ぎくらいだった。2人で8,004円だったがインタ−ネットで打ち出した500円割引ク−ポンを使って7504円に。腹一杯になった後、ゴムタイヤで走る札幌の地下鉄に乗って大通公園へ。大通公園を散歩し、帰りは駅までぶらぶら歩いて戻った。夜というのに歩いているとやはり暑かった。一風呂浴びて夜行列車に乗りたかったが、駅には安い銭湯はないので、洗面所で歯を磨き特急利尻に乗るために7番ホ−ムへ。

 ホ−ムに出ると丁度特急利尻が入ってくるところで、いつもは4両編成の列車が今日はB寝台も2両つないでゴロ寝カ−も1両ついていて8両編成だった。23時02分定刻に札幌を出発。既に寝台はセットされており、シ−ツを敷いて寝るだけだった。札幌を出ると検札があったが、その後は寝台車では車内放送もなくよく眠れた。気動車の寝台車だったがエンジンはついていなかったので静かだった。車内はク−ラ−が良く効いていて、毛布を掛けて寝て丁度良いくらいだった。
 
 8月9日(月)
 朝、外が明るくなっていたのでもう5時過ぎかと思い時計を見ると、まだ4時半だった。トイレに行く途中窓の外を見ると雨が降っていた。5時半にもうすぐ稚内なので起きるようにという車内放送があり、6時に予定通り稚内に着いた。
 

 風が吹いていて少し肌寒い。天気は曇り。大きな鞄をコインロッカ−に預け、洗面所で顔を洗い駅の待合室でそばを食べ、しおさいプロムナ−ドへ行く。途中の公園で朝のラジオ体操をやっていた。涼しくてすがすがしい朝の空気を胸一杯吸って体操をすると気持ち良いだろうなと思いながらそばを通り過ぎる。山の上を見ると大きな塔と風力発電の風車が霧に霞んでボ−っと見える。

 

 防波堤ド−ムに着き、上に上ってみるが風が強く、海以外何も見えずすぐに降りてくる。この古代ロ−マの柱廊を思わせる防波堤ド−ムの由来を書いたプレ−トを読んでみると昭和6年に着工され11年に完成したそうだ。その後老朽化が進み昭和53年から改修が始められ55年に完成したという。そしてその外観から通称「ド−ム」と呼ばれているそうだ。このド−ムの下ではバイクや自転車で北海道を回っている若者達がテントを張って野宿をしていた。雨、風を防げる絶好の場所だ。ド−ムを見た後、そばにある利尻、礼文島へのフェリ−乗り場に行ってみる。既にフェリ−が停泊していて、フェリ−に乗る車が並んで乗船を待っていた。サハリンへ行くフェリ−と同じ形のフェリ−だ。フェリ−乗り場のタ−ミナルビルは3階建ての立派な建物だった。その前のおみやげ屋さんの店先に顔だけを出して写真を撮れる間宮林蔵のパネルがあったのでそこで間宮林蔵になった気分で写真を撮る。

    

 特に行くところもないし、帰りに泊まる予定のプチホテル「JOY」を探す。ホテルはすぐに見つかった。稚内駅の正面の信号を渡って2本目の道路、北洋銀行の隣にあった。便利な場所だったので一安心。

 コ−ヒ−でも飲んでいこうかと開いている喫茶店を探してぶらぶらする。扉が開け放してある喫茶店があり、そこに入る。涼しいので扉を開け放していても丁度良い。名古屋では朝からク−ラ−がうなっているのに。コ−ヒ−を飲んでいると店のマスタ−が「どちらからみえました」と聞くので、名古屋からだと言うと、「稚内の涼しさは最高でしょう。夏に25度を超える日は例年2日くらいしかないが、今年はもう4日もあって、こちらも猛暑です。25度を超えると暑くて耐えられません。」と言われ、「冬はどうですか」と聞くと「冬も海が近いので気温はそんなに下がらずマイナス10−15度くらいで、札幌や旭川なんかはマイナス20度以下になることもあるのであっちの方が寒いよ。雪もそんなに積もらないが、風が強いので地吹雪がすごい。」という答えが戻ってきた。私たちがこれからサハリンに行くと言うと、先に来ていたお客さんと一緒になってサハリンについていろいろと教えてくれた。そのお客さんは10年くらい前にロシア側に招待されて8泊9日でサハリンに行ったが、招待してくれた人は2時間くらい一緒にいただけで後は全然案内も何もしてもらえなかったとか、通訳付きの車であちこち回ったが最初の約束よりも高く取られたとか。労働者が民主化のせいで働かない、デパ−トでの買い物が昔のソ連方式(まず欲しい品物を決めて、次にレジに行って何を買うか言い、お金を払いレシ−トを受け取る。そしてそのレシ−トを欲しい品物を売っているところに持っていってやっと品物がもらえる)で非能率的だった等々。

 8時過ぎまでこの喫茶店にいていろいろ教えてもらい、駅へ行きコインロッカ−から荷物を出して国際フェリ−タ−ミナルへ向かう。駅前にある大きな地図では温水プ−ル水夢館の横の道を行くと海沿いに国際フェリ−タ−ミナルへ行けることになっているが、実際には道がなく結局駅の南側の道を東へ入り、うらぶれたロシアのような倉庫のそばを歩いていくとようやく国際フェリ−タ−ミナルがみえてきた。既に私たちの乗るアインス宗谷が停泊していたのでそれを目標に歩いていった。8時45分くらいにプレハブを思わせる平屋建ての小さな国際フェリ−タ−ミナルビルに着いた。
 
狭い待合室には大きなス−ツケ−スを持った人たちであふれていた。待合室正面に受け付けカウンタ−があり、パスポ−トと乗船券を見せた。税関検査は9時から始まるとのことだったので満員の待合室を出て外で全日空ホテルや温水プ−ル、ド−ムの写真を撮っていた。9時に税関検査が始まり、待合室の奥の部屋に進んだ。ここでは荷物を預ける人だけ税関検査があり、手荷物だけの人は何もなかった。果物ナイフを持っていたので心配していたが、飛行機に乗るときのようなセキュリティチェックもなかった。税関検査のところで15分くらい待っているとようやく出国審査が始まった。乗客は全部で40人くらいと少ない。ロシア人も数人いたがほとんどは日本人だった。若い人たちや小さな子どもを連れた家族連れもいて、年寄りばかりかという予想は外れた。

 アインス宗谷は2628トン定員223名のカ−フェリ−で、1等はリクライニングできる椅子席で30名、一等和室20名、2等が桝に仕切られた平土間式で173名となっている。お客が少ないので2等船室の方が寝っ転がれて楽かもしれない。毛布と枕が用意されていて、私たちの枡には他に年配の女性が二人いただけで4人で広々と使えた。各枡毎にテレビがあり、日本の衛星放送が映るので高校野球を見ていた。船には自動販売機があり、缶ビ−ル(350ml)が100円で売られている。これは税金がかからないのでこの値段なのだ。お茶やジュ−スよりもビ−ルの方が安い。出入国申告書や税関申告書(所持金が3000ドル以下なら不要なはずなのに、なぜかコルサコフ港だけ必要だという。)を書き終わってから早速1本買って飲む。つまみもア−モンドやカシュ−ナッツ、柿の種が1袋120円という良心的な値段で売られていた。ビ−ルを飲んで、昨日夜行列車で眠り足りなかった分を、ここで横になって眠ることができた。12時少し前に起きてデッキに出てみると遠くにサハリンの島影がみえてきた。宗谷岬とサハリンのクリリオン岬との距離はわずか43キロだが、フェリ−は稚内港とアニワ湾の奥深くにあるコルサコフとの間158キロを結んでいる。12時にお弁当とお茶が配られた。これは1等も2等も同じ弁当で、稚内で積み込まれた弁当だ。  

 アニワ湾に入ってからも曇っていてサハリンはよく見えなかった。フェリ−は予定通り15時30分(サハリン時間17時30分)にコルサコフ港に入港した。入港検査のあと下船が許可され船を下りるとバスが待っていて、500mほど離れた税関の建物の前で降ろされた。入国審査の窓口は一つしか開いておらず早めに並んだにもかかわらず15分ほど待たされた。入国審査を終え、税関で申告書を2枚渡したが2枚とも取られた。2枚提出したうちの1枚を返してくれて、出国の時に手持ちの金額を書いて3枚目の申告書と一緒に出すということになっているのに。

 税関を出て迎えの人たちが待っているところへ出るとたくさんの人が名前を書いた紙を持って立っている。私たちの名前を書いた紙を持っている女性に声をかけると他にも一緒に行く人が3人待っていた。私たちが出て来るのを待っていたようだ。迎えに来てくれた女性は一瞬日本人かと思う朝鮮系のロシア人のタ−ニャだった。お客は私たち二人と老人夫婦、そして若い男の人の計5人でワゴン車に乗って出発した。若い男の人はフリ−プランなのでホテルと朝食だけが一緒だ。結局2日間一緒に観光するのは老夫婦だけだった。コルサコフからユジノサハリンスクまでは車で40分程度。起伏のある道を上ったり下ったりしながら走っていくと途中、道ばたでキノコを売っている人たちが数人いた。
 ホテルはユジノサハリンスク駅の横にある「ユ−ラシア」で3階の私たちの部屋の窓から下を見ると駅のホ−ムになっていて列車の出入りや乗客の動きがよく見えた。鉄道好きの人はこのホテルの駅のホ−ムが見える側をリクエストするそうだ。ガイドのタ−ニャに両替をしたいといったら、連絡を取ってくれて7時半に持ってきてくれるという。今夜の夕食は7時からということで荷物を部屋に置くとすぐに1階玄関横にあるレストランに行った。老夫婦とビ−ル(ロシアのビ−ルバルチカ3)を飲んだ。ビ−ルはバルチカ3しか置いていないそうだ。でもよく冷えていて美味しいビ−ルだった。夕食のメニュ−はイカのサラダ、豚肉のホワイトソ−スかけライス付き、丸パン、コ−ヒ−または紅茶。食事をしている途中で先ほど頼んだ両替のル−ブルを持ってきてくれた。1万円が2350ル−ブルだった。夕食後自由市場に行ってみたがもう閉まっていた。仕方なくぶらぶら歩いているとスイカや青いブドウを売っている人がいた。スイカは食べきれないので、ブドウを40ル−ブル分(1キロ60ル−ブル)買った。ホテルに帰る途中、食料品店によって「サハリンスカヤ」というウォッカを買おうとしたがなくて、3軒目になかったら諦めて、他のサハリン産のウォッカを買うことにしていたら幸運にも3軒目の店にあり、3本買った。このウォッカは添加物として蜂蜜と乳酸を使っているそうだ(普通は砂糖を入れている)。1本74ル−ブル(約300円)と嘘みたいに安い。他にかりんとうのようなお菓子とクッキ−(各18ル−ブル)をこの店で買った。そして駅に行って夕食の時に飲んだのと同じビ−ル、バルチカ3を買った。ホテルでは50ル−ブルだったが、駅では22ル−ブルで売っていた。ただ冷えてなかったので持って帰って冷蔵庫に入れて、風呂上がりに飲んだ。栓抜きがなかったので1階のフロントまで借りに行かなければと思っていたが、電話台の引き出しを開けてみたら入っていた。このホテルはかなり高いホテルのようで、風呂とトイレはユニットバス、冷蔵庫とテレビ、洋服ダンス、書き物机がついている。窓もアルミサッシの窓で開け閉めが楽だ。部屋の中は暑く窓を開けると外の涼しい風が少し入ってくる。ずっと窓を開けていると蚊が入ってこないかと心配していたが蚊は全然入ってこず、助かった。結局窓を開けて寝たが、列車が動く音が良く聞こえついつい窓の外を見に行ってしまう。列車は11時過ぎまで動いていた。夜中に寒くなって窓を閉めた。
 
 8月10日(火)
 朝、目が覚めると6時半だった。外は少し明るくなっていたが曇っていた。窓を開けると冷たい風が入ってきた。今日は長袖を着た方が良いようだ。朝食は8時。1階のレストランに行くとフリ−プランに参加している若い男の人が先に朝食を食べていた。彼は釧路に住んでいるそうだ。朝食はサラダ、ボイルソ−セ−ジライス添え、パン、紅茶またはコ−ヒ−。朝食を終え外に出てどのくらい涼しいか確かめていると、丁度ノグリキからの列車から降りてきた若い日本人の男の子が「日本人ですか」と話しかけてきた。8日にユジノサハリンスクに来て、その日の夜行でノグリキまで行き、そこに5時間ほどいてまた夜行で戻ってきたと言っていた。ロシア語が全然できないので同じコンパ−トメントの人たちと話しができず淋しい思いをしたようだ。ずっと話ができなくて、日本人を見たので思わず話しかけてきたのだろう。

 9時に昨日とは違うナタ−シャというガイドがやってきて今日のユジノサハリンスクを案内してくれるという。ワゴン車に4人が乗り込み、まず戦勝記念公園へ。1945年にロシアが第二次世界大戦に勝利したことにちなんで30年後の1975年に作られた公園で記念碑の上に戦車があり、横に大砲があるだけの小公園で他には何もなかった。ユジノサハリンスクの気温は20度くらいだったが、ガイドのナタ−シャは半袖でも寒くないと言っていた。

 

 次にロシア正教会へ。ソ連時代は宗教は弾圧されていたがロシアになって復活し、ここの教会も昨年改築されたたそうだ。中にはいると新しいイコンが入ったということで、イコンについての説教が行われていた。20人くらいの老若男女が司祭の説教に熱心に耳を傾けていた。教会の地下に売店がありロシア正教関係の本や道具(香炉や十字架のネックレス等)が売られていた。

 続いてガガ−リン公園へ。ユジノサハリンスクで一番大きな公園で、大きな池があり日本時代に作られたという橋があった。公園の中を走る子ども鉄道というのがあり、これは子どもが列車を運転しているそうだ。10時30分に最初の列車が来ることになっているがまだ10時だったので見られなかった。同行の老夫婦が歩くのが大変だというので公園の入り口のところを少し散策しただけで終わった。ガイドのナタ−シャはサハリン総合大学の東洋学部4年生で夏はアルバイトでガイドの仕事をしていると言っていた。

 

 ガガ−リン公園の裏手にプ−チン大統領も泊まったという高級ホテル「サンタリゾ−ト」があり、そこを外から眺めて次の目的地博物館へ行った。しかし博物館は11時からで、まだ開館までに15分くらいあった。この博物館は日本時代の建物で入り口の横に狛犬があった。庭には噴水がありこれも日本時代に作られたものだそうだ。博物館に向かって右側には昔の大砲が二つと小さな建物があった。これは日本時代に中学校にあったご真影が保存されていた建物だそうだ。博物館の入り口にある狛犬にロシア人の女の子が乗って遊んでいたので写真を撮って良いかと聞くと愛想良く「ダ−」と答えてくれた。博物館の横手から20人くらいの小学生の団体が歌を歌いながらやってきた。愛嬌のある子どもたちで私たちを見るとほほえんで手を振って挨拶してくれた。そうこうしているうちに博物館が開館し、中に入った。博物館の1階はサハリンの自然(動物、鳥、海の生物)や千島列島の火山の展示があり、私が驚いたのは千島列島が火山列島だったということだ。写真パネルで海辺の奇岩や火山の様子が紹介されていたが、今はそこへはヘリコプタ−で行くしかないようで残念だ。観光開発すれば多くの人たちが訪れるであろうと思われるが、観光開発されていないからこそ自然がありのままに保存されているのかもしれない。1階の展示物の目玉は旧日ソ国境に立っていたという境界の石だ。ソ連側の石と日本側の石が並べて展示されていた。

 

 2階はソ連時代のサハリンの展示があり、韓国のものを展示している部屋もあった。ユジノサハリンスクの人口は17万人で朝鮮人は20パ−セントを占めているという。ユジノサハリンスク市は韓国のプサン市と姉妹都市だそうだ。第二次世界大戦が終わった後日本人は日本へ帰国させられたが、朝鮮人はサハリンに残されたようだ。博物館の出口のところで売っている本を買った老夫婦の夫がお金がない、パスポ−トがないということに気づき、大騒ぎ。ホテルに忘れてきたかもしれないというので一度ホテルに戻って部屋の中を探してもらったらあったそうで一安心。続いて美術館に行った。ここはサハリン在住の画家の作品が展示されていて、特に有名な絵があるというわけではない。2階にやはり朝鮮コ−ナ−というのがあり陶器やテ−ブル、書、絵画が展示されていた。

 美術館前にあったチェーホフの銅像

 美術館を出てちょっと遅めの昼食にレストランへ。ここはバイキング形式でロシア料理だけではなかったが、ブリンチキ、コケモモのジュ−ス、ウハ−などが美味しかった。ここのレストランは以前はあまりはやってなかったが、カジノやディスコを作って流行るようになったそうだ。食事をしながらガイドのナタ−シャにロシア人の生活についていろいろと聞いたが、ロシア人の平均月収は100−150ドルだという。

 レストランを2時に出て、買い物へ。でもル−ブルが残り少なくなってきたので両替をしたいと言ったら連れて行ってくれたが、道ばたに立っている人に1万円を渡して2500ル−ブルもらった。ナタ−シャは銀行の人ですと言っていたが、あれはどう見てもヤミの両替屋だ。でも交換レ−トは正規のものよりも良かった。昨日ホテルのレストランまで持ってきてくれた両替は1万円で2350ル−ブルだった。

 ヘルメス−ル−シという土産物店では日本語のできる店員が数人いて日本語でいろいろと説明してくれた。絵はがきと思って買ったユジノサハリンスクの名所の写真カ−ド(印刷がとてもきれいで一組125ル−ブル)とチェブラ−シュカのマトリョ−シカ、白樺の木で作った櫛を買った。

 次にデパ−トへ。ここでお土産のチョコレ−トと松の実(100p)を買った。そして老夫婦が本屋へ行きたいというので本屋に行き、私もゴ−ゴリの「死せる魂」を買おうと店員に聞いたがなかった。結局子ども向けの科学の本を1冊と、妻がロシア語のアルファベットの練習帳を買った。4時にホテルに戻ってきた。夕食は6時から、明日の朝食は8時、出発は9時半というナタ−シャの説明を聞いて別れた。私たちはイクラと鮭の薫製を探してデパ−トの横にあった市場まで歩いていき、何軒かの店で聞いてみたがなくて、諦めかけていたところでようやくイクラの缶詰と鮭の薫製の真空パックを見つけて買うことができた。他にリンゴ1個と洋なし2個を28ル−ブルで買った。もう5時半を回っていて6時の夕食に間に合うようにバスで戻ることにした。普通のバスは少なく、もっぱらワゴン車を改造したマルシュル−トカというミニバスが頻繁に走っている。バス停で待っているおばさんに、ここから駅に行くことができるかと聞いたら「もちろん。でも郵便局のところで降りるんだよ。バスが来たら教えてあげるよ」と言ってくれた。すぐにバスが来たが満員で乗れなかった。すぐにまた次のバスが来てそのおばさんと一緒に乗った。料金は1人7ル−ブル。おばさんが運転手のそばに座っているお客さんにお金を渡して払ってもらっていたので、私たちもおばさんに頼んでお金を払ってもらい、お釣りももらった。何となく昔の社会主義時代を思い出させる払い方だ。昔、バスに乗って満員でもお金をそばの人に渡して、「カッサ(会計)」と言うとお金が手渡しで料金箱のそばにいる人まで渡され、その人は料金箱にお金を入れに入れ、切符がお金を払った人まで戻ってくるというシステムだ。駅までは行かなかったが、郵便局の前までバスに乗ったので夕食時間の6時にはゆうゆうだった。ホテルの近くの食料品店で果肉入りのヨ−グルト(12ル−ブル)を2個買って帰ったが、スプ−ンがなくて苦労して食べた。次の旅行の時にはスプ−ンを持ってこよう。

 6時にレストランに行くと夕食は7時からだという。でも後30分待って6時半からなら良いというので、また部屋に戻って休憩。今日はたくさん歩いたので疲れた。6時半になり再びレストランへ。今夜のメニュ−はマヨネ−ズ和えのサラダ、ス−プ入りのペリメニ、豚肉のチ−ズ焼きライス添え、リンゴとオレンジのフル−ツ盛り、紅茶またはコ−ヒ−というメニュ−だった。ペリメニはスメタナがほしいといったら、持ってきてくれた。ペリメニはス−プの味も良くて美味しかった。ビ−ルを頼む時、生ビ−ルはないかと聞いてみたがないと言われ、昨日飲んだバルチカ3以外のビ−ルはないかと聞いてもないというので仕方なくバルチカ3を頼んだ。

 食べ終えた頃に、今朝ノグリキから戻ってきたという若者がレストランに入ってきた。何を注文したらよいのかわからないと言うので相談にのり、野菜サラダと私たちが食べていたス−プ入りペリメニ、パンと紅茶を頼んだ。肉料理は一番安いのは何かと聞いたら何か豚肉の料理だったが200ル−ブルもすると言われてやめた。彼への請求は156ル−ブルだった。若いので学生だと思っていたが、話を聞くと28歳だそうだ。ユジノサハリンスクについてすぐにノグリキまで夜行列車で行き、向こうで5時間くらいいてまた夜行列車で帰ってきたと言っていた。明日はバスでホルムスクへ行くと言っていた。
 
 8月11日(水)
 今朝も外は涼しい。昨日の天気予報では14度−21度と言っていた。今日も長袖を着ることにした。日本でサハリンの天気を毎日見ていたら25度近くまで気温が上がっていたので、長袖の数を減らして、半袖をたくさん持ってきたが間違いだった。今日の朝食はパン、卵焼き(ロシアの卵は黄味の色が薄いので、卵焼きにするとまるで白味だけで作ったような色になる)、サラダ、紅茶またはコ−ヒ−とちょっとさみしかった。おまけに老夫婦の一人は卵焼きの代わりにスクランブルエッグになっていた。

 9時半に昨日と同じガイドのナタ−シャに連れられ、老夫婦とワゴン車で出発。コルサコフへのきれいに舗装された道を途中まで走り、東に折れてしばらく行くと右手にトナイチャ湖が見えてきた。大きな湖だが特に美しい場所ではなく、普通の湖だった。車を降りて周りに生えている花を見て湖の写真を撮って車に戻った。

  トナイチャ湖

 さらに少し走ると今度は左手にイズメンチャイ湖が見えてきた。この湖は海とつながっている塩水湖だそうだ。ここも特に美しい場所はなくただの湖だった。土産物店があるわけでもなく、何かの記念碑があるわけでもない。周りに生えている草花を見たり、四つ葉のクロ−バ−を探したりして時間を過ごした。

  イズメンチャイ湖

 さらに東へ走るとオホ−ツク海が見えてきた。そしてオホ−ツコエ村という小さな村があり、家が点在していた。今日のオホ−ツク海は波も穏やかで風も強くなかった。砂浜の砂が日本のより大きかった。砂浜に咲いていた変わった花の写真を撮り、また同じ道を戻ってコルサコフの町へ。

 オホーツク海をバックにガイドのナターシャと妻

 お昼になっていたので「スモ−」という名前のレストランにお昼を食べに行った。入り口はパッとしないレストランだったが中はきれいだった。ナタ−シャが注文してくれたが、サラダ、サリャンカ(野菜ス−プ)、海の幸のホワイトソ−ス焼き(ホタテの貝殻にイカ、カニ、ホタテ貝柱がのっていた)、こけもものジュ−ス、パン。地元コルサコフのビ−ルを飲もうと頼んだら、ハイネッケンしかなく、しかも小瓶で1本70ル−ブルもした。このレストランでトイレに行くと便器の高さが日本人にとっても低いくらいで、いつも高い便器に座って足が地につかない思いをしている日本人にとってはよかったが、便座がなかった。

 レストラン「すもー」

 レストランを出てコルサコフに唯ひとつ残っている日本時代の建物、旧拓殖銀行を見に行く。今は使われていなくて、かなり傷んでいた。

 

次にコルサコフの町や港が一望できる展望台に行った。ここもやはり何もなく、ただの見晴らしのいい場所というだけで、売店や土産物店があるわけではない。そして老夫婦が本屋に行きたいというので、本屋に行ったが、昨日のユジノサハリンスクの本屋よりも小さくて、ないと思ったがゴ−ゴリの「死せる魂」があるかどうか聞いてみたら、やっぱりなかった。この本屋のある通りは白樺の並木になっていてきれいな通りだった。

 白樺の並木道

 コルサコフにあるビ−ル工場のビ−ルを是非飲んでみようと、ビ−ル工場まで行ってもらったが、ちょうどお昼休みで閉まっていた。半ばあきらめていたがユジノサハリンスクへ帰る途中の小さな店でナタ−シャが車から降りて聞いてみると、あるというので買いに行った。500ミリリットルのびんか缶だと思っていたら、1.5リットル入りのペットボトル入りだった。普通の色のと黒ビ−ルとあるがどちらがよいかと聞くので、普通のを1本65ル−ブルで買った。この店では量り売りのビ−ルも売っていた。

 ユジノサハリンスクの日本語が話せる店員のいる土産物店にもう一度寄ってもらって、買い足りなかったお土産を買い足し、3時半にはホテルに戻ってきた。

 荷物を置いて自由市場に出かけた。老夫婦のおばあさんの方が一緒に行きたいというので3人で出かけることにした。来た日には閉まっていた自由市場にはいろんな店がずらりと並んで、活況を呈していた。スイカは1キロ25ル−ブル。日本では1個いくらで売っているので、1個当たりいくらになるのかちょっと見当がつかないが、日本よりはかなり安い。クリベ−トカというエビのボイルしたのを100ル−ブル分(1キロ300ル−ブル)買い、木イチゴの紅茶(20パック入り15ル−ブル)、インスタントス−プ(インスタントといってもロシアのは15分くらいかかる)、ラズベリ−、大根キムチ、黒パンを買った。キムチを売っているおばあさんは日本語がとても上手で、1942年にサハリンに来て、そのまま残っているそうだ。毎日衛星放送で日本のテレビを見ていると言っていた。15ル−ブルのキムチを買っただけなのに、キュウリが美味しいからと食べろといって3本おまけにくれた。

 買い物を終え、ホテルに戻ってシャツの胸ポケットに入れておいた財布がないのに気づき真っ青。部屋の中に落としたのかと思ったが、部屋の中にはない。最後に出したのは黒パンを買った時だった。そこから700メ−トルくらいの間にすられたのか。パン屋の前にいた女の子の二人連れか、種を買いに寄った花屋、郵便局、ホテルの近くの食料品店、どこでなくなったのかわからない。現金は1000ル−ブルくらいしか残っていなかったので惜しくはないが、クレジットカ−ド2枚と運転免許証が入っていたのが心配だ。稚内に戻ったらすぐに紛失の連絡をしなければ。そういえばイルク−ツクに行ったときイ−ラに胸ポケットは危ないと注意されていたのをお思い出した。それに使えもしないクレジットカ−ドなんか持ってくる必要もなかったし、免許証などさらに必要なかった。旅行に来るときはいつも使わないカ−ドや免許証は置いてきていたのに、今回に限ってそのまま持ってきてしまった。やはり旅行の時は日本の財布は置いてきて、別にお金だけ入れる財布を持っていくべきだと思った。8月8日の競馬の当たり馬券と北海道で買ったオレンジカ−ド3枚は妻に預けておいたので被害にあわなくてすんだ。あまりのショックに気持ちも沈んでしまった。

 夕食は外のレストラン(昨日バイキングのお昼を食べたレストラン)で取ることになっていて、運転手が迎えに来て私たち4人を乗せてレストランのテ−ブルまで案内してくれた。そして1時間後に迎えに来るからと言って帰って行った。料理は予め頼まれていたものが出てきた。ビ−ルを飲もうかと老夫婦の夫が言ったが、ホテルに戻ってコルサコフのビ−ルを飲まなければならないのでやめましょうと言って飲まなかった。夕食のメニュ−はマヨネ−ズであえた野菜サラダ(かなり量があった)、みそ汁(日本人だからと注文してくれたのか。具は昆布、豆腐、ネギ、カニで白みそ仕立てだったが、あまり美味しくなかった。ス−プ皿に入ってきたので、お椀の倍以上の量があった。)。そしてメインディッシュは白身魚のフライで衣に木の実がまぶしてあった。それにチャ−ハン、トマト、オリ−ブ、フライにつけるタルタルソ−スが付いていた。料理は脂っこくて全部は食べられず、残してしまった。財布をなくしたショックもあり、あまり楽しめなかった。運転手が1時間後にテ−ブルまで来ると言っていたが、ちっとも来ないので外に見に行くと来ていたのでレストランを出ようとすると、なにやらお金が足りないと言っているので、運転手に聞きに行くと旅行会社が払っているというので、そう伝えるがやはり足りないと言う。そのうち運転手がレストランまで来て、会社に電話してレストランに話をして何とか解決したようだ。もしビ−ルを頼んでいたら、払う必要のないお金も一緒に払わされていたかもしれないところだった。

 8時過ぎにホテルに戻り、買ってきたビ−ルを老夫婦と一緒に飲んだ。コルサコフのビ−ルはちょっと甘くてこくのある地ビ−ルの味がした。つまみは市場で買ってきたクリベ−トカ(茹でエビ)、キムチ、キュウリ。クリベ−トカは生臭くておまけに卵ももってなくて、カムチャッカで食べたものほど美味しくなかった。10時頃まで飲んでしゃべっていた。その後荷造りをし、たくさんのお土産でバッグもリュックも一杯になった。今まで窓を開けておいても虫や蚊は入ってこなかったのに、なぜか今日は入ってきてイヤな予感がしていたが、案の定夜中に蚊に刺されてかゆくて目が覚めた。ウナコ−ワを持ってきていたが荷作りをしてしまっていたので使えなかった。仕方なく眠ろうとすると耳元で蚊のうなり声が聞こえてきて眠れず、それでもやっと眠ることができた頃、今度は雨が降ってきて屋根から落ちて来る雨がとたんか何かの上に当たって立てている音で眠れず、やっと眠ったら5時に目が覚めた。

8月12日(木)
 船の中で眠っていけばいいからと6時には起きて冷蔵庫のイクラや鮭の薫製をリュックに入れ、7時15分からの朝食に1階のレストランに降りて行くと、もう他の3人は先に食べていた。朝食のメニュ−はパン、トマトサラダ、ブリヌイ、紅茶。朝食を終えた後、8時にマイクロバスで出発。迎えに来たのは日本語の上手な年配の男の人だった。3日間雨に降られずにすんだが、最後の日に雨に降られた。でも今日は帰るだけなので雨でもかまわない。8時45分にコルサコフに着くと、昨日、一昨日と2日間案内してくれたナタ−シャが待っていた。「昨日買ったコルサコフのビ−ルは飲みましたか」と聞いたので「とても美味しかった」と答え、税関の建物の中に案内され、すぐに中に入れたので、ここでナタ−シャと別れた。税関では申告書を出せと言われ、書いてなかったのでその場で書き始めると、持ち出し禁止のものは持ってないかと聞かれ、持っていないと答えると白紙の申告書でOKと言われ、レントゲン検査の方へ行かされた。レントゲン検査でバッグの下の方に入っている四角い影は何かと聞かれ「多分チョコレ−トだと思うけど」と言うと「本か?」と聞くので、本もあると言ったら、「古い本か?」と聞いてきた。「いや、小学生のための本だ」と答えて「辞書か何かだね」と言われ無事通過。出国審査を通り、バスに乗ると5,7人しか乗っていないのに出発して桟橋のフェリ−まで運んでくれた。港湾使用料400ル−ブルを支払わなければならないとパンフレットに書かれていたので用意していたが、ツア−代金に入っていたのか払わずにすんだ。あっという間に出国手続きが終わり、9時にはもうフェリ−に乗り込んでいた。

 10時25分にコルサコフ港を出航。オ−トバイでこのフェリ−に乗り込んできた人たちは雨のせいでどろんこだった。一昨日レストランで一緒に食事をした若者も同じフェリ−に乗っていて、迎えの車を予約しておいたのに来なくて、日本の旅行社に電話したら、タクシ−で行ってくれと言われ、ロシア語もできないのにと困っていたら、他のツア−の人たちがコルサコフまで自分たちの車に乗せてくれたそうだ。12時過ぎに今回はパン弁当とコ−ヒ−が配られた。丸パンとサンドイッチ、ミンチボ−ル1個、チ−ズボ−ル2個、バタ−・ジャム、ゼリ−が入っていた。アニワ湾を出るまでに3時間半くらいかかり、オホ−ツク海に出ると波が荒くなり船がかなり揺れだした。でも天気も良くなり後ろにサハリン、前に宗谷岬、ノシャップ岬、利尻島が見えてきたので、デッキに出て写真を撮った。船は予定より30分ほど遅れて2時(日本時間)に稚内港に着いた。なぜか入国審査に時間がかかっており行列がちっとも進まずまるでロシアに来た時のようで、入国審査が終わるまでに20分以上もかかった。

 税関審査はすぐに終わり、外に出てリュックを背負って、キャスタ−が付いているが、くるくる回ってちっとも言うことをきかない重いカバンを引きずりながら今日の宿泊先である駅前のプチホテルJOYまで歩いていった。国際フェリ−タ−ミナルの前にはタクシ−もおらず、予め頼んでおかないとタクシ−にも乗れない。稚内の気温は23度くらいなので15分くらい歩いて行ってもそんなに大変ではなかった。プチホテルJOYは代金前払い方式のホテルでツインの部屋が1泊セルフの朝食付きで14500円だった。ホテルに着いてまずNTTの番号案内でJCBの電話番号を聞くと、「カ−ドの紛失ですか」とまるでこちらのことを知っているかのような素早い対応で電話番号を教えてくれた。そこに電話すると住所、氏名、電話番号、生年月日などを聞かれ、紛失したカ−ドを無効にし、新しいカ−ドを1週間くらいで送ってくれるという。あまりの対応の素早さにちょっと感激。次にもう一枚のカ−ド(郵便貯金のキャッシュカ−ドとVISAカ−ドが一緒になったもの)の手続きに近くにある稚内郵便局へ行く。窓口でその旨を伝えると端末機で調べてくれて、カ−ドの停止措置をとってくれた。カ−ドの再発行には1ヶ月くらいかかるが、住所がわかる証明書が必要だと言うので名古屋に帰ってから手続きをすることにした。紛失したカ−ドの停止手続きがスム−ズにすんで一安心し、稚内公園へ行く。

 日本一短いというロ−プウェイで山の中腹まで登れる。一応10分間隔の運転になっているが、お客さんが来るとすぐに動かしてくれる。所要時間はわずか2分でゴンドラの名前は南極観測隊に同行し自力で越冬した2匹の樺太犬の名前をとって「タロ号」、「ジロ号」だった。ロ−プウェイを降りて稚内開基100年記念塔まで急な坂道を登っていく。途中から遠くの丘の上にいくつもの風力発電用の風車が回っている景色が見えた。この地域は風が強くて風力発電に適しているようだ。10分くらい登ったところに記念塔があり、エレベ−タ−で上に上ると展望台から稚内市内はもちろん利尻富士やサハリンも見えた。西の方には自衛隊のレ−ダ−基地が見えた。以前は米軍のレ−ダ−基地だったのが自衛隊に移管されたそうだ。

 くっきりと見える利尻富士

 日ソ国境の境界石(記念塔の中の北方記念館にある)

 5時20分がロ−プウェイの最終だというので、それに間に合うように降りていく。途中に風力発電の風車が1基あるのでそれを見に行くと、そばに野生の鹿が1頭いた。近くまで寄っていっても逃げなかった。

  

 ロ−プウェイで下に降りて、バスでノシャップ岬へ。5分くらいでノシャップ岬に着き、そこから更に歩いて5分でノシャップ灯台、水族館、科学館、記念碑があるノシャップ岬に着く。丁度日が傾いて水平線の上の空がピンク色に染まり始めており、利尻富士も見えた。日没は18時48分という表示があり、それまで待つのは30分以上もあり、涼しくなってきたので戻ることにした。

 駅前バスタ−ミナルでバスを降り商店街を東の方へ歩いていくと、それぞれの店の前にロシア語で店の種類と名前が書かれているのに気が付いた。きっとロシア人がよく来るので書いてあるのだろう。

 カフェ《えっちゃん》と書かれている

 そしてある食料品店に入り、地元の食料品を探してみる。旅行に出たときには地元の食料品店で、そこにしかない珍しいものや、その地方で作られた食料品を買って食べるのを楽しみにしている。ここでは北海道ということで甘納豆、カボチャケ−キ、かりんとう、コ−ラのような飲物、明日の朝食用のパンを買った。ス−パ−の袋をかかえて近くの居酒屋へ夕食を食べに行く。ヒメホッケの干物、明太冷や奴(豆腐が普通の木綿豆腐よりずっと堅くて美味しかった)、大根サラダ、サンマのたたき、つくね、ロシアンミ−トスパゲッティを食べた。ロシアンミ−トスパゲッティというのは普通のミ−トソ−ススパゲッティに生クリ−ムがのっていて人気だというので頼んでみたが、甘い生クリ−ムというのはちょっとアンバランスだ。ロシア人の好きなスメタナをかけているつもりなら、サワ−クリ−ムの方が近い味だろう。10時(サハリン時間では12時)に船の中で弁当を食べてからずっと何も食べてなかったのでお腹がぺこぺこだった。ビ−ルと新潟の酒「緑川」ですっかり良い気分になりホテルに戻る。ホテルに着いて、今日郵便局で買った「北の国から」の絵入りハガキに友人と息子達に涼しかったサハリンや稚内の様子を書いて、すぐ近くにある郵便局まで投函しに行った。サハリンからハガキを出すと40円(10ル−ブル)で国内から出すよりも安いが、モスクワ経由で届くので2週間もかかる。稚内からだと2,3日で届くのでこちらの方がずっと早い。

8月13日(金)
 朝5時に目が覚める。わずか2時間の時差なのに時差ボケであろう。6時半から近くの中央公園でラジオ体操をやっているのを8日の朝に見て知っていたので、久しぶりにラジオ体操をやりに行く。公園は今夜から始まる盆踊りのやぐらが作られていた。全部で30人くらいの地元の子どもや大人達に混じって青空の下、涼しい朝の空気を胸一杯に吸い込んでラジオ体操をすると体が軽くなったような気がする。ホテルに戻り朝食をとる。ロビ−に用意されたコ−ヒ−、ジュ−ス、牛乳、ゆで卵、カップに入ったヨ−グルト、コ−ンフレ−ク、バナナ、ロ−ルパン、ジャムを好きなだけトレイに乗せて各部屋で食べるというシステムだ。そばには3組のテ−ブルと椅子が置いてあり、そこで食べることもできる。私たちは昨日、地元の食料品店で買った干しぶどう入りのフランスパンと黒砂糖入りパンケ−キ、北海道四つ葉ヨ−グルトも出して一緒に食べた。
 朝食の後、8時30分発の定期観光バスAコ−ス(稚内公園−ノシャップ岬−宗谷岬−青森空港−稚内駅前)に乗った。宗谷岬まではバスの運賃だけでも1350円、往復すると2700円、更に空港へ行くバスの運賃を足すと定期観光バスの料金3300円よりも高くなることは確実だ。この宗谷バスの定期観光バスは割安だ。にもかかわらず宗谷岬行きのバスには10数人の人が乗っていった。私たちの乗った観光バスには7人しか乗客がいなかった。絵はがき、ガイドブック、かわいいガイドさんの説明付きでお得だった。

 

 バスはまず稚内公園へ。昨日私たちが行った稚内開基100年記念塔までは行かず、氷雪の門のところまでだった。今日の稚内は透き通るような青空で遠くサハリンの島影もぐっと近くに見えた。

 

 利尻富士の雄姿も昨日以上にくっきりと見えた。次にノシャップ岬へ。ここでも昨日の夕焼けのノシャップとは違って、利尻富士がひときわ大きくはっきりと見えた。

 ノシャップ岬(後の山は利尻富士)

 ここから宗谷岬まで約1時間。途中宗谷黒牛を放牧している山を抜けて宗谷岬へ。1983年、サハリン沖でソ連軍の戦闘機に撃墜された大韓航空機の領空侵犯事件で亡くなった人たちの慰霊碑(鶴が翼を広げた形の白い大きな慰霊碑)がひときわ大きく目をひいた。

 

 更にバスは下の方へ降り宗谷岬の先端へ。ここが最後の見学地でバイクや車で来ている人たちがほとんどである。日本最北端到着証明書なるものを購入し、サハリンの島影を眺め、おみやげ屋さんを覗いて回った。11時半に小さな稚内空港に着き、丁度羽田から着いたピカチュウの飛行機があったので写真をとる。

 空港のレストランでホッケのメンチカツ定食を頼み、サハリンのビ−ルを飲んだ。サハリンのビ−ルは黒いのとアルコ−ル3.5パ−セントと4.5パ−セントの3種類あるというので4.5パ−セントのを頼んで飲んだが、コルサコフの地ビ−ルよりはすっきりしていて、日本人好みの味だった。コルサコフの地ビ−ルと同じ味だったら買って帰ろうと思ったが、あっさりしすぎていたのでやめた。13時55分予定通り稚内を離陸し、16時05分無事名古屋に着いた。名古屋では夏の蒸し暑さが待ちかまえており、もう一度稚内に戻りたくなった。

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