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県学労ニュース322号 2005/4/13発行
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PCB廃棄物保管状況調査で申し入れ
財務施設課、注意するようメール
4月1日「PCB廃棄物の保管状況の調査について」という文書が財務施設課長名でメールされてきた。
このことについて、県学労に学校事務職員から相談の以下のようなメールが届いた。
「今日、文書管理システムで財務施設課から、PCB廃棄物の保管状況の調査について依頼文書が来ました。
内容を見ると、PCB廃棄物の個別の重量を調べて報告しなさいとのことです。しかも銘板でわからないときは秤で計って写真を添付しろと書いてあります。有害物質を触ってまでの作業は、危険ではと思います。おそらく全体の50パーセント処理が重量ベースだからと思いますが、こんな危険な作業を学校の事務職員にやらせるべきではないと思います。ちなみに本校では、PCBを使用している安定器を百個以上保管しています。県学労で、この作業の危険性について取り上げてもらえないでしょうか。よろしくお願いします。」という内容だった。
県学労でも文書を検討したが、事務職員の安全確保に留意されていないという結論に達した。
1、PCBで汚染されている容器をどのように触れて確認するというのか、2、それの計量を求めているが、取り扱う事務職員の危険に対してどう考えているのか、3、計量写真を撮れと言うが、PCB廃棄物と目盛りをどう一緒に撮れと言うのか、4、そしてそれをJPEG処理した画像としてファイルと一緒に送れと言っているが、全ての担当職員でその技術を習得していると思っているのか。非常に不親切な文書である。
そこで、4月5日担当課に電話で申し入れを行い、確認し、改善を求めた。
その結果、汚染されている容器を無理に触れる必要はないこと、計量できなければそれでも良いということ。写真は計量器に載せた状態のものと、計量器の目盛りを撮影したものの2枚を用意すれば良いということを確認した。
財務施設課の方で何らかの文書を出さないようであれば、県学労ニュースで事務職員へ安全配慮するよう呼びかけるつもりでいた。
そして当局が出した文書が3月8日の財務施設課長名の留意文書である。
PCBは「カネミ油症事件」で知られるように、中毒症状を起こす危険な物質で、人体に触れることも危険であるとして、処理方法が確立されるまで、保管することになった物だ。
すでに各校の在庫確認は行っているのだから、処分事業が決まってからでも、該当校のみ現状調査をすれば良いのであり、学校事務職員にその作業をさせるのも問題と言えないだろうか。少なくとも作業マニュアルを示して安全配慮すべきであった。
2001年から続けてきた新採用職員の地方機関に配置しない方針を反省したのか、今年度は10名の新採用を県立学校に配置してきた。
県立学校等への勤務を軽んじたことへの批判を組合から受けたことや、地方機関では新採用者を育成できないと考えたことの誤りを認めたためだろう。
県立学校は特に庶務関係の仕事を理解するためには、間口が広く、一人で複数の業務をこなすことが多く、新採用者の研修にはもってこいの職場であることに当局が気づいたのだろう。
この数年で、県立学校の事務職員の高齢化が進行していたが、これで少しは歯止めがかかる。
どんな職場でも年齢バランスの良い職員構成にしないと、その職域の停滞を生むことになる。
またジョブローテーションで他部局との人事交流が進んできているが、主査として他部局からの異動はあるが、逆に他部局への異動が無いのは不均衡な異動ではないのか。
ジョブローテーションで人事交流を活性化するのならば、もう少し配慮が必要に思う。
例年200人を超える異動があったことと比較すると、今年の異動はずいぶん少なかった。
一九六〇年一月、弘世志摩は父の仕事の都合でチェコスロバキアのソビエト大使館付属八年生普通学校に転入した。その学校にユニークな老女教師が二人いた。ダンス教師のオリガ・モリソヴナとフランス語教師エレオノーラ・ミハイロヴナだった。
オリガ・モリソヴナは生徒を叱るとき反語法で「ああ神様!これぞ神様が与えてくださった天分でなくてなんだろう。長生きはしてみるもんだ。こんな天才はじめてお目にかかるよ!あたしゃ嬉しくて嬉しくて狂い死にしそうだね!」と言う。いわゆるほめ殺しである。
エレオノーラ・ミハイロヴナは志摩を見かけるといつも「まあ、お嬢さんは、中国の方でしょう?」と聞いてくる。そして「いいえ、日本人です」という答えを聞くとがっかりして去っていく。
志摩は一級上のレオニードという少年に恋をし、告白に行くと彼はダンスの天才ジーナと親しげに話していて志摩の恋は破れてしまう。レオニードは母を幼少時になくしソ連の哲学者である父と二人暮らしであったが、その父がある日自殺してしまう。
一方ジーナはオリガ・モリソヴナとエレオノーラ・ミハイロヴナをママと呼び、彼女たちも自分の娘だと言っていた。彼女はボリショイ劇場バレー学校に転入するためにソ連へ行った。
志摩と仲良しのカーチャは両親が志摩たちの通う学校の教師をしていた。志摩はカーチャを自宅に遊びに来るように誘うが来ない。その彼女が一度だけ雪の降る日に遊びに来た。そして志摩が日本に帰ってからも文通をしていたが、モスクワに帰ったというカーチャからの手紙にはモスクワの住所は書かれていなかった。
ソ連崩壊後、志摩はロシアに行きオリガ・モリソヴナについて調べ始めた。そしてそこから判ってきたのは想像を絶するものであった。
1930年代のスターリンによる粛正。それは一般の市民にまで及び、夜間突然ドアがノックされて連行され、無実の罪で処刑されたり、収容所送りにされた。
収容所から生還した一人の女性の手記と証言からオリガ・モリソヴナとエレオノーラ・ミハイロヴナの凄まじい体験が明らかになっていく。(た)