県学労ニュース211号     2000/5/11発行

学習合宿をやめよう!
 知育偏重が人格破壊を招く

 ゴールデンウィークのはじめに17歳の少年の殺人事件が起こった。豊川でのことだっ
た。そして、佐賀県ではバスジャックをした17歳の少年が人質の一人の女性を殺害して
しまった。

 豊川のA君は私立高校の特進クラスでもトップクラスの生徒だという。また、佐賀県の
B君も中学校時代は良くできる子であったらしい。

 心身のバランスを崩した少年の犯罪だが、バランスを崩すのはそんなに特異なことでは
なく、ごく身近な少年の中に潜んでいることを豊川のA君は示している。彼の「人を殺す
経験をしたかった」というメッセージは強烈である。

 某私立高校の3年生のA君は、特進クラスの中でも優秀な生徒であったという。受験競
争に勝つために精一杯頑張っていた彼の中で、他者に対する思いやりや他者との共生のた
めの気遣いが欠落し、殺人したいという強い好奇心が抑えられずに育ってしまった。

 テレビのインタビューで、地域の人々は一様に彼のことを「おとなしくて、まじめでよ
くできた子」といっていた。そのギャップは何なのか。

 今の中等教育に知育偏重の弊害が現れてきた証左ではないだろうか。

 より偏差値の高い学校に進学できる学力を持った者が優秀で、学校も進学塾も親もそれ
を良しとしているところがある。そのために進学校では夏休みのような長期休業中に生徒
が遊んでしまわぬようにと学習合宿まで用意している。いろいろなことを体験できる時間
を奪っていることに気づかない。教員たちと話すと、「強制ではないからいいではない
か」という人がいる。しかし50%以上も参加するような企画は、参加する生徒にも参加
しない生徒にも大きなプレシャーをかけている。そうした学校では自然に、生徒を偏差値
でできるやつ、できないやつと振り分け、日常的にも大学進学のためのカリキュラムを作
っているに違いない。

 先に「教員」と書いたが、彼等の職が「教諭」であることを思い起こしてほしい。
「諭」という語の重みを考えてもらいたい。  学校が売り出す商品は「人間」である。短
絡的にどこの大学に何人などという販売実績にとらわれることなく、商業や流通にたずさ
わる者、生産現場に従事する者、ボランティアに励む者、芸術活動に入る者、その全てが
社会の大切な構成員である。人生80年。3年間の評価を短絡的な結果で見ないでほし
い。

「高校教育課よ、判断放棄をしないでほしい」

 今年4月、A校で10年前の卒業生から英文の成績証明書の交付申請が電話であった。
学習指導要録の内容を見て発行し、校長のサインをもらって依頼者に連絡をとろうとメモ
を見たところ生年月日が違っていることを発見した。

 そこで、依頼者に再度電話で確認したところ、メモに書いてある生年月日が正しいとい
う。そこで、本人確認と指導要録の変更のために「戸籍抄本」を持ってくるように言った
ところ、「私が間違えたわけでもないのになんで私が『戸籍抄本』を取ってこなければい
けないのか、納得できない」という。

 依頼者の言い分もわかるが、10年も前の記述を申請者から言われたからといって、公
文書の原本を簡単に訂正できることではない。何らかの証明が要るはずである。

 こんなことはどこでも起こり得ることなので、高校教育課の統一見解を聞こうと聞こう
としたところ、教頭の判断を仰げという指示を受けた。

 馬鹿を言ってはいけない。指導要録は完結すると、教務部から庶務部に書類が移管され、
事務の管理となる。移管された後は、庶務部の責任者である事務長で決めよというのなら
まだしも、すでに手元から離れた教務部の責任者である教頭には何ら権限はない。まして
や卒業してから何年もたっている卒業生の確認は誰であってもできないはずで、その判断
に任せよというのは指導する立場にある教育委員会のとるべき態度ではない。大間違いで
ある。判断すべき高校教育課である。責任逃避をしないでほしい。

 指導要録だけではなく、卒業証書台帳でも間違いは発生するだろう。年数が経てば、請
求者が果たして本人かどうかもわからないのに、その申し出のみで証明書を発行し、原本
である「学習指導要録」や「卒業証書台帳」を訂正できるだろうか。

 公文書である「学習指導要録」や「卒業証書台帳」の訂正がよいのならば、どういう訂
正方法をとるのが正しいのか、詳しく指示してほしいものだ。
 
 そこで、文書管理の責任部署である総務課に尋ねてみた。

 管理方法や期間などは総務課の所管だが、内容についてはそれぞれの課であるというの
で、再度高校教育課に出向いて確認を求めた。検討して後日わたしに連絡するというので
帰ってきたところ、その日のうちに校長のところに「本人に不利にならないよう、身分が
確認できるものを持ってくればよい。」と連絡があったようである。

 しかし、どこの学校でも起こりえることなので、一般化したいと組合名も名乗って申し
入れたわたしに連絡もなしに、私のいない間に校長に連絡して足りたと考える高校教育課
のセンスを疑ってしまうと職場で怒っていたところ、翌日連絡が入った。

 卒業後、生徒指導要録や卒業証書台帳に生年月日や氏名の間違いが発見された場合、通
常一般社会で有効とされている、本人確認できる免許証や保険証によって変更できるとい
うことである。

 そのコピーをとって、該当する場所を二線抹消し、現在の教頭や担当者の訂正印を押し
ておくことでよしとするということであった。


 
 

書評
「私、用務員のおっちゃんです」三浦隆夫著小学館文庫 500円

 用務員は呼び方は違うかもしれないが、例えば江戸時代の藩校からあった。また小学校
ができるまでの寺子屋にも「番さん」といわれて置かれていた。小学校が開設されるとは
じめは訓導(教師)と使丁(小使)がおかれた。校長や事務職員よりも古い歴史を持って
いる。しかし、学校運営の雑事をほとんどこなしているのになぜ評価が高まらず、合理化
が始まると真っ先に対象になってしまうのか。

 京都新聞の論説委員を務められた著者が57歳で役職定年で退職した後、西本願寺の中
央仏教学院で学んでみたが、適正がないと気づいて年金受給までの就職先として選んで、
3年間働いた用務員という職業。臨時用務員として世間を見据えた警告の書であるかもし
れない。

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