県学労ニュース181号   1999/1/13発行

人勧・給与抑制先にありきでは、
         職員の合意は得られない
   1999年になっても、愛知県職員の給与改定について、当局と組合の間に
大きな隔たりがあり、合意できないままである。
 1月11日に交渉を持ったが、進展はなかった。
 給与改定の中身に若干の改善は出されているが、前提条件となる「なぜ給与
改定を11年4月まで凍結しなければならないか。他の費用を抑えることで、凍
結しなくても済まないか。」について全く納得できる回答が出されてこない。
 また、11年度の給与抑制も同時に提案されているが、組合サイドから先に検
討すべきことがらとして、管理職手当を国並み支給率とするとの逆提案につい
て、具体的にどのような検討をしたか答えていない。
  今年の歳入不足は職員給与の高騰が原因ではない。一つは法人二税の落ち込み
による歳入不足。もう一つは県債を乱発してその償還額が大きく膨れ上がって
きたためである。決して給与費は増加していない。
 ならば、最初に努力すべきことは、経営責任を明確にすべきであろう。それ
が、今度やめる鈴木県知事の退職金カットだとか、管理職手当の(少なくとも
校長・教頭の)国並み減率、そして、県債に頼らない経営方法の見直しなどを
説明した上で、最後にそれでも赤字を解消できないので、職員にも負担をして
いただきたいと提案するべきである。
  そこがスタートラインである。
  それでなければ、公務員の人勧制度が官民格差を調査をし、当年の四月に遡
って勧告する意味もない。
  いまのままではどの組合も納得することができないだろう。いつまでも決着
することはできない。


「五体不満足」乙武洋匡著
        講談社刊 1600円

 筆者は生れ付きの身体障害者。しかし、二十歳になるまで自分を障害者としては
認識していなかった。なぜか。それは周囲の環境に恵まれていたからである。
 彼が生まれたとき、医者は母親にすぐ会わせるのはショックが大きいだろうと判
断して、黄疸がひどいという理由で母親から一月間隔離した。やがて対面する時期
となって、医者や夫の心配するなか、母親が発したことばが、「わあ、かわいい」。
家族が隠したり、悲観したりしたら、本人も「ああ、わたしはなんて不幸なんだろ
う」とふさぎ込んでしまうだろうが、彼の両親は楽天家だった。彼は順調に成長す
ることになる。
 そして幼稚園。彼は園児たちの興味の中心になる。当然こどもたちは、彼の手足
がない姿に関心を示すが、やがてそれが日常の友達関係のなかでは、あるがままの
個性として受け入れられるようになる。彼は園のなかでリーダーシップを発揮し、
いつも集団の中心にいたという。
 やがて、小学生になる段階になって親達は受け入れてくれる小学校を探すことに
なる。公立は養護学校をすすめるものと思い、数校の私立小学校をあたるが、施設
や設備が揃っていないということでことごとく断られてしまった。そこに、地元の
小学校から新入生の健康診断の通知が来る。入れるかもしれないと期待する反面、
断られるかもしれないとドキドキしながら出向くと、あっさり入学を許可される。
そして、何事にもみんなと一緒に参加させることに心を配ってくれた、ベテランの
先生の担任となる。
 たとえば、水泳では彼の身体にあわせてビート板をつくり、他校も交えた水泳大
会にも参加させ、見事完泳。見学にきていた他校の父母からも万雷の拍手を浴びる。
しかし、彼が泳げるようにと協力してきた同校の仲間にとっては当たり前。さして
感激してはいない。その子その子に合わせた方法を考えれば、みんなと一緒に参加
できることを証明した。運動会についてもそうであった。一年から三年までは集団
演技には一緒に参加していたが、徒競走となると他人とぶつかったりして危険が多
いとか、プログラム進行上時間が掛かるため避けてきたが、四年生になって担任も
参加させる方向で努力する。みんなが50メートル走るところ25メートルにして
参加させた。結果は6人中6番であったが、完走できたことが本人の大きな喜びで
あり、自信となった。
 障害者の社会参加は障害があるから一緒にできないのではなく、その障害の不具
合をカバーする方法を考えれば参加できることを証明した。
 社会がどのように少数者のことを配慮して社会の一員として参加できる環境を整
えるかということが大切であることを語っている。
 やがて、中学生になる。小学校時代の仲間たちとともにバスケットボール部に入
部する。ここで顧問の教師がドリブルの練習を指示する。右手ができたら、次は左
手という具合。やがて左右どちらでもできるようになると相手がいることを想定し
て身体を使って相手を避けながら左右のドリブルを切り替えるところまで課題を与
えた。やがてそれもできるようになる。中学最後の試合に、顧問はあえて彼を試合
に投入した。試合は完敗であったが、チームメートはだれも不満ではない。一緒に
練習してきた仲間が試合に参加できないほうが彼らには不自然であったかもしれな
い。
 このあとも高校進学と、そしてアメリカンフットボール部での部活動、生徒会活
動等の体験が語られ、さらに早稲田大学に進学してそこでの活動が紹介されている。
その一つ一つに彼の前向きな生き方を感じ、そのひとつひとつに障害者との共生と
はどういうことなのかを学ぶことができた。お薦めする一冊です。(わ)



県学労ニュースのトップページに戻る
県学労のトップページへ戻る