ウズベキスタン旅行記  2009.9.18−9.23

ユーラシア東海主催のウズベキスタンツアーに誘われたのは、5月のゴールデンウィークのペキン旅行の後だった。中国から中央アジアを経て陸路トルコのイスタンブールまで一人で旅をしたという旅行記、大高美貴の「シルクロードがむしゃら紀行 女ひとり一万キロ」という本を借りて、読んでみて中央アジアへ行きたくなり、妻と相談して参加することに。私の友人Yさんも誘って、何とか催行予定人員の6人になった。

ウズベキスタンへ行くと決まってから、旅行記や現地の気温などをインターネットで見ていたが、8月は連日35度から40度にまでなる暑さでびっくり。

9月18日(金)
  セントレアの国際線Hカウンター付近で10時に集合ということだったので、9時48分に着く電車で行こうと思っていたが、シルバーウィークで込んでいるかもしれないし、何かで遅れるといけないので、1本早い9時22分に着く電車のミューチケットを火曜日に買う。

当日は8時15分にタクシーを頼み、金山へ。天気もよく快調な滑り出しだった。9時56分発の名鉄電車ミュースカイに乗ると神宮前に止まるだけで、次は中部国際空港だ。空港に着いてまだ時間があったので、スカイデッキに出て飛行機を眺め、集合時間5分前に集合場所に行くとすでにみんな集まっていた。

アシアナ航空121便でソウルへ。さすがにシルバーウィーク前日とあって飛行機は満席状態だった。飛行機はボーイング737で窓側各2座席、真ん中に3座席という配置で私たちの席は真ん中だった。僅か2時間のフライトにもかかわらず軽い機内食が出された。

 ソウルインチョン空港には予定通り14時到着。次のタシケント行きまで4時間近く待ち時間があったので、空港内を見て回る。無料でインターネットができるブースがあり、7,8人の人が使っていた。たまたま1台あいていたので使ってみたが、日本語表示もでき速さも日本と同じだった。

機内食が軽食だったので、何か食べようということになり韓国料理を食べることに。ビビンパとソルロンタンを頼み3人で食べた。ビールは韓国のビールは置いてなくて、ハイネッケンを飲む。
変わったジュースがあったのでYさんが頼み、妻はとうもろこし茶のペットボトルを買う。とうもろこし茶は飲むととうもろこしの香りが口いっぱいに広がり、なかなかおいしかった。帰りに買って帰ることにした。

   

17時50分からアシアナ航空タシケント行きの搭乗が始まる。飛行機はエアバスで両方の窓側に2席ずつ、真ん中に4席の飛行機で、機内は結構込んでいた。私たちは窓側に二人ずつ3列の席で、7時間半のフライトに出発。座席の前の液晶テレビに飛行機の現在位置が示され、高度、速度、到着までの時間が表示されていた。ペキンの上空を飛び、西へ西へと向かう。太陽を追いかけて飛んでいるわけだが、すぐに夕焼けが見え、夜になり外は見えなくなってしまった。今度の機内食はしっかりとした内容だった。iPhoneで音楽を聞きながらウトウトする。

 


タシケントとソウルの時差は−4時間。12時を過ぎた時計を戻すとまだ10時前だ。タシケント到着は現地時間の22時。気温は28度。入国手続きと税関審査に時間がかかる。一応入国審査の窓口は6つ全部開いているが、時間がかかる。ようやく入国審査を済ませ、荷物を受け取り、税関審査へ。ここでも長い行列が。一人ひとりにかかる時間が長い。ようやくわたしの番になり妻と二人分出すと、「グループか」と聞かれ、そうだと言うとまとめて出すようにと言われ、6人分をまとめて出すと、全くノーチェックですばやく処理してくれた。

ウズベキスタンの税関申告書は未だに昔のロシアと同じで、持っている現金を記入し、禁制品を持っていないということを書いた申告書を2枚書いて提出し、はんこを押して1枚を返してくれる。これをなくさないように出国の時まで持っていて、出国時の申告書と一緒に提出しなければならない。持ち込んだ外貨が出国時に減っていれば問題ないが、増えていると面倒なことになる。

税関審査を終えようやくターミナルの待合室に出る。私たちを迎えに来てくれていたのは、金髪の小柄な女の子のナースチャだった。彼女はタシケントの東洋学大学で日本語を専攻している4年生だと言うことだった。初めて日本語のガイドをすると言っていた。出発前、日本語のガイドがいなくて英語のガイドになるかもしれないという話もあったので、曲がりなりにも日本語が話せるガイドで一安心。運転手は年配のほっそりとしたニコライさん。車の中でペットボトルの水を1本ずつもらう。

1日目のホテル「グランドプラザホテル」までは車ですぐだった。大きなホテルで、カギをもらってそれぞれの部屋へ。ツインは私たち夫婦だけで、あとはみんなシングル。部屋のベッドはロシアのホテルより大きくてクッションも良い。部屋はエアコンが入っていて涼しい。テレビ、冷蔵庫、電気ポット、5リットルの水のペットボトル、紅茶、砂糖、紅茶カップ、ガラスのコップがありロシアのホテルに慣れている私にとっては超高級ホテルに思えた。

バスはバスタブがあり、トイレとの仕切り板もある。シャンプーや石鹸もある。ドライヤーもある。唯一つ残念なのはバスタブの栓がなかったこと。飛行機の中でもらったプラスチックのコップを置くとちょうど栓の代わりになり、お湯をためられた。ところがしばらくお湯を出してもあまり暖かくならない。生ぬるいお湯で帰って風邪を引きそうな感じだったので、シャワーにした。なぜかシャワーでは暖かいお湯が出るのに。

テレビはロシア語、ウズベク語の放送があり、韓国ドラマもやっていた。
寝たのは現地時間12時近く。日本時間では午前4時。

9月19日(土)
  朝6時に起きて外を見ると空一面を雲が覆っている。6時半前にモーニングコールがあった。7時から1Fのレストランで朝食。明るいレストランで隣接するプールにも出られるようになっている。外から涼しい風が吹いてレースのカーテンなびいていたが、寒くはなかった。朝食はバイキングで野菜はトマト、きゅうり、レタスがあり、ハム、チーズ、お粥、ハンバーグ、ナン、カレー、ソーセージ、パンが数種類、蜂蜜、ジュース(リンゴ、パイナップル、オレンジ)、牛乳、ヨーグルトなどいろんな種類があり満足。少し遅れてきたJさんは焼きたてのオムレツをもらって来た。ここの卵も色は白かった。

   

朝ごはんの後、プールサイドに行ってみると水面に雨模様ができていた。まあ今日はすぐに車でサマルカンドへ移動だからいいかと思う。フロントで両替をする。100ドルが150,000スムになった。1000スム札が最高なのでなんと150枚ももらった。とても財布に入る量ではない。妻と二人で分けて持ったが、それでも財布には入りきらず、裸でポケットに入れるしかない。フロントの前にマッサージチェアがあり、3分500スム(30円)、6分1000スム(60円)だった。
そこへガイドのナースチャがやってきた。早く来たねと言うと、8時出発だからと言う。昨日の夜、8時半出発と打ち合わせておいたのに、みんなびっくり。まだトイレにも行かなければならないし、歯を磨かなければならないし。運転手のニコライさんとナースチャが相談して8時半出発ということになりホッとした。

8時半、サマルカンドへの350kmの旅に出発。車は11人乗りのワゴン車。雨は時々降っては止み、午後にはすっかり上がって雲の切れ間から青空がのぞきき始めた。サマルカンドまでの5時間、ナースチャにウズベキスタンのことをいろいろ聞く。ウズベク人の平均給料は200ドルとのこと。学校はシュコーラが9年、リツェイが3年、その後大学が4年で日本と同じだそうだ。途中小中学生の下校風景に出くわしたが、男女とも上は白いシャツ、下は黒いスカート、ズボンという制服だった。給食は小学生は12時ごろ、中学生は2時ごろにあるそうだ。今日は土曜日ということで道路沿いの草を刈ったり、ゴミ拾いをしていた。明後日はラマダン明けのお祭りだからあちこちで掃除をしていると言っていた。もともと土曜日は集団清掃の日と決められているということだ。学校の生徒たちは授業の後掃除に行くそうだ。

   


サマルカンドへのまっすぐな道を時速100km前後のスピードで走っていると所々に警察の検問所あり、そこでスピードを落とし、徐行せざるをえないように道にデコボコが作ってある。そして不審な車と思われたら、停車を命じられ、調べられる。サマルカンドまでに7、8箇所あった。

途中でトイレに行きたいということで寄ってもらったが、かなりひどいトイレだったようだ。板に穴があけてあって、足を置くところがあるが、すごい臭いで、ハエが飛び回り、息を止めて用を足さなければならなかったそうだ。私はわかっていたので、トイレには行かず、近くに止まっていたトラックの運転手と話をしたり、私たちの車の運転手のニコライさんと話をして待っていた。トラックはタシケントへスイカを運ぶと言っていて、写真を撮らせてくれた。

ニコライさんは1966年の大地震の復興のためにお父さんがタシケントへ来ることになり、家族でムルマンスクから引っ越してきたそうだ。タシケントは寒くないので気に入っているそうだ。

郊外の道を走っていくと綿花畑があちこちに見られた。今ちょうど白い綿がついていてきれいだった。道路のあちこちに、スイカやメロン売りがいた。ロバにスイカを載せた荷車を引かせている風景もよく目にした。綿畑で車を止めて見ていると、道路の向かい側からスイカ売りのおじさんが大きなスイカを2個両脇に抱えて売りに来た。なかなか商魂たくましい。

大きなメロンを食べてみたくて、みんなで一つ買ってホテルで食べようということになった。メロンを売っているところで車を止めてもらい、メロンを試食させてくれたおばさんから1個買った。1500スムだった。日本円にするとたった90円。そして隣の売り場のおばさんと一緒に写真を撮った。運転手さんのニコライさんにも1個あげようということになり、写真を撮ったおばさんのところで買ったら1000スム(60円)でいいと言われた。

 


次にトイレ休憩したガソリンスタンドのそばにくるみの木があり、ちょうど実が落ちていて、ニコライさんが石で割って中の実を取り出してくれた。

タシケントを出てから5時間半。ようやくサマルカンドに到着。マリカホテルにチェックインし、荷物を置いて昼食へ。「Old City」という名前のレストランへ。メニューは羊の肉のアルミホイル焼き(人によっては脂身がたくさんあった)、スビョークラのサラダ、トマトときゅうりのサラダ、肉とニンジン、ジャガイモ、ヌードルの入ったスープ。ウズベクのサルバーストというビールを飲む。デザートには米で作ったポン菓子のようなものがついていた。

   

 

昼食後は市内観光へ。まずホテルの近くにあるクリ・アミール廟へ。ここはティムールをはじめ彼の息子たちが眠っている。廟の内部には棺らしきものがいくつも並んでいるが、遺体はこの棺には入っていなくて、地下に保存されているそうだ。廟の隣の地下にあるお土産屋さんを見る。ウズベク人のかぶっている帽子をかぶってみたが、すっぽりとかぶるのではなく、頭の上に載せて置くという感じでかぶるそうだ。

   

クリ・アミール廟の向かいにルハバッド廟がある。レンガむき出しのシンプルな建物だ。近くにある郵便局にみんな行ったので、私は外で待っていたら子どもがいたので写真を撮る。恥ずかしがって逃げるかと思ったが、撮った写真を見せると喜んでいた。



みんなが戻ってきて、次はレギスタンス広場へ。レギスタンというのは「砂漠の地」という意味だそうだ。ここはティムールの時代、バザールもあり町の中心地だった。メドレッセ(神学校)、モスクがセットになってある。ウズベキスタンではどこでも観光地では写真を撮る時は撮影代を払わなければならない。額は3000〜4000スム(180円から240円)とたいしたことはないが、必ずと言っていいほど名所では取られる。警備している軍人が、メドレッセの上に上がると町中が見渡せて、いい眺めだからどうだとしつこく誘ってきたが5ドルだと言うのでやめた。ここで写真を撮っていた若者に声をかけて私たち全員の集合写真を撮ってもらったら、なんと彼は日本人だった。

   

     

レギスタンス広場のお土産屋さんで、ウズベクの衣装を着させてくれるという店があり、そこへ連れて行かれ、知らないうちに4人が衣装を着せられ写真を撮った。最初これは無料なのかと思っていたら1人1000スムだと言われた。

   


次はビビハムニモスク。ちょっと暗くなりかけていた。車を降りると道路沿いに丸いパン(レピョーシュカ)を売っている。おいしそうだから買いたいといったYさんの声を無視して先へ進む。ビビハムニモスクはかつて世界最大のモスクと言われていた。もう薄暗くなり写真も撮れず、早々と次のシャーヒ・ズィンダ廟群へ。

   

道路を挟んですぐ向かいにあり、丘の上へ伸びているのがシャーヒ・ズィンダ廟群だ。ここに着いた時はもう日がすっかり落ちて、同じようなものをたくさん見てきて食傷気味だったし、歩き疲れていたし、ぐるっと一回りして、夕食のレストランへ。

夕食は大きな現地風のレストランで、くつを脱いで部屋に通された。テーブルの上にはピーナツ、杏の種、サラダ、固まったヨーグルト、果物(リンゴ、ぶどう)があった。ここでもウズベクビール「サルバースト」を飲む。今日のメインはプロフ。おいしかったけど、量が多くて全部食べられなかった。給仕をしてくれたのは14歳の少年で、早く帰りたいからなのか、まだ料理が残っていてもお皿をどんどん下げていった。



   

満腹になり、とても買って来たメロンは食べられないということになり、メロンは明日へ持ち越すことに。マリカホテルは内装に木をふんだんに使っており、きれいに掃除されていて気持ちのいいホテルだった。1階と2階に別れ、私たちは階段を上がったすぐの部屋だった。ここもベッドは大きく満足。

920日(日)

ホテルの朝食はここもバイキングだった。

14時まで自由時間ということで、私たち夫婦とYさんで市内散策をすることに。ホテルの近くにある大きなティムールの像の前で写真を撮った後、名古屋にある久屋大通公園のような道路の真ん中が公園になったところを散歩する。公園のあちこちに変わった彫刻(と言っても有名な作品ではなく、大学生が作ったような感じのもの)があちこちに置かれていた。表から見ると男性、裏から見ると女性と言うおもしろいものもあった。


 

   

しばらく行くとウズベク人の女の人が二人ベンチに座っていたので一緒に写真を撮らせてもらう。近くにいたほかのウズベク人のおばさんやおじさんも寄ってきて一緒に写真を撮った。写真を送ってくれと言うので住所を書いてもらった。


公園の端まで行って右へ曲がると焼肉屋があり、串焼きの見本が陳列されていた。そしてなぜか店の前には高級リムジンが3台も止まっていた。焼肉屋は朝なので閉まっていた。


 

 

更に少し歩くと箒の束と玉ねぎの山が店先においてあった。店ではスイカやメロンかぼちゃが山のように並べて売られていた。「メロンを買って、ここで食べさせてくれないか」と聞いたら、「いいよ」と言うので、黄色くて丸いメロンを1個むいてもらうことにした。店の中で今まで店の人たちが座っていたチャイハナにあるような席を空けてくれて、奥から毛布を持って来て敷いてくれた。そこに座ってメロンをむいてくれるのを見ていると、途中で「これは甘くないから捨てる」といって捨ててしまい、別の同じようなメロンをもってきてむいてくれた。そしてこれは甘いからと言って、食べやすいように切って出してくれた。確かに甘くて食べると汁が滴り落ちるメロンだった。3人で腹いっぱいメロンを食べ、お金を払おうとすると「あなたたちはお客さんだからお金は要らない」と言う。何回かそれはダメだから、お金を受け取ってくれと言ったが、頑として受け取らなかった。何かあげる日本のお土産があればよかったのだが、何もなく店の小さな男の子に可愛いポケットティッシュと飴を2個あげただけだった。


  

  

通りを少し歩くとカトリックの教会があり、入り口の近くにいたおじさんに中に入ってもいいかと聞いたら「いいよ」というので中に入り写真を撮った。教会の中には誰もおらず私たちだけだった。そしてもう少し先へ行くと今度はロシア正教会の教会があり、ここにも入った。ここには何人かの信者や、ローソクやイコンなどを売っているおばさんがいた。写真を撮る許可を得て、写真を撮ったあと、旅の無事と日本とウズベキスタンの友好を祈って大きいローソク(大600スム=36円、小300スム=18円)を一人ずつ買って供えた。

  

次に博物館を目指して歩いた。途中で自転車に乗っている78歳の少年2人に会って、彼らの写真を撮った。その子たちは私たちのそばをうろうろしながらずっとついてきた。歩道の並木に大きなプラタナスがあり、2人で手を回してみたが、まだ半分にも満たないような巨木だった。そこはちょうど美容院の前で、窓を開けていた美容院の中からその様子を見ていた美容師とお客さんの女性が笑っていたので、その二人の美人も写真にとらせてもらった。

   


細い道からジャミー通りという大きな通りを渡ってゴーリキー公園のそばを歩いていると、先ほどの二人の自転車少年が通りの向こうから手を振りながら何か大きな声で叫んでいる。「さようなら」と言っているのだろう思い、こちらも手を振って彼らと別れた。

公園の中にはいくつか遊具があり、メリーゴーランドに乗せてもらっている家族連れが数人いた。日曜日の遊園地はいいものだ。のどが渇いたので公園の中にあったバールで何か飲むことにした。ビールとコーラしかなく私はウズベクのビール「サルバースト」を妻とYさんはコーラを飲むことにした。ところがコーラは1.5リットル入りしかないとのことで、コップをもらって二人で飲んだが3分の1くらいしか飲めなかった。トイレを借りようと場所を聞いたら、ここにはなくて、向かいの映画館にあると教えてくれた。映画館の中ではなくて入り口のところにあるので、外の人も使えるようになっている。Yさんの感想は、まあまあとのことだった。

 

目指す博物館は見つからず、聞いてみてもよくわからなくて、方針を変更してバザール(市場)へ行くことにした。バザールはすぐに見つかり、入ってすぐの野菜を売っている店で買い物をしていた30代くらいの男の人が日本語で話しかけてきた。日本語を勉強していたそうだ。ウズベキスタンには日本人もたくさん来るのか、店の人たちや観光地の売店の店員も「ありがとう」「さようなら」「こんにちは」などいくつかの日本語を覚えて話しかけてきた。

  

  

バザールは食料品のバザールで、まず乾物屋さんで昨日の夜レストランで出された杏の種を勧められた。でも外の殻をむくのが大変なので買わなかった。いろいろと試食させてくれて、乾しぶどう(黒いのと黄色いのを200gずつ)を買った。次に黄色い生のイチジクを売っていたので12個ずつ買って食べたが、熟していておいしかった。次は豆を売っている店でヒヨコ豆を200gと言ったら、300gで1000スムだから300gでいいかと聞くので300g買うことにした。横に緑色の小豆よりも更に小さい豆を売っていたので、どうやって食べるのかと聞いたらお粥にするという。1時間〜2時間弱火でコトコト煮るといいというので、圧力鍋ならもっと早くできるからと思い、これも200g買った。そして次はハチミツ売りのおじさんのところへ。ここでも試食させてくれて、とても濃厚な味だったので買うことにした。ところが自分のうちで使ったいろんなビンに入れて売っているので、ふたのあるものもあるが、ふたがなくて紙をかぶせて輪ゴムで止めているものもある。日本まで持って帰るにはしっかりとしたふたがついているものでないと。小さめのビンにはみんなふたがなかったので、大き目のびんにした。Yさんは18000スム=1080円のを、私は14000スム=840円のを買った。

  

  
 

最後にヨーグルトを売っているところで、食べてみたいけど入れ物がないと言っていたら、おばさんはビニール袋に一かたまりいれて、1000スム(60円)だといって差し出す。「まっいいか」ともらって、すっかり重たくなった買い物袋を提げてバザールの入り口にあった食料品店で、ロシアで昔から売っているアイスクリームを買った。1300スム=18円。家具店の前でアイスクリームを食べている写真を撮っていたら、店の中から大柄な男の人が出てきて、中に入れと手で合図する。中に入ると荷物を置いてソファーに座れと言う。何か怒られるのかと思っていたら、お兄さんが6年間日本にいたと言って、彼は日本語ができると言っていた。今ここにいるのかと聞くと、町に出ていていないとの事だった。日本へ言ったことのあるウズベク人もたくさんいるようだ。

ホテルへ戻り、最後に買ったヨーグルトをレストランで食べようと思ったが、あいにくレストランは予約でいっぱいだと言う。そこでお皿とスプーンを借りて、ホテルのロビーで食べることに。買って来た蜂蜜をかけて食べたらなかなかおいしかった。

他の人達も戻ってきて、それぞれの体験を話してくれた。14時、ニコライさんの運転でブハラへ向けて出発。昨日と同じように、平原の中を走り、しばらくすると山が見えてきた。ところが山は禿山だ。木を切って禿山になったのではなく、もともと岩山なので大きな木が育たず、草しか生えないようだ。それを利用して、山の斜面に石を並べて広告にしている会社があった。




ブハラに着く少し前に、ギジュドゥバンにある陶器工場に寄った。私たちが行くと、ろくろを回して陶器作りの実演をして見せてくれた。ここのご主人は金沢の九谷焼の窯元へ2年間修行に行っていたそうだ。パン焼き窯も近くにあり、そこではウズベクのパン、レピョーシュカを焼いていた。ナンと同じように窯の壁面にパン生地を貼り付けて焼く。ちょうど焼きたてのパンを一つもらってみんなで食べたが、焼き立てなのでとてもおいしかった。青いぶどうも出してくれ、一緒にご馳走になった。こちらのぶどうは一般的に種がなく、皮も薄く、皮ごと食べることができる。そしてできた陶器を売っている奥のほうの部屋へ案内された。別に買わなくてもいいと言っていたが、まあ、せっかくだから記念にお皿を3枚買った。お皿の表面に上薬のはげているところが3箇所あるので、「これはどうしてなんだ」と聞くと、焼く時にお皿の上に3本足の金具を置いてその上にまたお皿を載せて焼くのでそうなるのだとの説明だった。日本ではちょっと考えられない。

  

買い物のあと、お菓子とお茶が用意されたテーブルでお茶をご馳走になった。そのうち嫁たちが作ったと言う刺繍のテーブルクロスや、ナプキン、手提げ袋などを持って来てどうだと言う。確かに手間はかかっているが、いまいち洗練されていないし、長い期間かかって刺繍している間に元の生地が大分汚れてしまっている。

ブハラのカビルホテルに着いたときはもう暗くなっていた。ホテルに荷物を置いてレストランへ夕食に出かける。3階建ての建物の屋上で食べたが、少し寒かった。

ホテルに戻り一昨日買ったメロンをみんなで食べることにした。私たちの部屋は二人部屋ということで大きな部屋で2部屋もあったので、そこに集まってみんなで食べた。ウズベク風にメロンを立てて、上から三日月形にナイフで切り取っていく。半分くらいまでは「おいしいね!」と喜んで食べていたが、食べても、食べてもなかなか小さくならず、残り半分は半ば義務的に食べていた。

そして夜中に悲劇は起こった。トイレに行きたくなって目が覚めてトイレへ。戻ってきてもまたトイレへ。3回もトイレに行くことに。お腹が痛いわけではなく、下痢が続いていた。


9
21日(月)

朝食はバイキングではなく、地下の食堂で定食。パンにチーズ、サラミ、ブリヌイ(クレープのようなもの)、かまぼこの腰が抜けたようなもの(乳製品らしいが名前はわからない)、サムサ(中に肉や野菜が入った揚げパン)、コーヒー、紅茶というメニュー。コーヒーはきっとインスタントだろうと思って紅茶を頼む。レモンはないかと聞くと切って出してくれた。

9時から市内観光へ。まずイスマイール・サマーニ廟へ。近くに遊園地があり、観覧車があった。ここにもお土産屋さんがあちこちにあり、金属のお皿の表面をコツコツと削って模様を彫っていた。毛皮の帽子も売っていて、帽子をかぶって写真を撮らせてもらった。



     
   
                                       ソーダー水販売機

ビールのつまみにいいという塩辛いボール

次に行ったのはバラハウズモスク。モスクの前に胡桃の木でできた
20本の柱があり、それが前の池に映って美しいのだといっていたが、前の池は汚れていて美しい姿は見ることができなかった。モスクの前には祈りを呼びかけるミナレットという高い塔がある。多くのモスクはモスクとミナレット、メドレッセ(神学校)が3点セットになっている。

  

 ←陶器でできたウズベク人の人形

少し歩くとアルク城へ。石で作られた丸みのある城壁に守られたお城である。中は博物館になっているというものの土産物屋との区別がつかない。全部みやげ物売り場に見えた。ウズベクの民族楽器を売っている店もあり、店の人が演奏してくれる一幕もあり、興味深かった。お城の上からはブハラ市内が一望できる。

  

最後はカラーンモスク、カラーンミナレット、ミル・アラブ・メドレッセの3点セットへ。カラーンとは「大きい」という意味だそうで、確かに大きなモスク、ミナレット、メドレッセでした。きのうの夜のメロンの食べ過ぎの影響でお腹が緩みがちで、トイレのあるところでは必ずトイレに立ち寄っていました。カラーンモスクの奥にあったトイレはなんと無料の上、水洗できれいなトイレでした。この近くはお土産屋さんが所狭しと並んでいて、歩道に敷物を敷いて、そこにいろんなものを並べて売っていました。民芸品に交じって旧ソ連時代の勲章や軍で使っていた時計、ベルト、帽子なども売られていました。日本人観光客も多いのか、日本語で「美人、美人」と女の人に声をかける店の人もいた。こういう店では言い値で買うことはまずなく、値切って、値切っていかに安く買うかを楽しんでいる人もいた。

  
  
1日5回のお祈りの時間の時計                           パンに模様をつける道具

  
ウズベキスタンの陶器           子どもは売っていません         旧ソ連の勲章は売っています

お昼ご飯はこのカラーン3点セットが見える3階建ての建物の屋上のレストラン。日本のうどんに似たラグマン、サラダ、マンドゥ、そしてビールも飲んで満腹に。

  
レッストランからの眺め         Yさんが買った木彫りの象

 
日本のうどんに似たラグマン

この後は自由時間なのでみんなそれぞれ別れていった。私と妻はホテルへ戻り休憩。ベッドに横になり
2時間ほどウトウトした。そしてまたホテルを散策。ホテルから出て左手にラビハウズがある。ハウズとは池のことで、四角い池の周りにレストランがテーブルやチャイハナにある台を並べている。石でできたらくだもあり、ここで記念写真を撮っている人も多かった。ここでYさんJさんと会い、チャイハナの台に座ってアイスクリームを食べた。

 
ラビハウスのらくだ           ここもレストランのようだったがやってなかった

夕食はみんな揃って近くにあるにぎやかな音楽が聞こえてくるレストランへ行こうとしたが、午後8時半までは満員だと断られ、ラビハウズへ行くことに。台の上に6人で座ったのはちょっと狭かった。4人で座るのがちょうどいいサイズだ。隣の台には若い日本人夫婦が新婚旅行できていた。私たちはスープをそれぞれ取り(野菜と肉のスープ、ボルシチ、ヌードルスープ)、焼きラグマンとシャシリークを2人前ずつ頼み、みんなで分け合って食べた。すっかり満腹になり、勘定を頼むと9万スムあまり。約5400円。1000スム札しかないので札束を渡すと、ウエイターのおじさんはすばやく札を数えていた。

ホテルに戻って寝たが、この夜も夜中に2回、明け方に2回トイレ行くことに。


9
月22日(火)〜23日(水)

お腹を直すには絶食が一番だと思い、朝ごはんは食べないことにした。お茶だけ飲もうとレストランに行くが、朝6時半から朝食というのがうまく伝わってなかったようで、慌てて作ってくれた。メニューはケフィールにばらジャム、チーズ、サラミ、かまぼこの腰の抜けたような乳製品、紅茶。デザートにメロンのカットしたものが出たが、このメロンを食べ過ぎて以来、お腹の調子が悪いので食べなかった。他の人は最後の食べ収めと食べていた。ウエイターに「日本にもメロンはあるか」と聞かれ、日本のは小さくてまん丸だと言い、スイカもウズベキスタンのは大きいと言ったら、スイカも切って持ってくるからと言って奥に入っていくので、慌てて追いかけて、もう時間がないから切らなくてもいいと断った。

7時にはガイドのナースチャと運転手のニコライさんがやってきた。駅まではかなりあり、車で20分ほどかかった。町の中心部から離れたところに鉄道の駅があるのが不思議だ。列車までスーツケースを運んでくれる人達がいて、台車で運んでくれた。列車はブハラ始発のタシケント行き特急シャルク号でチェコ製のディーゼル機関車に牽引された10両編成くらいの列車だった。1等から3等まであり私たちは2等に乗った。ところがガイドのナースチャは3等ということで隣の車両になった。私たちの車両は真ん中に荷物置き場があり、それに向かって通路の左右に2人掛けの席が向かい合ってある。私たちの座った席は進行方向と反対で後に向かって走っていくことになる。みんなのかばんは中央の荷物置き場にあったが私たちのカバンがない! 「さっきは乗車口のところにあったよ」と他の人が言ってくれたが、その後どこへ消えたのか。盗られたのかと思って大騒ぎしていたら、網棚の上にあった。小さなカバンだったので網棚に上げてくれたのだった。これで一安心。


  

列車は
805分定刻どおりに動き出した。走り出すとすぐに検札にやってきた。検札が終わるとコーヒーかお茶はどうかと注文を取りに来た。お茶は緑茶と紅茶があるというので、紅茶にした。ガラスのコップに金属製のコップ受けをつけて持って来てくれた。かなり出がらしっぽい紅茶でお世辞にもおいしいとは言えない。だが値段も安く4杯で1000スム=60円なので文句は言えない。3時間ほどでサマルカンドに到着。ここで機関車を電気機関車に取り替えたようで、今までよりも早く走るようになった気がした。サマルカンドの駅に着くと、物売り(レピョーシュカやスムス、ジュースなどを売っている)が乗り込んできて商売を始める。降りる人を押しのけて乗り込んでくるのでちょっとしたトラブルに。売りに来たスムスはジャガイモのスムスで、2つ1000スムだった。

 

列車のトイレは出発した時はきれいだったが、途中から床に水がたまり汚くなっていた。これが水なのか尿なのか、わからない。


食堂車も付いているということだったので見に行った人がいたが、売店があるだけでそばにソファーが置いてあったが乗客に占拠されていたとのことだった。ところが食堂車のお姉さんがハンバーグとマッシュポテト、きゅうり、トマトを皿に盛った料理を
2皿出前にやってきた。こんなこともできるのかと思ったが、もう買い込んでおいたお菓子を食べた後だったので注文はしなかった。


今度はおじいさんが現れ、中国製のサインペンと小さな紙切れを乗客に配り始めた。紙には私は→→が聞こえない年金生活者でこのサインペンを
1000スムで買ってほしいと書かれてあった。ほとんど買ってなかったが数人の人が買ってやっていた。


14
40分列車はタシケントに到着。タシケントでの車は一回り小さな8人乗りワゴン車だった。私たちのリクエストで日本人墓地に行くことに。途中花屋によって花を買って墓地へ。この日本人墓地をめぐっては次のような逸話がある。


戦後、捕虜として抑留された日本軍兵士がタシケントのナヴォイ劇場の建設作業に従事させられた。捕虜たちはまじめに働き予定工期よりも早くこの劇場を完成させた。そして、
19664月タシケントを襲ったマグニチュード8の大地震は市内の3分の2の建物を倒壊させたが、日本人の作ったナヴォイ劇場は無事だった。ソ連時代、ソ連政府は日本人墓地を取り壊し更地にして、日本人がナヴォイ劇場を建設したことを隠蔽しようとしたが、ウズベキスタン政府はその指令を無視して保存したそうです。そしてソ連が崩壊し、ウズベキスタン独立後日本の中山恭子全権大使がウズベキスタン政府に「日本人墓地の整備をしたい」とお願いしたところ、首相から「ウズベキスタンで亡くなった方のお墓なのだから、日本人墓地の整備は、日本との友好の証としてウズベキスタン政府が責任を持って行います。これまでできていなかったことは、大変恥ずかしい。さっそく整備作業に取りかかります。」との回答があったということだ。


そのきれいに整備された日本人墓地を訪れ、花をささげここで亡くなった日本人捕虜の冥福と人々を苦しめる戦争が世界中からなくなることを祈った。わたしたちが帰るとき、この日本人墓地へ来る日本人団体ツアーの人たちとすれ違った。ウズベキスタンを訪れる多くの日本人がここに来ているようだ。


 

その後、クカルダシュメドレッセへ。ここは今も神学校として使われており、学生たちが学んでいるそうだ。そしてすぐ近くにあるチョルスーバザールへ。ここでも殻つきのアーモンドやウズベクのパン(レピョーシュカ)、ゴマを固めて作ったお菓子などを買った。

 
 

そして最後に日本人捕虜が造ったというナヴォイ劇場へ。このナヴォイ劇場の右手には「1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本国民がこのアリシェル・ナヴォイ名称劇場の建設に参加し、その完成に貢献した」とウズベク語、日本語、英語、ロシア語で書かれた銘板が埋め込まれていた。劇場の前には大きな噴水があり、夕日に照らされたナヴォイ劇場は美しかった。この劇場は現在も毎日いろんな劇やコンサートに使われている。劇場の前にあった案内を見ると、ビゼーの「カルメン」、ヴェルデイの「アイーダ」、「アリババと40人の盗賊」、「蝶々夫人」、バレー「ジゼル」、「眠れる森の美女」、「白鳥の湖」、「スパルターク」など、ここに住んでいたら見たい作品が山盛りだった。

  

夕食はテントの中にあるレストラン。一日何も食べてなかったので、もう大丈夫かなと思いつつウズベクでの最後のウズベクビール「サルバースト」を飲みながら夕食を食べる。


そしてタシケント空港へ。やっぱり夕食を食べたせいでトイレへ。残っていたスムをつかってしまおうと空港待合室の売店でチョコレートを買ったが、チョコレートはみんなロシア製だっので、割高な気がした。


まず税関審査があり、申告書を出すが書き方が違っているといってもう一度書き直しさせられた。並んでいると、日本人の女の子が入国の時の申告書を持っていないということで、お金を全部置いていくようにと言われていた。ちょうど日本大使館の職員がいて、審査官と話をしてくれていたが、審査官は入国の時に
2枚書いて1枚をもらっているはずだとのこと。問題の女の子は入国の時、込んでいたので2枚提出した申告書のうちの1枚を返してもらわなかったと言っていたが、審査官はそんなことはないの一点張り。そして、お金を誰か日本人に預けて、あなたはお金がないという申告書を書いて出せば、通してくれるという。そこで私たちのグループのJさんが彼女のお金を一時預かり、Jさんのお金として申告書も書き直して税関を通過し、それから彼女にお金を返すということになった。


22
20分アシアナ航空124便でソウルへ。機内食が出てきたのでまた食べて、トイレへ。しばらくウトウトして、朝850分ソウル(インチョン空港)に到着。帰りは往きよりも時間が短く6時間でソウルに着いた。名古屋行きの飛行機までの時間があるので、インチョン市内へ行ってみようとYさんと言っていたが、妻はお腹の具合が悪いので空港で待っていることに。韓国語が少しできるYさんと案内所へ行き、インチョン市内へ行くにはどうしたらいいか聞いたら、バスで1時間半もかかるという。ソウルへ行った方が時間的には早いというのでソウルに行くことに。金浦空港の近くに大きなスーパーマーケットがあるのでそこに行こうということになった。バスに乗って30分、金浦空港に着いたが、スーパーがどこにあるのかわからない。韓国人に聞いて見るがシャトルバスで行けばいいと教えてくれるが、乗り場がわからない。ようやく見つけてシャトルバスに乗ると次のバス停がスーパーの前だった。「Eマート」という名前のスーパーだった。

 

ここでキムチ、お菓子を買っていると、同じグループの
Jさん、Hさんに会う。いっしょに店の中を見て回り、お昼ごはんを食べる。私はまだお腹の調子がおかしいのでお茶を飲んだ。帰りは電車に乗って帰る。時間はバスと同じ30分でインチョン空港まで行くが、電車の駅から空港までちょっと歩く距離が長い。乗ってみたいと思っていた空港鉄道にも乗れて満足。

いよいよ名古屋への出発。税関審査でなんとなんと買ってきたばかりのキムチを没収されてしまう。どうして?液体? ちょっとショック。中でまた真空パックのキムチを免税店で買う。
1500アシアナ航空124便で名古屋へ。1645中部国際空港に到着。全員無事帰国できました。ウズベクでお腹を壊した後遺症は1週間ばかりお腹がゆるい状態が続き、ようやく治りました。

ウズベキスタンは、機会があれば是非もう一度訪れてみたい国です。