しげぼうの言いたい放題


・問題点だらけの裁判員制度(2006年07月10日)

広島市で昨年11月、小学1年が性的暴行を受けて殺された事件で、広島地裁がペルー国籍の被告に言い渡した 判決が無期懲役が下された。 わずか7歳の女児に性的暴行を加え、その姿を見ながら自慰行為をし、命を奪い、遺体を段ボール箱に詰めて 空き地に放置した、という残忍極まりない大悪党である。 にもかかわらず 被害者が1人だったことや、前科がないことなどを理由に死刑求刑が退け られたのだ。 前科がないとは、嘘で実はこの男は母国ペルーで女児に対する性犯罪で2度告発されているのだ。裁判を スピードアップすることもよいが、こんな重大なことが盛り込まれずいい加減な判決が下されるのではたまった ものではない。 被害者の人数などを考慮することもナンセンスだ。何人殺したら死刑だという具体的な基準があるわけでもない。 たった一人の命の重さというものがわからないのだろうか。 動機が身代金目的の場合なら被害者がたった一人でも死刑になったことはあるようだが、性的目的の場合は 死刑になった事例はないという。日本は性犯罪者に対して甘過ぎないか?

このような判決を聞いた者には、2009年より導入される裁判員制度、待ち遠しく感じられる方も多いであ ろう。裁判を身近でわかりやすくする、一般市民の観点を裁判に反映させる、というのがこの制度の目的 のようだ。
ところがこの制度、様々な面で問題点だらけだ。 まず裁判というのは、言うまでもないが被告がどれだけ法律に違反したかが問題なのであり、国民感情(国民の 大多数が持っている感情=多数決)で決める問題ではないのだ。ビートたけしの有名なギャクに、 「赤信号。みんなで渡ればこわくない」というのがある。赤信号は渡るな、これは法律で決まったルール である。みんなで渡れば、というのはいわば多数決の原理であり、このように法律的な問題を多数決により 形骸化されることもありうるのだ。裁判を行う人間は法律をしっかり学び理解していることが大前提である。
だが、今回の裁判員制度、実をいうとこのような多数決の原理というレベルにすらなっていないのだ。 対象となる国民裁判官が、抽選で決められるというのが最も大きな問題点である。これでは死刑賛成派、 反対派、やる気のある人物、ない人物、能力的に問題のある人物、どんな人物が裁判官になるのかわからない。 いくら専門の裁判官がサポートにつくといっても何十年も専門に行ってきたプロにはかなわないだろう。 人を裁くという重大な問題を行う人物をクジで抽選などといういい加減な手段で選出するなど私 にはとても許せない。また、抽選で当たった人は特別な理由が無い限り断ることは出来ず、もし断ったら 罰金刑となるのだ。裁判員をやりたくない人を強制的に参加させることは「意に反する苦役」を課すもの として憲法違反(18条)の可能性もあるのだ。
これは、もうとんでもない欠陥法、いや悪法というべきではないか。

もし、犯罪者に甘い判決が出ることが問題なのであれば、国民感情を云々するより、刑法等法律的 なものを改定するのが筋であろう。
国民に裁判を身近なものと感じられるようにするには学校などで、法律的なことをもっとカリキュラムを とりいれることなどが重要だと思う。中学や高校などで”法律”という科目を作り小さいうちから学ばせる ようにしたらどうか?英語教育を小学校から教えるよりもずっと大切だろう。その中で裁判の流れなども 勉強させてみるのがよいであろう。どういう犯罪を犯したら、おおよそどれだけの刑罰を受けるのか という知識として理解させることは重要だ。少年犯罪を未然に防止する効果もあるだろう。(但し、少年法は 教えなくてよい。悪用する輩が出る可能性もあるから。)
また、不当な判決を出した裁判官を一般国民が監視し、必要ならリコールさせる(現在最高裁判所裁判官は 国民投票でチェックを受けるがその他の裁判官にもチェックさせる)のも良い手だ。

有名美容外科の娘が3人組に拉致され身代金を要求される事件が起こったが、被害者があまりに大金持ちで あったため、世間からバッシング(マスコミ、ネットなど)を受けた。確かに彼女たちは、日頃から派手で 目立つ生活を送っていたことは事実である。しかし、単に金があるというだけであいつは気に食わないという 感情がもし裁判に反映し、犯行そのものを許されるとしたら問題である。バッシングした人間の言っている ことを聞くと、貧乏人の僻み根性が丸出しで、マスコミもそういったものを利用して大衆迎合記事を 書いていたようだ。
こういうのを見るにつけ、とてもこの国で一般大衆に裁判をやらせるなど無茶な話だと感じた。
民主主義と大衆迎合をはき違えてはいけない。裁判に多数決の概念は不要だ!


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