縄紋土器変遷の概要


草創期前半
 つい十数年前まで最古の土器群の位置を占めていた隆起線文土器群は南九州から東北南部まで類似した装飾の諸型式が分布し、編年上の基準線を提供している。
 近年、それに先行する土器が指摘されてきた。装飾を有し、隆起線文土器との関係を検討し得るものに、南九州では加地屋園遺跡の浮文と貝殻紋を有する土器、関東では寺尾遺跡などの刺突紋土器が上げられる。そして、石器の様相から、それらと並行し、あるいは先行する可能性のある無紋の土器が北海道から中部地方までの複数の遺跡で発見されている。
 隆起線文土器群は、地域差・時間差による多数の型式の設定作業が進行中である。ことに隆起線文土器の諸型式は、隆起線以外にも爪形紋や貝殻紋などの装飾を安定して持つことが明らかとなり、また、単なる横帯のみでなく描線の組合せによる図形の構成が分る事例も増えている。
 隆起線文土器群に後続する土器の様相には大きな対立が有る。爪形紋単独あるいは卓越の段階を認めるか否かという点であり、装飾としての縄紋の発達をどう押さえるかという点にも関わる。共存論の強力な根拠である宮林遺跡4号住例は、所詮は覆土土器片一括に過ぎず、他時期では共存の動かぬ証拠とはされないような資料である。逆に単独期存在説の根拠とされる事例に鴨平遺跡や仲宿遺跡例があるがそれが個体同定を進めた場合に偶然とは考えがたい片寄りかは不明である。一方、壬遺跡の円孔紋土器の扱いも微妙である。描かれる文様は、隆起線文系土器群と結びつく要素が主であり、分布が北陸地域であることから隆起線文直後の地域的型式と考えられる。そして太平洋側は九州に指頭痕を伴う爪形紋、中部高地・関東に工具による爪形紋が分布し(岩手まで伸びる)、東北南西部には縄紋を併用する風潮が有る、という段階を挟んで、九州は簡素な押引紋になり、東海から東北までは広く同傾刺突列とその代替としての押圧縄紋・絡条体圧痕が多用される段階になるのではなかろうか。体部の文様は過剰装飾に埋もれたり、底部付近に押込められる。ここまでを草創期前半としよう。

草創期後半
 東日本では前段階まで脇役だった回転縄紋の土器が主役となる(室谷型式群)。南東北から北関東では、口唇部が拡大して新たな文様帯を形成する(室谷下層式)。室谷下層式は胴部を無紋化しながら北海道まで分布を拡大する。一方、東海から若狭では単純器形のまま口縁部が文様帯として独立する(仲道A式)。口縁部の横位押圧文様との異方向性を確保するために縦位撚糸紋や斜転縦条縄紋が用いられる。
 絡条体回転による撚糸紋は九州に伝わり柏原式を成立させ、そして、撚糸紋が条痕に置換されたのち、九州東北部では無紋化する(西日本無紋土器群または成仏型式群)のに対し、南西部では華麗な貝殻紋円筒系土器群(前平型式群)を成立させる。
 中部日本では口縁部文様が縮退の方向に向かい、内面全体に縄紋を施す表裏縄紋の手法も試みられたがすぐに口縁内面のみとなる。そして口縁部文様の名残を残す関東・南西東北と文様を失う中部高地・東海に分かれる。関東・南東北は、装飾の簡素化の道を歩む(撚糸紋系土器群または稲荷台型式群)。一方、甲信・東海では原体を彫刻棒に代えた押型紋型式群が成立する。そして、西日本無紋土器群が分布していたと想像される近畿に伝わり施紋密度の低い押型紋土器を成立させたようだ。なお、押型紋型式群は常に撚糸紋も組成に含んでおり、後の変化に重要な役割を果たす。
 草創期後半後葉の東北は今のところ薄手無紋の土器のみが確認されている。類似する土器は草創期前半から有飾のものに伴って存在しているが、ことに、室谷下層式の変化の延長線につながるとみられる。
 こうして草創期終末に近づくと全国的に文様が失われる傾向に有る。

早期前半
 草創期終末、関東で口縁部文様の再生が試みられるもののすぐに挫折し無紋化に向かう。しかし、花輪台式で試みられた羽状縄紋や口縁部平行線が東北に伝わり日計式を成立させた(らしいが、日計式は横帯構成を発達させる点に同時期の多地域との相違があり、室谷下層式等の伝統が東北北部で残存したのではないかという見解にも魅力が有るが、現状では間が繋がらない)。日計式は花輪台式から又は日本海側を通して押型紋を受容する。これにより横帯と描線が明瞭な装飾を成立させる。
 日計式の押型紋を沈線で置き換えて貝殻沈線紋系土器群(田戸型式群)が成立する。なお、沈線という要素については花輪台式終末に伴う木の根タイプを祖源とする考えが有り、重要であるが、文様構成の上ではあくまで日計式を基本としている。押型紋型式群においても横帯を基本とする構成が採用されるとともに九州に分布を広げる。この段階を早期の開始と考える。学史的経緯に鑑み、ホライズンとしての押型紋及びI文様帯の成立という観点から大別の境界はこの時期におくのが適切と考える。九州においても初期の押型紋土器は帯状の施紋が目立つが、これは当該地域の無紋土器の伝統を示す。各地の帯状施紋の押型紋は同時性を示すのではなく、各地域における無紋を主とする型式との関わりで成立したということである。
 田戸型式群は、東北北部では、日計式の縄紋の代替である貝殻腹縁紋が盛行し、文様が衰退する傾向を辿るかたわら、北海道内の分布を拡げていく。道東には出自不明の暁式に始まる素文平底系土器群(暁型式群)が有るが、これにも影響を与えている。一方関東地方では特定帯の選択、異系列の融合による複合文様帯構成、蕨手紋の成立など、沈線文の発達を見せる。そうして発達した田戸上層式の文様構成が広がり、中部高地から北海道南部まで類似した型式の分布を見せる。その余波は押型紋型式群にも及び、隆帯や押引紋を採用させる。次段階に再び地域差が拡大し、道南では幅狭な口縁部文様、東北では羽状貝殻紋、関東では空洞化した隆帯文、中部高地では沈線による充線鋸歯文を主体とするようになる。ここまでを早期前半とする。南九州では前平型式群が独自の変化を辿っていたが、押型紋型式群と分布圏を接するようになる。

早期後半  動きの基点の一つはは道南で、貝殻腹縁紋の代替の絡条体圧痕が多用されるようになる。これは道東に影響を与え、絡条体圧痕文系土器群(東釧路型式群)への変化を促し、一方、南下して子母口式を成立させる。東海東部では押型紋型式群の脇役であった撚糸紋の原体を流用した「ミオ坂式」の成立である。中部高地の充線鋸歯文は関東に影響して隆線の充線鋸歯文を成立させる。これがさらに広域に広がる文様となる。関東では貝殻条痕紋土器群(茅山型式群)の成立であり、北上してムシリ式を成立させるがこのムシリ式は体部の貝殻紋を縄紋に置換しており、縄紋条痕土器群(赤御堂型式群)の成立である。
 一方、九州では隆線による充線鋸歯文を口縁部文様として持ち、胴部装飾に押型紋の残る手向山式が前平型式群の分布圏まで席捲する。そして、沈線や刺突による鋸歯状・菱状の口縁部文様と縄紋系(縄紋→結節縄紋→複列結節→網目状撚糸)の胴部装飾の塞ノ神型式群となる。茅山系型式群は東北中部にまで分布を拡げ、西は瀬戸内地域にも類似するものの出土が見られるが、近畿・中四国の主体は塞ノ神型式群のようだ。塞ノ神型式群の平栫式と茅山型式群の鵜ヶ島台式・茅山下層式の文様は、遠祖が共通するとはいえども、異なった変化を辿った上で要素や図形に無視しがたい類似が有り、相互の影響を示すようである。
 早期末は茅山型式群の地域差の拡大が変動要因となる。近畿東部・東海では連続刺突を基調とする石山型式群が成立し、関東では列点状圧痕による鋸歯文を基調とする吉井型式群を産み、その後石山型式群と互いに近寄っていく。東北南部は幅広い鋸歯文を残す梨木畑型式群となる。道東で盛行する東釧路型式群は赤御堂型式群に羽状縄紋を成立させる。縄紋の使用は梨木畑型式群そして吉井型式群にも次第に浸透して行く。また、日本海に沿って山陰まで伝わったようだ。梨木畑型式群では文様帯が圧縮し、幅狭充線鋸歯文を成立させる。東海東部の吉井型式群に隆帯が発生し、木島型式群に変化する。この型式群には蕨手文も発生する。これら、幅狭充線鋸歯文・蕨手文・隆帯・羽状縄紋が組合わさった羽状縄紋系土器群(蓮田型式群)の成立をもって前期とする。
 一方、九州では塞ノ神型式群が退化してほとんど条痕紋のみになった後に微隆線による文様を持つ轟型式群が成立するが、この間の移行はよくわからない。また、石山型式群は北陸・近畿に残存するようだが(佐波式、粟津SZ)資料が乏しい。

前期
 類似性の強い花積下層並行の諸型式が道南から関東・中部高地まで広がる。ただし、道南・東北北部と中部高地は尖底を残し、その間の地域は平底を採用する。羽状縄紋は日本海沿岸に沿って北陸まで及ぶ。しかし、東海には木島系型式群が残り、近畿には石山系の刺突列を多用する土器、九州・中四国には丸底になった轟B式土器が広がる。また、韓国南岸にも類似する隆起線文土器が見られるが、条痕調整に無縁でかつ平底であるなど、文様のみの類似である。それらとの関係は不明だが、琉球に南島爪形紋系土器(東原型式群)が現れる。なお、琉球にはこれに先行するものとして無紋土器の段階があるとされるが、出自、内容など不明である。
 道東は文様が飽和して地紋に転落した綱文土器や押型紋土器から構成されるようになる。関東北は地域間の差が強まる。文様の重畳を極め一転飽和する道南・北奥、文様の消失傾向が有る中奥と東信に対し、南東北と関東はそれぞれなりに文様を発達させる。しかし、関東は文様帯に地紋を受け入れ崩壊の方向に向かう。一方、南奥の型式と南信の神ノ木式はそれぞれ文様を保持し、次段階に有尾式等を成立させる。
 木島型式群は南信の中越式と東海の清水ノ上式に地域分解する。中越式は羽状縄紋を採用し神ノ木式に転換する。清水ノ上式は、轟式由来の口−胴2列横帯を採用した羽島下層式に近づいて行く。羽島下層式は描線の多列化により単帯化し上半部と下半部の差異による北白川下層式に変化する。
 九州では、曽畑型式群の成立を見る。まず、横帯間に弧線や斜線を充填して行き、描線を沈線化して曽畑式に変化する。曽畑式は琉球まで分布を拡げる。曽畑式は文様の飽和により素文化し、口縁部の刺突列や体部の条痕のみになって行く。一時瀬戸内に分布を拡げる(彦崎Z式)。北白川下層式は北陸経由で羽状縄紋を受容する。以後も、前期後半を通して東方との密接な関係を保つ。
 中部高地西関東は逆に羽状縄紋を捨て、繊維混入もやめ、諸磯型式群を成立させる。諸磯型式群に属していた東関東は貝殻を地紋に採用する浮島型式群を作出し独立する。中・南奥は貼付文と鋸歯文の多用による大木3〜6式を成立させる。成立に関東からの影響が有るとともに以後の変化も主体性を持ちながら影響を与え合っており、諸磯型式群内の系列としておく。北奥・道南には円筒型式群が成立する。道東は、中葉の様相に不明な点が多いが、一度隆帯以外の装飾に乏しくなった後に刺突文の多用を経て北海道押型紋土器(神居型式群)の成立を見たようだ。
 前期末には北白川下層式が諸磯式への歩み寄りの末に全面縄紋地浮線文様となって、船元型式群に転換する。諸磯型式群は、北陸が福浦上層、関東が諸磯cという分化をしたのちに両系譜が入り交じり、さらに近畿から北奥の諸型式群に由来する系統を受け入れて複雑な変化を行う。

中期
 南九州の中期前葉には深浦式が該当する可能性が高いが、並行関係が明確でない。琉球には刺突を貝殻紋に代えた室川下層式が当るようだ。北九州から近畿は船元型式群が広がる。
 中部・関東・南東北は、前期末を引き継いで五領ヶ台式とその並行型式が装飾過剰な状況から簡素化の方向に向かう。北陸は、体部に縄紋を有しつつ文様に半隆起線を多用する方向に向かいそのまま、中葉に向けて繁縟化していく。上山田型式群と総称しておく。東海は胴部の文様・装飾を失っていく(北屋敷型式群)。中部高地・関東は2つの類型が交互に主系列となったすえに無地に簡素な口縁部文様と懸垂文を有するようになり、勝坂式と阿玉台式が成立する。南奥は縄紋地に角押文で文様を描く七郎内式が成立する。中奥は撚糸圧痕による簡素な口縁部文様と体部懸垂文になり北奥に近づく。
 北奥・道南は円筒型式群が継続する。道東も神居型式群が継続する。
 中葉では、南九州で船元からの影響が強まり条痕地に隆帯文を多用する春日式が成立し、この余波が琉球に及び面縄前庭型式群の成立を促した。東海は口縁部のみに文様を有する山田平式の展開の後に、船元式の影響で口縁と括れ部の2帯文様の北屋敷式に転換する。北陸は体部への文様の発展が著しい。勝坂式は半隆線と刺突列を併用しつつ文様帯の重帯を発達させる。阿玉台式は変化が少ない。七郎内式は胴部文様の発達が著しい。円筒型式群は文様が胴部に拡大し始める。道東は北筒型式群の祖型が成立しつつある。
 この中期中葉が、明瞭な差を持った型式数が最も多い時期である。道東と琉球は隣接地域との類似性が弱く、独自性が目立つ。道南から九州までは文様に隆線を用いることで共通するが、隆線以外の要素では、撚糸圧痕の東北(円筒・大木)、刺突列の中央日本(七郎内・阿玉台・勝坂・北屋敷)、半隆線の北陸・中部(上山田・勝坂)、副描線無しの近畿〜九州(船元・春日)と分かれる。勝坂式は2種を併用している。地紋を見ると胴部のみ縄紋の円筒・大木、全面縄紋の七郎内、地紋無しの阿玉台・勝坂・上山田・北屋敷、全面縄紋の船元、無し(条痕)の春日となる。
 後葉の変化は七郎内式が核になる。口縁部に突起やS字文、胴部に大柄渦文を発達させたわけだが、南へは口縁部文様の影響が強く伝わる。まず関東に加曽利E式を成立させる。曽利式後半に別の固有名を与えたいほどの変化をさせ、東海沿いに枠状の口縁部文様が進み、北白川C式に至る。西へは、信濃川をとおり胴部文様を伝えて唐草文を成立させる。北へは、胴部文様が主に伝わる。まず大木8式を成立させ、さらに円筒型式群を崩壊させる。道東には円筒型式群の残党を吸収したように北筒土器群が成立する。南九州では独自の阿高型式群が成立する。北陸は孤高を守りつつ、文様帯を縮小していく。

後期
 前葉。初頭には、瀬戸内地域で、帯状縄紋を多用する中津型式群が成立し、ただちに南関東まで伝わる。西日本では、頚部を無紋化し口縁と括れに文様が集中した縁帯文型式群に変化する。南九州では阿高型式群が続いているが縁帯文型式群の影響を受けて独自性を弱めて行く。関東は称名寺式が無紋化の方向に向かう。一方、南東北に綱取式を成立させる。大木10式は門前式に変化する。北東北は十腰内型式群の成立を見る。北海道には余市・北筒型式群。綱取1式で成立したシンプルな「斜繋渦文」は西は南九州まで、北は北東北まで伝播する。
 中葉。南九州から南島に市来型式群が広がり、衰退し、南島に荻堂型式群として続く。西日本は縁帯文型式群に統一される。関東から道東まで加曽利B型式群が広がるが、西関東・中部は西日本的な文様帯構成と羽状沈線の多用による高井東型式群として分離して行く。
 後葉では、関東に西日本的な口縁部文様と東日本的な胴部文様を持った安行式が成立する。西日本は文様帯内の地紋を失う方向であり、凹線文を用いる諸型式が成立する。東北から道南は磨消縄紋が発達し、新地型式群となる。

晩期
 前葉。琉球から近畿は全体に、前時期の系譜を引きながら簡素化していく。北陸・東海東部は西日本から離れ、東北由来の磨消入組文を精製土器の主軸に採用する。関東も安行式の伝統を保持しつつ磨消入組文を精製土器の主軸に採用する。新地型式群は亀ヶ岡型式群に発達。
 中葉。琉球を除く西日本には突帯文型式群が成立。弥生早期である。北陸・関東・東海東部で縄紋の消失に向かう。東北も入組文が解体していく。
 後葉。琉球はほとんど無紋化。西日本は瀬戸内を中心に突帯を持たぬ甕を特徴とする遠賀川式が成立。東日本には文様帯に縄紋を施さないことを基本とする工字文型式群。北陸はどちらとも距離をおく。東海西部は西日本から離れ水神平型式群(弥生前期〜中期中葉)が成立。東海東部・中部高地・関東は水神平型式群と工字文型式群の融合により須和田型式群(弥生前期後葉〜中期中葉)へ転換。道東は緑ヶ岡(前北)型式群。

続縄紋以降
 東北・道南は変形工字文土器群(弥生・続縄紋)に移り、中期後半には渦文を発達させる南奥・北東関東と、北奥・道南に分かれていく。このうち道南は続縄紋とされる。道東も続縄紋で、緑ヶ岡型式群直系の宇津内型式群が該当する。
 本州の大部分が古墳時代に入ろうとするときに宇津内型式群と恵山式の融合した江別型式群が成立し、北海道・北奥を占める。江別型式群は北大式を以て終わり、道南への土師器の侵入により、回転縄紋を多用する土器型式が日本列島から消える。
 この後、道南に擦文土器、道東にオホーツク土器が展開した後、鉄鍋とその模倣の内耳土器の普及により、深鉢主体で、主に隆線・沈線で文様を描く土器型式が日本列島から消える。
 なお、この間の琉球の編年はよくわからない。


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