「縄文時代」の始まり

last update (00/07/07)

1.発生

まだ調べが不充分であり、誤りかもしれないが、「縄文時代」という言葉は意外な人物に起源するかも知れない。

調べが不足であるということを先に説明する。「縄[文/紋](式)[(土器)(文化)/石器]時代」という用語が用いられ始めたのは昭和初年代のようであり、その出現・定着過程を辿るには、少なくとも当時の主要な論文発表の場であった4誌(「人類学雑誌」「考古学雑誌」「史前学雑誌」「考古学」)に目を通さねばならない。しかし、前3者のバックナンバーは筆者が容易に参照することができず、最後の「考古学」の復刻版のみ、暫く前に入手したのである。そして、別の意図を持ってそれに目を通しているうちに瞠目すべき文章に行き当ったのだった。

(考古学年報の)“時代区分に当つては、従来の「石器時代」「青銅器時代」(或は金石併用時代)「古墳時代」等の名称を廃し、新に、「縄文式時代」「弥生式時代」「祝部式時代」を設定し、其れが件別目録に精細 を際めむと欲した。”(森本六爾,「編集者言」,考古学第3巻第2号,昭和7年5月)

上の文章を信ずるならば“縄紋”を時代名として用い始めたのは森本である、あるいは森本がそう考えていた、さあらずとも少なくとも森本はそう主張していたわけである。その主張が的はずれでないことは、その翌月号に掲載された大場磐雄の論文で裏打ちされる。

“最近森本六爾氏は具体的な方法を提示し、日本の考古学的時代区分を「縄紋土器時代」「弥生式土器時代」「祝部土器時代」とした。”(大場磐雄,「日本縄文土器」考古学第3巻第3号,昭和7年6月)

筆者は不勉強故に下の一節こそ「縄紋時代」「弥生時代」の淵源と考えていた。それにも関わらず、戦前の山内の論文にそれらの用語が明確な形で現れないことを不思議に思っていた。そこには森本六爾との対立も微妙にからんでいるのであろう。

“縄紋式文化は先史時代、先史時代前期、石器時代、新石器時代、新石器時代本期等と称ばれて居る。これは弥生式文化を先史時代後期、金石併用時代、石器時代後期、亜新石器時代、又は誤つて青銅器時代と呼び、古墳時代を鉄器時代、金属器時代、原史時代などと称するのに対応するものであつて、歴史の有無又は力の材料の種類に拘泥した称呼である。・・(中略)・・凡そ利器或は歴史の有無を以つて文化を分類するのは、人を分けるに慎重又は財産を持ってするを同じく、甚だ表面的な取扱である、本人を姓名または渾名で呼ぶように、縄紋式文化と云ふ名称を使用するのが適切であろう。”(山内清男,「縄紋式文化」,ドルメン第4巻6号,昭和10年6月)

それにしても森本とは意外である。意外だというのは、森本が縄紋文化の研究者じゃないからなどという理由ではない。森本の主張する「縄紋」と「弥生」の関係に「時代」の語はあまりにそぐわないからである。初めに引用した文章の直後にはこう続く。

“新設定の時代区分は、例へば東日本の縄文式末期に於ける弥生式文化並びに祝部式文化の要素を摘出せむとする、学界の一新傾向に資するものとしては、より無理が尠いと思はれるからである。反之従来の時代区分は其の点暫々誤解を誘ふものがあった。”

なぜこれが「縄文」「弥生」を時代名に採用するべき理由となるのであろうか。むしろ、そのような見解(縄文式に弥生式や祝部式が併存するという思考)からは文化名には用いても時代名には用いるべきではないとの結論を導くのが素直なはずである。森本の本音はフランスを含めた世界一般の用法と異なる“青銅器時代”の撤回ではなかったのか。それを単なる撤回に見せないために口頭でささやかれていた山内等の考えを利用したのではないか。

「縄紋」と「弥生」を時代名として用いることを活字の形で広めたのは森本とその弟子達の仕業と言ってよいのかもしれない。しかし、それが時代区分として広く受け入れられるためには、この2つの文化がほとんど併存することなく、速やかに切り替わるという学説の浸透を必要とする。

(続く)


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