考古学的脂肪酸分析の問題点(発表記録)

難波紘二・岡安光彦・角張淳一


このページは、日本考古学協会第67回(2001年度)総会で実施された標記の研究発表の記録である。早傘が録音テープから文字化し、難波紘二氏に校正を御願いした。発表要旨は当日会場で頒布されたほか、事前に岡安氏のサイト角張氏のサイトで公開された。この発表に関しては、事前公開を受けて発表前から南河内考古学研究所喫茶室で議論が続けられている。合わせて参照されたい。以下の発表記録のうち、小見出しは掲載者が付与したものである。


【はじめに】

 広島大学の難波でございます。私は考古学協会の会員ではありませんが、この度、「脂肪酸分析の問題点」について、発表する機会をあたえてくださいまして、考古学関係者の皆様にお礼を申し上げたいと思います。私の発表内容はすでに抄録の方に詳しく記載してありますので、ここでは簡単にその要点を紹介するにとどめたいと思います。

【抄録の訂正】

 まず最初に、抄録にはロットレンダー等の文献の所在が確認できなかった、と書いたのですが、その後の調査で判明しましたので、訂正をさせていただきたい。私は雑誌論文とばかり思っていたのでありますが、実際には単行本でありまして、1979年にラインラント・フェルラークというドイツの出版社から出た本で、国内には一冊もございません。それで海外からコピーをいただいたのですが、ごらんのように第18回の考古学関係の国際学会の紀要でございます。ここをごらんいただければおわかりと思いますが、行末が不揃いでございまして、これはタイプ原稿をオフセット印刷したものでございます。これを終わりまで読みましたが、引用文献が一切ない、というものでございました。しかしまあ、実在はしておりましたので、訂正させていただきます。

【対照実験の不備】

 本論に入らせていただきますが、まず「馬場壇A」について行われた対照実験でござい ます。
 これは中野さんがお示しになっているデータでありますが、48ヶ月にわたって土の中での脂肪酸の分解が、ほとんど毎月調べられているのですが、ところがこれはよく見ますと、植物油の米脂を土壌中で分解させた、となっております。米脂の主要な脂肪酸はパルミチン酸(C16:0)、オレイン酸(C18:1)、リノール酸(C18:2)であると書いてございまして、動物の脂肪の分解を48ヶ月間調べたものではないのですね。つまり旧石器時代には存在しない米脂の変化を調べたものでありまして、これはですから対照実験としては不充分だろうと思います。
 それでは動物の脂についてはどういう風に調べられたかと申しますと、これがそれでありまして、エゾジカの脛骨を埋蔵した結果を図に示してあります。最初5%含有していた脂肪は、埋蔵時間の経過とともに減少し、14ヶ月で0.3%、23ヶ月で0.26%になったと書いてございます。つまりエゾジカの脛骨は御承知のように骨の中に脂肪があるわけですね。それを土の中に埋めたんで、これに対して石器は表面に脂が付いているはずですので、全然条件が違うものを、わずか2回しか測定してございません。すなわち脛骨の脂肪は骨髄にあるので、石器表面の脂肪と比較することができません。また変化が測定されたのは23ヶ月にたった2回でありまして、この結果を20万年も延長することは到底不可能であります。
 以上によりまして、この中野さんの、20万年前の脂肪酸が分析できるんだ、という主張の妥当性を支える対照実験は、科学的には非常に不完全なものである、といわざるをえないと考えます。

【高い検出量】

 次に「馬場壇A」の測定結果でありますが、検出脂肪量が異常に多い、ということがいえます。これは馬場壇の石器と石器側土の一部でありますが、たとえばここでは4gの石器から1.2mgの脂肪が検出されておりますし、あるいは57gの側土から47.5mgの脂肪が検出されております。つまり石器・側土とも47ないし83プロミレ(‰,千分率)の脂肪が検出されております。この量は果たして多いのか少ないのかということですありますが、文献によりますとロットレンダー等は骨を燃やした炉床の土の脂肪含量を分析しておりまして、これはどんどん骨の脂肪が融けますから土の中に浸み込みますね。それでも200‰という値であります。それからスポカール等は、1万年前の化石骨から脂肪を抽出しておりまして、その量が大体60‰という量でありまして、この馬場壇の47〜83‰というのはですね、私は非常に高いと思います。「馬場壇A」には化石は全然残っていないわけです。どうしてここから化石骨より高濃度の脂肪が検出されたのか、という疑問が生じてまいります。

【パルミトレイン酸の問題】

 次に不飽和脂肪酸の代表でありますパルミトレイン酸の問題でありますが、これが「馬場壇A」の中野さんがお示しになったデータであります。御覧のとおりC16からC24までありまして、「:0」は飽和脂肪酸、「:1」などは不飽和脂肪酸のピークです。「:」の後が不飽和結合の数であります。御覧のように石器NO.6〜NO.17まで、ここのC16:1(パルミトレイン酸)のところの山が、全部の石器に出ておりまして、土壌についてはもっと高いパルミトレイン酸が出ております。ところが中野さんが対照として用いた北海道の忠類村から発掘されたナウマン象ではC16:1が0なんですね。で、ナウマン象にパルミトレイン酸がないのに、馬場壇の石器と土壌ではパルミトレイン酸が検出されております。従いまして、普通に解釈すると、馬場壇には他の動物はいたかもしれないけれど、ナウマン象だけはいなかった、というのがこのデータの常識的解釈だろうと思います。
 パルミトレイン酸の問題点を続いて述べます。飽和脂肪酸と不飽和脂肪酸というのは炭素の数は同じなのでありますが、物理化学的性状は不飽和結合があるために大きく変わってまいります。これは飽和脂肪酸のC10:0〜C24:0までの融点を示したものでありますが、御覧のように炭素数が増えると融点がどんどん上がってまいりまして、C24:0では90度位の融点になります。つまり常温ではこれは固体である。ところが、不飽和脂肪酸の方はパルミトレイン酸は大体融点が0度近辺でありまして、もっと不飽和結合が増えるアラキドン酸(C18:4)になると -50度でありまして、大体常温ではこの青で示しました不飽和脂肪酸というのはサラサラした液体であります。この液体のパルミトレイン酸が20万年も石器表面にくっついているというのは私には考えられません。普通なら流れて土の中に浸み込んでいくか、分解して消えてしまうはずであります。

【何が分析されたのか?】

 ではなぜ馬場壇の石器にパルミトレイン酸が出てきたのか、という問題が一つあります。これは中野さんの馬場壇の石器データを、馬場壇石器の脂肪酸組成を、文献から集めた他のいろんなものの脂肪酸組成と比較した表であります。で、これは新鮮なバター、それからこれはヒトの脂肪の分析結果。それからボグ・バターというのはヨーロッパの沼地などから出た脂の固まりであります。これはヨーロッパの埋葬地の土を分析したもの、これは日本の青森の墓地の土を分析したもの、奈良時代か平安時代であります。これはナウマン象。
 御覧のとおり、馬場壇石器ではC16:1(パルミトレイン酸)が7%も出ておりますが、他のデータを見ますと、墓地の土からはヨーロッパも日本も0ですね。ナウマン象も0であります。それからこの辺のC18:1というオレイン酸ですが、これもですね、この辺(墓地)は非常に低い。ところがこれC18:4で高い値が出ておりまして、この数値をよく見ていただければ、やはりこの馬場壇石器の脂肪の値はヒトの脂肪と新鮮なバターの中間に位置するような値でありまして、とうていナウマン象ですとかあるいは墓地の脂肪に似た値ではありません。
 別な言葉で言いますと、これは“新しい”脂肪ではないかということが言えます。それから、組成はバターとヒトの体脂肪の中間に類似しておりますので、どうもこれはヒトの脂肪ではないかということが、疑われるわけであります。別な言葉で言うと、ひょっとするとこれは現代人の手の脂が付着したものを見ているのではなかろうか、という可能性があります。

【原著論文がない奇妙さ】

 次にですね、古い脂肪酸が検出された先例はどういうものがあるかと言いますと、1979年にクレプスらがシベリアの凍土から発掘されたマンモスの脳を調べておりまして、これ4万年前のものですが、これはフリーザーに入ったような状態ですので、ここでは不飽和脂肪酸が検出されております。それからロットレンダー等が79年に3万4千年前の、先ほどの炉床の土から、不飽和脂肪酸を検出したと書いておりますが、これは先ほどの講演原稿でありまして原著論文がないし、引用論文もないので、それ以上確かめることはできませんでした。もう一つは1981年に、プレイストリー等がネーチャーに発表した論文でありまして、これはニューメキシコの砂漠の洞窟から見つかったトウモロコシの種から、これは1500年前のものですが、不飽和脂肪酸を検出したと述べております。そして彼らはその中で、これはこれまで検出された最も古い不飽和脂肪酸検出例だというように主張しております。
 ということから見ますと、「馬場壇A」のデータが出るのは89年だと思いますが、それにしても「馬場壇A」発掘の時点で1万年より前の不飽和脂肪酸を確実に検出した例はなかったであろうということができます。馬場壇は20万年前でなくて14〜15万年前かもしれませんが、おそらく10万年前より古い石器から不飽和脂肪酸が検出されたというのが事実であれば、それは驚天動地の大事件、大発見だということができます。それにもかかわらず、このことはネーチャーにもサイエンスにも全然報告されておりません。それを私は大変不審に思う、原著論文も発表されていないのを、大変不審に思うわけであります。

【間違った統計学の利用】

 最後になりますが、なぜあのデータからナウマン象の脂肪だというふうに解釈されたのかという問題があります。これは中野さんの報告にはですね、ラグランジェの未定係数法を用いてコンピューターで解析したらそうなるんだということが書いてあるわけです。これがその方法で、この分析チャートはあちこちに何度も出てくるんですが、ラグランジェの未定係数法というのはですね、江戸時代から知られているツルカメ算というのがありますね、ツルの足は2本でカメの足は4本である、ここに足が何本ある、その時ツルは何匹、カメは何匹いるか、というのがありますが、あれと同じなんですね。ツルカメ算は、ラグランジェの未定係数法と同じように、ツルとカメしか存在しない、という前提がなければ解けません。つまりそれぞれの動物に足が何本あるか、それぞれ何匹いて、足の総数が何本か、というのは言えますが、この逆ですね、つまり足が36本あっても、ツルとカメしかいないという保証がなくて、さらに犬もいればカラスもいたかも知れない、ということになると話は複雑になりまして、動物の数は決定できない。ですから、得られたデータをどう数値処理しても、だからこの動物が調理されたんだ、という逆の言い方は絶対にできません。つまり、絶対にこの動物しか調理していないという保証がなければ、脂肪酸分析から、数理処理によってある動物がいたかどうかは決められません。したがって、これは基本的な数理統計上の方法論的なミスだと私は思います。

【結論】

 以上もうしあげてきて、私が結論的として申し上げたいことは、抄録の一番最後の結論のところに書いておいたんですが、「馬場壇A遺跡」において石器から「20万年前の動物脂肪が検出された」という主張には、確実な証拠が全然ありません、ということです。まして動物種を確定するということは、用いられた方法を見る限り不可能であります。従って「馬場壇A」はいくつかの科学的データで支えられているのですが、その証拠のうち「脂肪酸」に関しては、これはまったく存在しないものとして扱うのが、私は科学的に正しい態度ではないかというふうに考えますので、ここで発表させていただいたわけであります。どうぞ忌憚のない御意見、御批判をたまわりたいと思います。どうもご静聴ありがとうございました。 (拍手)


(司会)ただいまの発表について御質問のある方いらっしゃいますでしょうか ...
 いらっしゃいませんか? ......
 じゃあ、いらっしゃらないようですのでこの発表は終わりにしたいと思います。どうもありがとうございました (拍手)


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